第36話)微笑みの裏側で(タイ女性との淡く切ない恋物語)
パタヤで長期滞在を始めて早や4ヶ月が経過しようとしていた。相変わらず仕事のあてなどなく、タイでの生活にはようやく慣れてきたものの、タイ語会話はまだ幼児レベルで、毎日リュウさんとパタヤの街を徘徊しては、具体性のない淡い夢ばかりを語り合い、現実逃避するように夜な夜な飲んだ暮れ、同棲するタイ人女性エルと欲望の赴くままに濃密ながらも空虚な毎日を繰り返しているだけという、全く先行きの見えない自堕落な移住生活が日々淡々と続いていた。
今後の人生について悶々と思い悩む悲壮感とか大きく膨れ上がった焦燥感といったものは、ジリジリと照りつける南国の太陽に焦がされ、ムンムンと身体全体を覆う熱帯特有の気だるい空気に溶かされるだけで、ただ、あてもなく異国の地で彷徨っているという孤独感に苛まれるばかりだった。
そして、時の経過と共にエルとの蜜月関係にも徐々に亀裂が生じるようになった。それは僕にとって晴天の霹靂であったが、とはいえ当然の成り行きでもあった。エルには僕と出会う以前から欧米人の彼氏(常客)がいて、エルは彼から毎月幾ばくかの生活費を仕送りしてもらっていた。僕の存在は二人の関係からすれば後から割って入ってきた間男と言ってもよかった。エルと出逢い、しばらくしてその事実を知った僕は言いようもない嫉妬心に駆られ、彼からエルを奪い取ろうとも切望したが、その欧米人男はエルにとって大事な資金源であり、別れらない関係性がすでに出来上がっていた。
僕がエルの生活費を面倒みれるほど金銭的に余裕があれば、彼女を僕だけのものに出来たかもしれない。しかし、なけなしの資金でタイに移住し、自分が日々暮らしていくだけでもギリギリの生活を送っていた僕の現実は、たった一人の女性すら養うことができないという惨めなものだった。エルは僕のことをティーラック(愛する人)と呼び、彼のことをカスタマー(客)だと言った。僕とエルの禁断の関係はいつ崩壊してもおかしくない微妙なバランスで成り立っていた。しかし、その欧米人男がついにエルに会いにタイを訪れることになったのだった。
もちろん、いつかそんな日がやってくることは容易に想像できた。だけれども、出来る限り想像などしたくない、見たくも聞きたくもない、ただ目の前にあるエルとの甘美な日々に溺れるように時を過ごしていた。しかし、敢えて想像することを避けてきた現実がはっきりとした実像として現れたのだった。エルの男がタイにやって来るという事実を知らされ、僕は胸を引き裂かれるような醜い嫉妬心に蝕まれ、それを受け入れなければならない自分への辟易とした感情で気が狂いそうになったが、そこにあるのはどうすることも出来ない現実だけだった。
男はパタヤに一週間ほど滞在した。僕はその間、毎日リュウさんに付き添ってもらい、次々と溢れ出てくるモヤモヤした悪感情を払拭するように安酒を浴び続けた。同じパタヤのどこかでエルは他の男と過ごしているという現実に思いを向けないように、彼女はしばらく実家のあるバンコクに帰っているのだと無理やり自分に言い聞かせるように仕向けた。
しかし、エルは男と一緒にいるであろう間に、隙を見つけては何度も僕に電話やメールをよこし、男と離れる時間を作っては僕に会いに定宿に戻ってきた。彼女はその度に、僕が何をしているのか詮索し、自分のいない間に他の女に手を出しているのではないかと危惧するような態度を示して「私はあなただけを愛している…」と僕に告げた。その行為は、常客の男と僕の間を行き来している彼女の現実をリアルに想像させ、否応なく僕の嫉妬心を煽り、憂鬱にさせるだけだった。
