第40話)グッバイ、ティーラック(愛する人よ)
胸にぽっかり開いた穴を埋めてくれたのはリュウさんだった。それまで僕とエルの恋模様を傍らで暖かく見守ってくれていたリュウさんは、彼女がとうとうパタヤから去り居なくなると、感慨深げに自らの恋愛体験を話してくれた。リュウさんから女の話を聞くのはそれが初めてだった。
「ヒロ君の気持ちは痛いほどよく分かるよ。これまで意見じみたことは何も言わなかったけど、実は傍で見ていて苦々しく感じていたんだ。なんだか昔の自分を見ているようでさ…」
「えっ、そうなんですか。もしかして、リュウさんもタイ人女性と恋に落ちたことがあるんですか?」
「うん、実はね、ヒロ君と同じようなもんでさ、タイに来たばかりの頃だよ。バービアで働いてるお姉ちゃんにイカレちゃったことがあってね」
「えぇー、知らなかった。そうだったんですね。それは驚きました…」
リュウさんと知り合ってから、もう半年近くが経つが、僕は彼が女性を連れ出すところを見たことがなかった。それに同棲しているような恋人はおろか女性への興味すらさほど感じさせず、孤独な海外暮らしを続けているように見えるリュウさんを不思議に思い、「女は要らないんですか?」と彼に何度か訊ねたことがある。リュウさんはいつも答えを濁すような口ぶりで「俺は当分、女はいいよ…」と多くを語ることはなかった。そんな彼を見て僕は硬派な男なのかなという印象を抱いていたが、実はそうではなかった。彼にも過去にタイ人女性との苦い経験、いや恋物語があったのだ。
リュウさんは昔の記憶を一から思い起こすように、頭上に描いたスクリーンをぼんやり見つめながら僕に語りかけた。
「初めて俺がタイに来た時は、シェフがガイド役みたいだったんだよね。半分遊びがてらだったから、もう一人昔の仕事仲間にも声かけてね、男三人の小旅行って感じだよ。先ずはバンコクから始まって、昼間は同僚とシェフは観光していたから、俺だけ一人で色々格闘技ジムを探し歩いてね。ルンピニーとかラジャダムナンっていう有名なスタジアムがあるんだけど、本場のムエタイとか見学してさー。それで夜になるとシェフが盛り場に案内してくれるってわけ。日本人街のタニヤとか、ゴーゴーバーがあるナナ、ソイカウボーイとかさ、その辺の歓楽街を一通り回ったら、あとはシェフの言いなりだからね。フリー娼婦が集まる出会いカフェみたいな店があるんだけど、テーメーとかサイアムホテル、それにホテルの裏通りとか立ちんぼが屯しているエリアを彼は熟知してるんだ。だから俺にとってのタイはシェフに色々ガイドしてもらって初めからディープな感じだったなぁ…」
僕は自分が初めてタイを訪れた時のこと、そして初めてタイの歓楽街に足を踏み入れた頃の淡い思い出を、映像として頭に浮かべながら、リュウさんが語る世界にシンクロするように耳を傾けた。
「もちろんパタヤも初めてでさ、湘南と熱海と歌舞伎町をごちゃ混ぜにして下品にしたような安っぽい感じがいいなぁと気に入ってね。それでウォーキングストリートにあるバービアで、ニットっていう名前のタイ人女性に嵌っちゃったんだなー。いい女でね。浅黒い肌のナイスバディでさー。当時20代後半ぐらいだったかな。イサーン(東北)美人って感じだよ。同僚も気に入った子が見つかったから、一緒に連れ出してダブルデートみたいにディスコ行ったり、昼はラン島まで小型ボートを貸しきって宴会したりしてね。それで滞在期間の残り一週間ぐらいだったっけなー、毎日彼女を連れ出して一緒に過ごしていたんだ…」
「へぇー、まったく僕もそれに近い感じですよ。やっぱりタイで夜遊びする連中は皆、同じようなことやってるんですかね。それで彼女とはどうなったんですか?」
