f−5 帰郷

f−5/1 故郷からの知らせ

「セッンッセ〜、あっさで〜すよーっ!」

昨夜はあまり眠れなくて、ようやくウトウトしかけたところを、サワちゃんに布団を引っぺがされ、私は少々不機嫌な朝を迎えた。

あまり寝ていないハズなのに、長い夢を見ていたような気もする。

薄れゆくその夢の記憶の片隅に、なぜかまだ幼かった頃の姉さんと、山田先生の顔が残っていた。

「うぃ〜す。センセー、生きてますぅ?」

眠い目をこすり、上半身だけ起こした私に、サワちゃんはニンマリ笑顔で挨拶をする。彼女の顔面に、右ストレートの一発も打ち込んでやりたい心境だったが、何とかそれをこらえて、私は渋々布団をたたんだ。

部屋の時計は、すでに9時をさしている。

チェックアウトは10時なので、急いで起きなければいけなかったのだ。

何とか時間ギリギリで朝食を済ませ、昨夜の事を心配する女将に、もう一度礼を言ってから、本日の目的地である余呉湖へ向かおうと準備していると、私の携帯電話が鳴った。東京のスタジオにいる、ハルちゃんからだ。

「何、ハルちゃん、こんな朝っぱらから?」

『先生っ、た、たいへんですっ!!』

受話器の向こうで、切羽詰まらせた声でハルちゃんが叫んだ。

『先生のお母さんが倒れて病院に運ばれたって、熊本から電話がっ!』

「……………………………え?」

一瞬、彼女の言っている意味が分からず、私は間の抜けた声をあげた。


 ここ数年、母は心臓を病んでいて、いつ死んでもおかしくないという話しは、父から何度か手紙をもらって知っていた。

だが、今さらこの私に、どんな顔して帰省しろというのだろう?

「いいんですか、先生?」

「何が?」

今日の撮影のために、機材をバイクに積んでいると、サワちゃんが珍しくも神妙な面持ちで聞いてきた。私と母の不仲は、明子から聞いて知っているのだろう、どこか遠慮がちに聞こえる。

「何がって、先生のお母さんが入院したんですよ? 心配じゃないんですか?」

「いいよ。たぶん大したことないから」

「で、でもぉ〜」

「………………………」

私はそれに答えず、いや、答えられず、そのまま余呉湖へ向かってバイクを走らせた。


 余呉湖とは、琵琶湖のすぐ北にある小さな湖で、天女の羽衣伝説でも有名な場所だ。湖岸の『衣掛柳』は、見ただけで伝説の中にでも迷い混んでしまったかのような、錯覚を感じさせるほど素晴らしい巨木である。

「わおっ、何か分かんないけどスゴイッ!」

伝説の木に興奮したサワちゃんは、木のすぐ横に自分のバイクを停めて、メインである余呉湖には目もくれずに、衣掛柳を撮りまくった。

母の事を心配しようとしない私を、彼女は気にしているようだったが、それでもフィルムを1本も撮り終えた頃、まるで思い出したように、

「あっ、そーだセンセー」

「ん、何ぃ?」

「今朝、宿の人が言ってたんですけど、海津大崎の桜が見頃だそうですよ」

「えっ、うそっ、マジで?」

海津大崎の桜とは、私的に桜名所ランキングベスト5に入れている名所である。

琵琶湖湖岸に沿って咲き乱れる桜と、背景の山と青空が湖面に溶け込むように反射したときの美しさたるや、私の撮影技術をもってしても、表現しきれないほど素晴らしい。

開花の時期や天候、私自身のスケジュールの関係上、今までに数回しか撮影に挑戦できなかったが、いまだに満足のいく出来の作品は撮れず、いつか必ず成功させようと、前々からずっと機会を狙っていたのだ。

空を見上げれば、雲一つない快晴状態。青空に映える桜を撮るには理想的だ。

「行くよ、サワちゃんっ!」

「え、えええっ? ちょ、ちょっと待って下さいよぉ〜っ」

私達は、再び琵琶湖を目指した。

せっかくの衣掛柳の撮影の事も忘れて。

いや、忘れていたのではない。

ハルちゃんからの電話を受けてから、私の頭の中はカラッポのままだったのだのだ。


 海津大崎の桜は、県道557号線沿いに咲き乱れ、まるで甘い香り漂う桜のトンネルのようになっていた。

だが、ここも今では有名な観光地。県道沿いの道端に、花見客の乗用車が何台も停まり、せっかくの桜並木の美観を、ものの見事に台なしにしてしまっていた。

「うあっ、もーっ、だから車ってキライ! これじゃあ、せっかくの桜の写真なんて、撮れないじゃないっ。被写体のそばに車を停めるなんて、何て芸術的センスのない観光客どもなんでしょっ!!」

不満げにサワちゃんは言うが、そういう自分も、さっきは衣掛柳の横に自分のバイクを停めたことを、すっかり忘れてしまっている。

身勝手な言い分のように聞こえるが、まあ人なんてそんなものだろう。

観光地で自分のバイクの写真を撮るのは記念になるが、他人の車では記念にならない。かつて私が、摩周湖でおばさん軍団に撮影を邪魔されたときのように、撮影中は自分以外の存在は邪魔になってしまうのである。

