パタヤ商売編

第41話)メイクマネー!何でもやってみる宣言

パタヤに移住してから半年以上が過ぎただろうか。もう一年近く経ってしまったような気もする。さほど代わり映えしない季節のせいもあるのだろうが、今日が何月何日で何曜日なのか、週末だとか休日といった日付の感覚はいつの間にか消えうせてしまった。ただ目の前にのんびり横たわる開放的な常夏の空間に、日々ダラダラと我が身を任せ続けているだけだ。もちろん酒浸りの毎日なのでまったく自堕落な生活ぶりである。


とはいえ心中には常に焦燥の虫が忙しなく居座っており、差し迫ってその理由は金銭的な問題であった。時の経過と共に当然、手持ち資金は減り続ける一方で、いつか文無しになって日本帰国の日がやってくるのでないかと悪夢へのカウントダウンが脳裏をよぎる。同棲する恋人のような存在であったタイ人女性エルがパタヤを去り、孤独な一人暮らしは味気なく質素なものへと変わっていった。


出産後、エルは何か機会があれば子供を連れてパタヤにやってきた。エルと欧米人の彼氏の間に生まれた男の子は見る度に大きくなり成長を続けていた。クリクリと大きな瞳のはっきりした顔立ちに色白の肌、そして何より金色がかった髪質が、欧米人の子供であることを主張していた。チューレン(ニックネーム)はアレックス。僕とエルの間に存在していた恋愛感情は最早どこかへと押しのけられ、ただ新しい生命に愛おしく接するように穏やかなひと時が流れるだけだった。


そんな僕らがベビーカーを引いて外出すると、顔なじみのタイ人たちから驚きの反応を向けられた。「あれっ!?あなたたちの子供じゃなかったの?」と遠慮知らずの質問を投げかけられては、苦笑してごまかす。通りですれ違う人々も、初めはベビーカーの中にいる赤ん坊に関心を示すものの、すぐに不思議そうな表情で僕を見返して確認するといった感じだ。間男である僕はやるせない羞恥心に苛まれるばかりだった。アレックスの存在は僕とエルの距離感をいっそう疎遠なものにさせた。


そして、リュウさんは、そんな僕の思いやそれまでの経緯を冷めた目線で全て見透かしていたようだった。


「俺も他人(ひと)のことは言えないけど、タイに嵌った男は必ず一度はタイ人女性にも嵌っちゃうんだよなぁ。特にパタヤは出会いの巣窟みたいな街だしね。でも、女に溺れてしまったら、周りが見えなくなって、他に何も出来なくなってしまうからさ。ヒロ君には悪いけど、実は恋愛と仕事の両立は難しいと思ってたんだよ。しかもここは日本じゃなくタイだしね。はっきり言えば、女にうつつを抜かしているままなら俺は何も一緒に出来ないっていうかさ。でも、それを否定する権利は俺にはないから様子を見てたんだけどね。それに何を言っても、自ら経験しないと分からないことだからさ。まあ、頑張ってお金を持てるようなれば、またいつでも恋なんてできるし、何かを手にした後でついてくるものだと思うよ。これでようやくヒロ君も一皮剥けたんじゃないかなぁ…」


ズバリ言われてしまった。


確かにタイ移住を始めてから僕の気持ちはというと、エルと甘い生活を送りながら、リュウさんと何か商売ができれば…と淡い期待に胸膨らませていた。しかし、普通の恋ならいざ知らず、異国でのふしだらな三角関係に身を焦がしていた僕の現実は、リュウさんの言う通り、情欲に溺れ、商売を始めることへの情熱をなおざりにしているといったものだった。他人から見ればフワフワと南国での恋に浮ついた堕落者の象徴のように映っていたのかもしれない。それにタイ語はおろかタイ事情にも疎い、無知な貧乏旅行者の成れの果てといった按配である。それが色恋沙汰などに夢中になっているようでは、まったく何の役にも立たないということなのだろう。


リュウさんに指摘されて、自分が置かれた現状を改めて見直すことになった。このままではいけない。もう、しばらく女は要らない。いや、そもそも恋愛などやっている場合ではないじゃないか。先ずはパタヤに長く居続けるために何か行動を起こして金を稼がなくては……。モヤモヤと鬱屈していた感情はやがて手の平を返すように金儲けのモチベーションへと変わっていった。とにかく何でもいい、何かやらねば、どうにかして金を作らねばと、メイクマネーだけに全身全霊を捧げる覚悟を決めた。それはタイ移住を決めた時の覚悟よりも、いっそう金銭的にも追いこまれた精神状況であり、何か夢を実現させて成り上がってやるという思いはすでに消えうせ、当面タイで生き残っていくための生活費を稼がなければヤバイという危機感に似た思いだった。