「うん、それがまたヒロ君と似てるんだよ。同僚とシェフは旅が終わると当然日本に帰国したんだけど、俺は一人で残っちゃったんだ。あの頃はちょうどアメリカから戻ってフラフラしてた時だったからさー。だから、ニットにコロっとイカレてそのままパタヤに居座ったんだ…」
「えぇー、そうだったんですか!?」
「うん、それでね。ズルズルと長期滞在を始めたはいいものの、ホテル暮らしは金が持たないからさ。どっか安い所にでも移動しようと安宿を探してたら、ニットがそれなら私と一緒に住めばいいじゃない?って誘ってくれてね。それから彼女のアパートに転がり込んで同棲する間柄になったんだ。その頃にはニットはもう俺に金を請求するのもなくなって、逆に世話ばかり焼いてもらってね。あの頃は俺も何も知らなかったからなー。ただ彼女に夢中になって恋に溺れていたよ。でも、彼女は毎晩、店に出勤するわけだからさ。俺は一人寂しく彼女の帰りを待ちながらアパートで飲んだくれだよ。それに彼女、売れっ子でさ。何人も常客がいるような子だったんだ…」
僕には返す言葉が見当たらない。まさに自分と似通った内容のリュウさんの体験談に鈍痛を感じながら、ただ頷くばかりだ。
「それから数ヶ月が過ぎてさ、、ある日、突然、彼女が仕事を辞めて田舎に帰るからって俺に言い出してね。本当に田舎に帰っちゃったんだよ。家族の都合とか何とかでね。俺も当時はまだタイ語を話せなかったし、もう何が何だかよく分からなくてね。アパートに一人ほったらかしにされて呆然とするだけだよ。まあ、それに失恋のショックもすごいわなー」
「へぇー、そうだったんですね…。じゃあ、彼女とはそれで終わっちゃったんですか?」
「いやいや、まだ話には続きがあってね。それから居ても立ってもいられなくなって、俺は彼女の田舎まで会いに行くことにしたんだ」
「えぇーっ、それはスゴイですねー。なんとも行動的というか、情熱的というか。でも、彼女の家までよく辿り着けましたね。まだ携帯電話とか普及していない頃ですよね。彼女とは何か連絡は取ってたんですか?」
「いやいや、どっちも携帯なんて持っていなかったから手紙だよ。恋文ってやつ。彼女が田舎に帰る時に手紙を書くからって、英語とタイ語で住所を書いてもらっていたんだ。彼女はイサーン(東北地方)のコラート出身でね。でさ、その辺の書店で買ってきた英タイ辞書を見ながら、タイ語で手紙を書いたんだ。そしたら、全く返信がなくてさ…。届いたかどうかも分からないから、だったら、会いに行っちまおうと思ってね。メモを頼りに長距離バスに乗って、とりあえずコラートまで行ったんだ。そこからは現地のモトサイのオッサンにメモを見せて、ここに連れてけって頼み込んでさ。そしたら、意外にあっけなく見つかったんだよね」
「へぇー、よくそんなに簡単に見つかりましたね。それで彼女とは会えたんですか?」
「うん、それがさ、彼女の実家、外国人に建て替えてもらったようで実は結構デカイ家だったんだ。タイ語でアンプーっていうのが郡、タムボンが町、それでムーバーンが村って意味なんだけどね。メモに書かれた周辺までバイタクで連れて行ってもらって、その辺の住人に訊ねたら、すぐに分かったんだ。彼女の家、その辺りでは目立ってたんだろうね。それで、彼女の実家らしき家の軒先に恐る恐る足を向けてみたら、そこに洗濯中のニットがいたんだ」
「いやー、それは感動的な再会ですねー。それで、それで、、」
「俺を見るなり、驚いたのもつかの間、彼女、リュウーって大声あげて、走り寄ってきてさー。熱き再会の抱擁ってな感じかな。それから、俺はしばらくそこで暮らすことにしたんだ」
「えぇー、マジっすかー!彼女の実家でってことですか?」
「そうだよー」
「それはなんとも大胆な…。でも、彼女の家族がよく許してくれましたね?」