友達に会いに行くとでも言い訳しているのか、エルは深夜遅い時間になると頻繁に僕の定宿に戻ってきた。そして、醜く泥酔して寝入っている僕に絡みつくように愛を囁き、僕に抱かれようとした。僕は、彼女が男に身体を預けた後にも関わらず、僕に気を使って不本意ながら慰み半分、謝罪半分で僕に抱かれようとしているのではないか、といった感情が占拠し、心も身体も萎えるばかりで、その誘いに応じることなど出来なかった。二人の間には言いようもないどんよりとした重い空気が流れるだけだった。そして、エルはそんな僕の心情を察したのか弁解するように「彼とは肉体関係はないのよ…」と切実な表情で僕に告げた。
彼女が男の話をしたのはそれが初めてだった。
エル曰く、イングランド人の彼は70歳以上とかなりの高齢で、白髪のオールドマン(老人)でリッチ(金持ち)な人物だという。すでに性欲はなくインポテンツ(性交不能)なので、楽しみはと言えば若い女性たちを何人もナイトバーから連れ出して、ホテルの部屋でパーティーするように一緒にワイワイと飲み騒ぐこと。私以外にもセクシーレディーを数人連れ出して、その女性同士をイチャイチャさせて酒を飲みながらニヤニヤ観賞するだけのタルゥング(助べえ)爺さんなんだと僕に説明した。「私はその空間が大嫌いだから、こうして彼のホテルを抜け出して、あなたに会いに来れるのよ」と僕に告げた。
そんな告白劇に僅かながらも気持ちを解され、「じゃあ、彼にとってエルはどういう存在なんだい?」と僕が苦々しく訊ねると、「彼は私のことを汚れのない少女だと思っているから、私を人形みたいに持参したドレスに着替えさせ、美容院に行かせて綺麗に着飾らせて、写真を撮るのが趣味なの。モデルみたいに私に色々とポーズを取らせて、それを楽しそうに眺めながらお酒を飲んでいるだけなの。彼は変態なのよ…」とエルは不快感を滲ませた面持ちで男の素性を語った。
僕は、高級ホテルの広々とした一室で、数人のタイ人女性をはべらせている、白髪の老いぼれ爺さんが窓辺の椅子に腰掛けて、悦に浸っている状景を想像した。男は身に羽織ったバスローブからでっぷりした腹肉を覗かせ、ワインを手に葉巻を燻らせながら、ニヤニヤと不適な笑みを浮かべている。ベッドの上では裸の女たちが数人はしゃぐように互いの肌を触り舐めあい、キャッキャッと嬌声を上げている。その傍らでは小奇麗な衣装に身を包んだエルが居心地悪そうに佇んでいる。男は満足げにその様子を眺め、恍惚とした表情で写真を撮り続ける。そのうち、男はエルに声をかけると、自分の近くへ呼び寄せる。男はエルの衣装に手をかけ、それを脱がすように剥ぎ取っていく。男に買い与えられたセクシーな下着姿だけになったエルの細身の体躯が露わになる。そこまで妄想して、僕は頭を振り、思考をストップさせた。
エルが言うには、その老人は助べえだが紳士でもあり、話好きな人でエルといろいろな会話をすることを気に入っているらしい。実際、エルは清楚な美人といった雰囲気だが、いつも屈託なく笑い明け透けにものを言うサバサバした性格である。金持ちである彼にも媚びないそんな彼女を男は特に気に入っているようでもあった。エルが大学に通うことを応援してくれ、その学費のためにと毎月数万バーツを送金してくれているという話だった。
僕はエルから聞いた話を全て信じることは出来なかった。彼女と知り合った当初、エルはバンコクの大学に通っていると言っていたが、僕と出逢ってからはずっとパタヤで一緒に過ごしていたし、バンコクに帰ることはほとんどなかった。リュウさんの推測では、「彼女が言っているのは正規の大学生ではなくて、マーケティングか何かの専門分野だけを学びに行っている履修生のようなものではないか」ということだった。僕はエルが傍にいることだけに満足し、そのことに関してはさして気にも留めていなかった。だが、男が学費のためにエルに仕送りしているという事実を知り、それをないがしろにして僕との生活費用の足しにしているエルの現状に心を痛めるばかりだった。