それまでタイに対して抱いていたイメージ、淡い空想とか夢、希望、意地、プライドなどの類は全てかなぐり捨てた。自分が今まで経験してきた日本での仕事とか学歴、価値観なんてものは異国の地では全くといっていいほど何の役にも立ちはしない。ちっぽけな一人の人間(一個人)として、様々な人種が入り乱れるタイで、日本人の自分がいったい何が出来るのかということを考えるようになった。


タイの法律なんて詳しいことは分からないが、もはやグレーゾーンでも厭わない。強制送還されるようなことさえしなければOKというのが自分の中での基準となった。ここから這い上がらなければ先はない。もっと貪欲に行動せねば何も生まれない。泥臭いことでもいいではないか。とにかく何事も成しえぬままにジリ貧になって日本に帰国するのだけは勘弁だった。


自分の中に芽生えたヒントは、更なるタイ人化を遂げることだった。


当然タイでの暮らしが長くなればなるほど、時間の過ごし方(捉え方)が周りのタイ人同様のんびりお気楽なものに変わっていく。毎日代わり映えなくダラダラ続く熱帯気候のせいだろうか。ピッタリサイズの日本物の衣服は着用しなくなり、気だるい環境に適応するようにラフでルーズな服装を好むようになった。陽射しを避けるための帽子にサングラス、ゆったりサイズのTシャツ、簡易パンツ、サンダルといった身軽に動けるシンプルな装いだ。市場でモノを買い、毛嫌いしていた屋台を重宝するようになる。やがて衣食住の全てにおいてタイにどっぷり我が身を委ねるようになると、肉体的にも精神的にも日本人としての感覚がぼろぼろと脱皮するように剥がれていく。


それは旅行者当時の僕が初めてリュウさんに接した時に感じた(共に時を過ごすうちに感じていた)違和感と同質のものに感じられた。タイに長期滞在している者がまとっている独特の雰囲気とでもいうのか。身なりや風貌に滲み出る、なんだか怪しく、如何わしい感じ。どこか旅行者とは違う異質のオーラ。タイの環境や社会に適応するために変化を遂げたであろう価値観。特に同じ日本人として見た時にリュウさんに色濃く感じられた違和感だった。


言うなれば、日本人からの脱却、そして、タイに同化すること。


それまで日本で暮らしてきた中で自らに染みついた文明的な匂いというか、こびりついた日本人的な発想、考え方などを一切捨て去り、一人の人間として先ず裸一貫になること。そして、タイ人みたいにもっと単純に物事を捉え、野性的に行動するというか、より原始的になること。要するに「郷に入っては郷に従え」。いっそうタイの深部にまで足を踏み入れ、タイ人の暮らしの中に溶け込み、彼ら同等の存在になることで、色々と見えてくるものがあるのではないかということだった。


エルが去り、独り身になった僕は再びリュウさんと四六時中、行動を共にするようになった。先ずはリュウさんに取り入らなければ先はないと改めて思い至った。資金力に乏しい自分ができることは、何とかリュウさんから金を引き出して商売へと導いていくしか道はなかった。彼が関心を寄せていることに逐一目を配り、飲み屋で口走る荒唐無稽なアイデアとか陳腐な冗談話など、些細な事柄に対しても真摯に思いを巡らし、妄想を膨らませ、何か実現化できるものはないかと知恵を振り絞る。


大きな話をしても簡単に金が出ないことは、それまでの付き合いで何となく分かっていたことだった。それはタコライスの案件がむげに却下されたことで承知済みだった。それに何より、僕自身が何か率先してアクションを起こさなければ何も始まらないし、リュウさんにとって使える人間だとアピールせねば先はないようにも思われた。