「うん、ニットはね三人だか四人姉妹でさ、とにかく大家族だったんだよ。彼女は末っ子で上のお姉ちゃんがすでに二人ファラン(欧米人)と国際結婚しててね。それで豪邸が建ったってわけさ。両親は農家なんだけど、このお姉ちゃん二人がヤリ手でさ、ファランから出資してもらって新たに土地を購入して、家族で葡萄農園を経営してるんだ。それをワインにして旦那の協力でヨーロッパ方面にも輸出してるんだよね。これが結構、儲かっているらしくてさ。だからニットの家は女たちが仕切っている家庭っていうかね。従業員の親戚とかガヤガヤ大家族みたいに人が溢れていたから、意外にすんなり居座ることができたのかもね。まあ、俺もこんな性格だからさー」
「いやー、さすがですねー。僕だったら絶対無理ですよ。人見知りですし。でも、リュウさんは社交的ですごいなーって前から羨ましく思ってたんですよ」
「そうかなー。でさ、農園の手伝いしたり、近所の子供たちにボクシングを教えたりしてさ、飯はただで食わしてもらってたから、タバコ代と酒代ぐらいかな、金はほとんど使わなかったな。でも、あの田舎生活で俺もイサーン料理に鍛えられたんだろうな、多分。タカテンって昆虫の意味なんだけど、バッタとかイナゴとか、アリ、幼虫、タガメ、サソリ、カエルに野ネズミまで、イサーン人は食えそうな物はもう何でも食っちゃうんだよね。それに俺は犬を食ったこともあるからね」
「えぇっ、タイには犬を食う文化があるんですか?」
「犬食はサコンナコンが有名らしいんだけど、俺が食ったのはニットの田舎にいる時だったよ。ある晩、近所の兄ちゃんたちが数人集まって道端で酒盛りしてたんだ。炭火に網を置いて肉を焼いてたんだけどさ、何食ってんだ?って訊ねたら、お前も食うか?って言うから、何の肉?って訊いたら、犬の肉って言うんだよ。それで試しに食べさせてもらったんだけどね。ちょっと生臭かったけど、硬い鶏肉みたいで結構うまかったよ。で、どこで買って来たんだ?って訊いたら、ほらっ、その辺にいたヤツだよって指差しながら言うんだよ。マジかと思ったね。心当たりがある犬がいたんだ。毎日近所でウロウロしている人懐っこいヤツだったからね。俺んちも犬飼ってたからさー、ちょっと可愛そうに思ったけど、もう食っちゃった後だからね。それで次の日から数日、下痢ピーの食あたりだよ。あれはマジで辛かったなー、でもタイ人は皆ケロっとしてるからねー」
「ははは、、今後の参考にさせてもらいます。それで彼女の実家にはどれぐらい滞在してたんですか?」
「トータルで3ヶ月、いや4ヶ月ぐらいかなー」
「えぇーっ、そんなに長く居たんですか。ビザとかどうしてたんですか?」
「うん、なんだかんだでそれぐらい居たなぁ。ビザ関係はシェフに国際電話して色々聞いてさ、イサーン旅行かねて陸路で周辺諸国を行き来して、ビザランしてたんだよね」
「へぇー、そうだったんですね。でも、そんなに長く居たのに、どうして彼女の元を離れることにしたんですか?やっぱり田舎暮らしも飽きちゃうんですかね?」
「いやいや、実はね、ニットには子供がいたんだ。離婚したタイ人旦那との子供だよ。当時5、6歳ぐらいだったかなー、俺がよくボクシングを教えていたガキだったんだけど、親戚の子供だと聞いていたのが、実はニットの子供だったんだ。まあ、俺は別にどうでも良かったけどね。でもさ、それだけじゃないんだ。彼女が実家に戻った本当の理由はね、ヒロ君と同じでさ、欧米人の常客との間に新たな子供ができていたんだ。ニットは当然、欧米人との結婚を選んだ。だから俺に別れを告げていたのさ。それを俺がみみっちく追っかけてしまったんだけどね。でもさ、彼女のお腹がどんどん大きくなって、妊娠が進むと、欧米人の彼氏が面倒見るためにタイに来て、出産までしばらく田舎に滞在するって話になってね。もうそうなったら、俺の居場所なんてあるわけがないじゃない。それが彼女との実質の別れだったんだ。まぁさ、そういうオチだよ…」