観光客の車を恨めしげに見ながら、私達は桜と湖が奇麗に撮影できる場所がないか、そのあたりを見て廻った。

だが、どれだけ見渡しても、桜より車や道端で花見を楽しむ家族や、少し広い路肩に陣取り、早くも宴会を始める酔っ払いの姿しか目に付かない。

本当にこの人達は、桜を見に来たのかどうだかも、かなり怪しい。

「ああ神よ。どうかこの観光客達を、地獄に叩き落としてやって下さい」

「サワちゃん、滅多なこと言わないでね」

天を仰ぎ言う彼女に、私は苦笑いを浮かべて言うが、正直、私も同じ気持ちであった。せっかくの桜並木も、これでは写真に撮っても、フィルムの無駄遣いにしかならない。

「まったく……………………」

サワちゃんにか、それとも観光客達にか、私は嘆息して、肩に担いだカメラバッグと三脚のストラップの位置を直した。

今回は撮影を諦めようかと思った、が、

「おっ、いいねぇ、うん」

少し大きな桜の木の下で、花見をしていたある家族が目に入った。

若い両親と子供が2人、仲良く花見弁当を食べている、ほのぼのとした一家の姿。桜舞い散るその下で、一家団欒の姿は実に画になるではないか?

妙に引きつけられるものを感じた私は、その一家にレンズを向けた。

本来なら撮影の邪魔でしかないハズの観光客が、まさかこうも画面に映えるとは思いもしなかった。

サワちゃんもそれに気付いたのか、私の横でカメラの準備を始めている。

「こうなったら、他の観光客が邪魔ですね」

「そうね。何とかならないかしら?」

「ああ神よ。あの家族以外の観光客を、地獄に叩き落としてやって下さい」

「おいおい」

私とサワちゃんは、その家族に撮影の許可をもらった。

写真は作品となって残るので、黙って撮るわけにはいかないのだ。

ただ、許可をもらうにも多少のテクニックが必要だ。

下手な交渉の仕方だと、相手が緊張して、いい写真がなかなか撮れなくなる。

まあ、相手をリラックスさせるのも、写真家の仕事の内だ。「七五三」や「成人式」の撮影だと思えば何でもない。

こういったときに役に立つのが、サワちゃんのような明るいキャラの存在である。わざと戯けてみせて、相手の、特に子供に気を許させるテクニックに関しては、スタジオで彼女の右に出る者はいない。

「は〜いはい、じゃあ撮るからねぇ、じっとしててね〜♥」

サワちゃんが子供の相手をしている間に、私が構図を決める。

通行人も多い状況だけに、余計な被写体が入り込まないよう注意しながら、絶妙のタイミングを見計らってシャッターチャンスを狙う!

いつものことながら、この緊張の一瞬はたまらない。

「どうも、ありがとうございました」

今回はなかなかいい写真が撮れたようだ。

最初予定していた、琵琶湖の夕景は撮れなかったが、それはまた次の機会ということで。

再来週の函館での仕事まで時間はあるが、これ以上、滋賀県に残っていても仕方ないし、東京のスタジオを、ハルちゃん達に任せっきりにしておくわけにもいかない。今回はこのまま、東京に帰るとしよう。

「じゃあ帰ろうか、サワちゃん?」

「うぃ〜っす!」

機材をバイクに積んで、帰り支度をしていると、さっきの家族の子供、たぶん下の妹の方がやって来て、笑顔で弁当箱を差し出した。

中には卵焼きが二切れ残っている。

「はいっ、コレ」

「え? ああ、ありがとう」

さっきの写真のお礼のつもりなのだろう、ニッコリと笑って言う彼女に、私とサワちゃんは呆気にとられながら、言われるままにその卵焼きを口に運んだ。

「んっ、おいしっ!」

ほんのり甘く、子供用に味付けされたその卵焼きに、私は思わず感嘆の声を上げた。

その私の感想に満足した彼女は、嬉しそうに母親の所に戻って行った。

だが、私はその後ろ姿を見て、

(ねっ、姉さんっ!!)

一瞬、少女の後ろ姿が、死んだ姉にだぶって見えた。

もちろんそれは、ただの見間違えである。

だが、それだけではなかった。

少女の後ろ姿は、私の頭の中の奥底で眠っていた、今まで曖昧だったある思い出を、鮮明に蘇らせたのである。

桜を見にやって来た幸せな家族。

一家団欒に過ごす休日の平和な情景。

そんな経験が、昔、私にも………………。

「そうか、だから熊本城なんだ」

「え、何か言いました?」

口の中に残ったさっきの卵焼きの味は、私がずっと昔に忘れた家庭の味がした。

「サワちゃん、先に東京に帰っててくれる」

「えっ、ああ、はい、分かりました。それで先生はこれから?」

「…………ちょっと、実家に寄ってくるわ」

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