エルの話はどこまでが真実で、何が嘘なのか僕には判別することが出来なかった。それに男と体の関係がないなど心から信じられるものではなかったが、僕は努めてそれを信じるように自分に言い聞かせた。男が帰国し、僕らは一つの障害を乗り越えたように、再び二人だけの甘い世界に浸るようになった。しかし、僕らの間には少なからず不穏な空気が漂うようになった。とりわけ僕の嫉妬心は、何かのきっかけに次から次へと湧き出てくる膿のように身体を覆い、心を蝕むようになっていった。
エルにはパタヤで唯一慕っているお姉さんのような年上の友達がいた。年の頃は20代後半で、名前はドゥアンといい、タイ語で「月」という意味のニックネームだった。彼女は東北地方コンケーン出身の大柄の女性で、健康そうな褐色の肌に長い黒髪をなびかせ、常に柔和な笑顔を絶やさない穏やかな性格の女性だった。大きく垂れ下がった目尻が特徴で周囲を包み込むように優しく微笑み、のんびりとした大人の雰囲気を漂わせている彼女を見て、僕は何かの映画の中で見たインディアンの嫁みたいだなと感じた。
ドゥアンはいつもTシャツに短いパンツというシンプルな恰好ながら、ゴールドのネックレスにブレスレット、リングといった煌びやかな装飾品を身に着け、それが黒々とした褐色の肌の上でいっそう眩く光っていた。そんな彼女の装いを見て僕は、タイ人の褐色の肌にはゴールドがよく似合うと感じた。ドゥアンにもすでに欧米人の彼氏(常客)がおり、普段は彼からの仕送りで優雅に暮らしているようだ。カスタマー(客)とはいえ彼女は彼に好意を抱いており、田舎の家族の生活を支えるためにも、ゆくゆくは結婚するつもりだという。それを聞いて、僕はエルも少なからず常客との結婚を考えているのだろうと思い、胸がキリキリと痛んだ。
エルはドゥアンとあるアパートで同居生活をしていた。僕と出逢ってからは、同棲生活するように僕の定宿に転がり込み、次々と衣服やら私物を持ってきていたが、エルはそのアパートにも頻繁に戻っていた。僕がリュウさんやニックたちと飲みに出かけるようなことがあれば、エルはドゥアンに会いに行くのが常だった。僕はドゥアンを紹介されると、そのうち二人が同居するアパートにもエルと一緒に足を向けるようになった。僕が仲間たちとの夜遊びから解放されて、エルに連絡を取り、彼女を迎えに行く場所が二人のアパートがある一角だった。
そのソイ(小通り)は通称ソイスカウビーチといい、僕がエルと出会ったソイ10のバービア群から目と鼻の先のエリアだった。セカンドロードに面した小さな通りの奥にはスカウビーチホテルという古びた老舗ホテルがあり、通りの名はそのホテルからきているようだ。実はそのホテルはエルの常客がパタヤを訪れる際に利用している宿だという。男と知り合う前からエルはこのエリアに住んでいたのだろうか、エルが男にこのホテルを紹介したのだろうか、この前の滞在時も男はこのホテルにいたのだろうか、そもそも二人の付き合いはどれほど長い期間なのだろうかと、僕はあれこれ想像しては結局ジェラシーを抱く始末だった。
大通りのセカンドロードに面した通りの入口には、海鮮料理をメインにした中華レストランがあった。数百メートル先に位置するスカウビーチホテルに向けて、小さな通りの左右にはショップハウスと呼ばれるコンクリート造りの建物が続いている。1階部分で何かしら店舗を営み、2~4階建て程の上階部分は住まいやゲストハウス、アパート等として利用されているといった感じだ。エルとドゥアンが同居するアパートは、その中の一つで1階は生活雑貨店になっていた。アパートの隣にはランドリー(洗濯屋)、通りの向かいに旅行代理店とビューティーサロン(美容院)があり、タイ飯の食堂やマッサージ店などがそこかしこに軒を連ねている。エルの生活の大よそはこの小さなエリア内で賄っているようだった。