リュウさんは昔、日本で着物を売る商売をしたことがあると言っていた。それにタイで何か"和"に関する商売をしたいとも話していた。和物が好きだという彼はタイの市場で和柄のアロハシャツの古着を買い集めては好んで着用していた。普段持ち歩いているノートには乱雑に書かれた商売のアイデアとか図案などに混じって、暴走族や不良が好みそうな四字熟語とか、色んな書体に似せた漢字の落書きがそこかしこに踊っていた。そういえば、リュウさんの部屋を訪れた際、日本から持参したという漢字の書体字典や、家紋が掲載された書籍などを見せてもらったことがある。


そっち系で何か商売を考えれば興味を持ってくれるのではないだろうか。僕はリュウさんに提案してみた。


「前にリュウさんの部屋で見せてもらった漢字とか家紋の本あるじゃないですか?素人考えなんですけど、あれを使ってプリントしてTシャツとか作ったら、市場辺りでタイ人に売れませんかねぇ?漢字とか家紋のデザインでサムライTシャツみたいな。欧米人観光客にも受けるかもしれませんし…」


「でしょー!ヒロ君もそう思った?俺も和物が好きだからさー。あの本が何か商売の役に立つかもと思ってタイに持ってきてたんだけどね。うーん、でも漢字Tシャツかぁ。どうだろうねー」


リュウさんは予想以上の反応を示し、話に乗ってきた。


「手書き風というか書道っぽい崩した感じとか、隷書体とか象形文字みたいな字体まで色々掲載されてましたよね。あれを参考にしてロゴマークみたいな感じでデザインすれば、意外に面白いんじゃないですかねぇ。浅草とか東京タワーで売ってそうな日本定番のお土産Tシャツみたいなノリというか…」


「うーん、"東京"とか"一番"、"必勝"みたいなやつねー」


「そうです。あの手のTシャツってタイであまり見かけたことないですし。どうなんでしょうかね?Tシャツのセンターに大きく漢字一文字でもいいし、胸元にワンポイントとか。袖口とか襟ぐり後ろに小さい家紋みたいなマークがあっても可愛いと思いますけど」


「なるほど、意外にいいかもね。漢字Tシャツかぁ。タイ人とかファラン(欧米人)をターゲットにするなら、やっぱりベタなやつがいいのかなぁ…」


そう言って、リュウさんはいつも持ち歩いているノートを取り出し、Tシャツの図柄を描くと、「愛」、「恋」、「心」、「誠」、「武」、「龍」といった具合に適当に思いついた漢字一文字を書き出し始めた。


「タイ語と英語で読み方とか意味とか、説明表記みたいに脇に小さく書いてあっても面白いかもしれないですね」


「なるほどね。やっぱり分かりやすくて、人気がありそうな定番の漢字に絞ったほうがいいのかもね。まあ、一文字だけでもいいけど、熟語とかことわざ系もありかもね。パタヤでよく見かける"NO MONEY, NO HONEY"とか、"GOOD GUYS GO TO HEAVEN, BAD GUYS GO TO PATTAYA"みたいな感じとかさー」


「ははは、そう言われてみれば、よく売ってますよねー。あれって売れてるんですかね。やっぱり観光地だから、パタヤ特有の何かひねりのきいた文句の方がタイ人とか旅行者受けするんですかね」


「その辺が難しいんだろうけど、やっぱり当たった時がデカイんじゃないかなー。あとは座右の銘とかね。俺が好きな言葉は”虎穴に入らずんば虎子を得ず”なんだよね。でも、これだと英語とタイ語の説明書きが長くなってしまうかな。ヒロ君は何か座右の銘とかあるの?」


「うーん、強いて言えば”シンプル・イズ・ベスト”ですかね。でも、そういう真面目系ワードもありですよね」


「あとは家紋だね。俺はシンプルな菱形を四つ組み合わせた『武田菱』が好きなんだよねー」


「格子柄みたいなやつですよね。あの形は日本古来というか和風ってイメージがありますよね。武田といえば武田信玄の風林火山ですか。それに対する上杉謙信の毘沙門天。戦国時代の軍旗とかもいいですよね」


「そうそう。家紋に旗印ね。俺も着物の商売してる時に勉強したけど、意味とか色々あって奥が深いんだよね。有名どころだと徳川家の『三つ葉の葵紋』ね。あと豊臣家の『桐紋』は日本政府と同じだから有名だよね。知ってるでしょ?500円玉とかパスポートに印刷されてるやつね」