「そうだったんですか…。いやぁ、色々話してくれてホントにありがとうございます…」
「まぁさ、ヒロ君が今、彼女に情が入っちゃってるのは痛いほど分かるけどさ。でも、エルも子供ができちゃったら、やっぱりそっちを選ぶのが賢明だと思うよ。それに子連れの女を養うのって、そんなに簡単なことじゃないからね。ヒロ君も分かってると思うけどさ」
「そうですよね、、僕も色々悩んだんですけど、やっぱり他人との間にできた子供は、今の僕には無理かもしれないです。それに、よくよく考えたら、そんなの日本の両親が絶対許してくれないだろうなぁなんて思ったりもして…」
「うん、そうだね。まあ、でも、別れたとしてもさ、ヒロ君が許すなら、彼女とはまた会えばいいんじゃない?俺もニットとは未だに機会があれば会ってるからね。まあ、今では昔の恋仲、いい友達って感じだよ」
「へぇー、そうなんですね。いやぁ、ホントに参考になります…」
僕は毎晩バービアで安酒を煽り続け、エルのいない孤独な生活を噛み締めるように時を過ごした。彼女がいなくなった空間で、歯止めが効かなくなった僕は、もはや泥酔機関車とでも言うように深夜明け方まで飲んだくれて、思考を飛ばし、モヤモヤと身体中に絡みつく悪感情を振り払った。タイウイスキーは僕をベロベロに酔わせるのに打ってつけのアルコールだった。
そんな僕を残酷に嘲笑うかのように、時は瞬く間に過ぎ去っていく……。
やがていつしか僕は久しぶりの一人暮らしの感覚を取り戻すように、エルへの想いがうっすら和らいでいく自分を感じた。
彼女とは電話やメールで連絡を取り合っていたが、出産がいよいよ間近に迫ると、それも回数を減らした。
子供はそろそろ生まれた頃だろうか……。
出産予定日が過ぎても、彼女からは音沙汰がなかった。
こちらから連絡するのはどうにも気が引けた。
彼女はもう今までとは違う新しい生活を始めたのだと諦めかけた頃だった。
ある日の昼下がり、エルは何の前触れもなく、突如、僕の定宿に姿を現した。
彼女が引いてきたベビーカーの中には可愛い金髪の赤ん坊がいた。
僕はそれを見て、残酷な現実をまざまざと見せつけられたような気分だった。
とはいえ、すぐに子供の愛嬌に負けてしまった。
ベビーカーから溢れ出す陽気なオーラに圧倒された。
僕の嫉妬など軽く笑い飛ばされるように、無垢な赤子に心を鷲づかみされた。
僕はご機嫌を窺うように赤ちゃんに手を振り、はにかみながら彼(彼女)に挨拶した。
「サワディーカップ!ナーラック(可愛い)ベイビー。チュー・アライ?(名前は何だい?)」
「チューレン(ニックネーム)はアレックスよ」
エルは柔和な笑顔を浮かべながら、母親の顔つきで僕に告げた。
溢れ出る母性がその空間を優しく暖かく包み込む。
彼女はすでに現実をしっかりと受け入れているようだった。
これが母親になったということなのか。母親の強さというものなのか。
自らのお腹を痛め、過酷な出産を乗り越えて、新たな生命を授かった母親の姿というものなのか。
彼女の中では全てが終わり、新しい人生が始まっているようだった。
彼女は幾分すっきりとした穏やかな表情で僕に微笑みかけた。
眩い午後の陽射しが室内に差し込み、彼女を神々しく照らした。
もう二人の間に別れの言葉はいらなかった。
「コップンカップ、グッバイ、ティーラック(ありがとう、そしてサヨナラ、愛する人よ)」
僕は心の中で彼女に語りかけた。
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