僕が仲間たちと飲みに出かけている間、エルが決まって暇を潰しているのが、アパート前の旅行代理店かその隣にある美容院だった。とりわけ旅行代理店のスタッフと仲良くしている様子で、僕がエルを迎えに行くと、彼らと談笑しているのが度々だった。オーナーである30歳ぐらいのタイ人男性とその奥さん、それに若い女性従業員だけの小さな店だったが、航空券やホテルの手配、現地ツアーなどを取り扱っており、店の軒先には数台のレンタルバイクが置かれていた。また、店内に設置された数台のパソコンを利用してちょっとしたインターネットカフェを営む傍ら、国際電話などのサービスも提供していた。エルは僕のいない間に、ここで常客に国際電話したり、Eメールのやり取りをしているようだった。しかし、その様子を僕に見せることは決してなかった。
ある晩、夜遊びを早く切り上げた僕がエルを驚かせようと、連絡もせずに彼女を迎えに行くと、ちょうどエルがスタッフの女性とパソコンの前で何やら作業している最中だった。パソコンを操作しているのはスタッフで、エルは傍らに立ち、何か指示している様子だった。こそこそと隠れながら忍び足で店内に入り、「ワッ!」とエルの前に僕が姿を見せると、彼女は途端にびっくりし、直ぐにパソコン画面の前に立ちはだかり、それを覆い隠して僕に見せないようにした。それから僕に抱きつくように身体を預けると、エルは僕の手を取り、店の外へと連れ出した。僕は何となく事情を察して、「マイペンライ(大丈夫)、カスタマー(客)にメールでもしてたんでしょ?」とエルに告げた。彼女は頷き、申し訳なさそうに僕に詳細を教えてくれた。
エルと僕は普段から片言の英語で会話することが多かった。僕は幾らかタイ語を話せるようになっていたが、それもタカが知れていた。携帯でのメールのやり取りも当然英語だったが、エルの書くあやふやな文法のメッセージ(文面)をよく理解できないことが多々あった。だからエルは常客とどのようにEメールでやり取りしているのだろうかと不思議に思うことがあった。
しかし、その日の出来事で全て合点がいった。エルはスタッフの女性に自分の伝えたい内容を話し、それを英語に翻訳してもらって常客にメールしていたのだった。その旅行代理店(兼インターネットカフェ)ではメール翻訳代行サービスも提供していたのである。どうりで売春婦のような女性の姿を度々店で見かけていたわけだ。何とも夜の街パタヤらしいあざとい商売である。エルが言うには、一つのメールを依頼するのに100~200バーツ程を支払っているとのことだった。
エルは男にどんな内容のメールを送っていたのだろうか。金の無心でもしていたのだろうか。それとも男からのメールが届いていたのだろうか。そもそも男がいない間エルは実家のあるバンコクにいて大学に通っていることになっているのではないか。エルは家族と暮らしている日常や大学での嘘話を勝手に作り上げ、男とやり取りしているのだろうか。嫉妬だらけの妄想は幾らでも膨れ上がるばかりだが、僕にはその真実を知る権利はなかった。
エルを僕だけの恋人にするためには、二人の関係を継続させるためには、僕がエルを満足させるほどの金銭を手にするか、あるいはエルの今ある現実を全て理解し、受け入れることしか、僕に出来ることはなかった。
僕の思考や感情はいつしか麻痺し崩壊するように許容範囲を広げ、どうしようにも他に方法などないではないかと自分に強いるようにエルとの関係を続けるばかりだった。潔く自分から身を引くという別れの決断は僕の頭には到底なかった。
ただ、タイという無知なる異国の空間に、パタヤで出逢ったタイ人女性との異常とも言える恋に、我が身を任せるだけだった。
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