「ああ、なるほど、そう言われればそうですね。でも、あんまりデザインが複雑すぎるとプリントするのが大変だろうから、シンプルな方がいいんじゃないですかね。あの、大吉、大吉みたいな漢字が並んでるやつありましたよね、あれって誰でしたっけ?」


「それは石田三成の『大一大万大吉』って旗印じゃないかな。あれだと漢字を組み合わせたものだから、タイ人とか外人に好まれるデザインかもしれないね。チョクディー(ラッキー)みたいな雰囲気で売ってさ。あとはシンプルなデザインで言えば、真田家の『六文銭』とかも渋いよね」


「やっぱり武士系はいいですよね。僕は”花の慶次”の前田慶次郎が大好きなんですよ。一夢庵風流記って原作本があるんですけど。その中で慶次の盟友で直江兼続って上杉家の武将が出てくるんですよ。知ってます?彼の兜には大きく『愛』って文字があしらわれているんですけど、この字面(じづら)が渋くて格好いいんですよねー」


「へぇー。まあ、でもそうなったら漢字Tシャツと家紋Tシャツで、色々とシリーズ化できそうだね」


「いいですねー。でも、家紋とかって著作権の問題ありませんかね?勝手に使って商売してもいいんですか?」


「家紋自体は大丈夫だと思うよ。まあ、漢字も本に掲載されてるような書体とかフォントには、製作者とか出版元の著作権があるかもしれないけどね。でも、タイの市場なんてコピー商品で溢れ返ってるから。そんなこと言ってたらキリがないよ」


「ははは、そうですかね。まあ、相当売れて目立つぐらいまでにならないと、訴えられるなんてことはありませんよね」


ポンポンと会話が弾み、二人の間で面白いように妄想が膨らんでいく。それが僕とリュウさんが初めて意気投合し、共同作業を始めた瞬間だった。気づくとリュウさんのノートには、色んな漢字や家紋といった落書きのアイデアたちがびっしり書き込まれていた。


「そういえば裏原系って知ってます?僕が学生時代の90年代半ば頃に流行ってたんですけど。アンダーカバーとかAPE(エイプ)、ネイバーフッドにエクストララージとか色々あったんですけど」


「ああ、あの猿のデザインのやつはタイでもコピー商品があるよね」


「そうそう、あれ系ですよ。Tシャツ一枚に平気で一万~二万円ぐらいしましたからね。あの裏原ブームを仕掛けた有名人で、フジワラヒロシとかジョニオとかNIGOっていう人たちがいるんですよ。何かのファッション雑誌で読んだんですけど、彼らも初めは自分たちでデザインして一枚一枚手刷りしてTシャツ作って販売していたらしいですよ。エイプも猿の惑星がモチーフですけど、まあ、言ってみればコピーみたいなところからのスタートですからね」


「へぇー、そうなんだ。俺はその辺のファッションには疎いからさ。でも、シルクスクリーンは学生時代にやったことがあるんだよね。美術の先生に気に入られてたからさー、実は油絵とか版画とか結構色々やってるんだよね。手刷りもそんなに難しくないよ。確かナクルアの方にTシャツ屋が何軒かあったから、明日にでもちょっと見に行ってみようか?」


「はい、ぜひ行きましょうよ。あとは無地のTシャツのボディーですかね。有名どころだとヘインズとかアンビルとか。僕はエドウィンが好きなんですけど、タイではどういう感じなんですかね?」


「まあ、それはタイ製の中から良質なモノを探すしかないだろうね。あんまり高くても売れないだろうしさ。まあ、無地Tシャツとプリント代など諸々含めた一枚あたりの原価がだいたい100バーツ以内で収まらないと厳しいかもなー。タイ人にTシャツを売ろうとするなら、せいぜい200バーツぐらいまでしか出さないと思うしね。まあ、先ずは市場かTシャツ屋でサンプルを探してみてさ。もし本格的に商売にしようってことになればバンコクまで仕入れに行ったほうがいいかもね。とりあえず試しに100枚ぐらいサンプルでも作ってみようか。多分そんなに金もかからないと思うし」


「マジですか!?了解しました。(敬礼ポーズ)じゃあ、僕も色々デザインとか考えておきます!」


それが果たして本当に売れるのか?自分とリュウさんを賄えるほどの商売へと発展するのか?そんなことは微塵も考えなかった。ただ、図工の宿題を与えられた子供のように、僕は漢字と家紋のTシャツデザインについてウキウキと思案するばかりだった。

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