第32話)ファラン(欧米人)たちが住む街角

「モシモーシ、ヒロ君、オハヨウ!オキテマスカ?」


「ああ、はい、、デニーさんですか、お早うございます。今、電話で起きたところです…」


「アッソウ、イマ、ボクはフジに来たところ。リュウさんも呼んだから君もおいでよ。カノジョも一緒にイイカラ」


「は、はい、ありがとうございます。用意が出来たらすぐ行きます…」


デニーさんからの受信音を遮るように布団に包まっていたエルを揺さぶり起こし、寝ぼけた心身にムチ打って、着の身着のまま定宿を飛び出す。ギラギラと突き刺す南国の日差しに目を細めながら、宿前の通りソイダイアナを少し歩いてセカンドロードまで出ると、一乗り5バーツの乗り合いタクシーソンテウを捕まえる。それからパタヤを北上~セントラルパタヤ通りとの交差点を通り抜け、しばらく走ると目的地である北パタヤのソイ2、3周辺に辿り着く。デニーさんの電話で起きてから、ここまで急いでざっと30分程といったところだ。


日系アメリカ人のデニーさんは日本食がとりわけ好きな人で、滞在中はしょっちゅう北パタヤのBigCというショッピングモール内にある日本食レストランFUJIに足を運んでいた。そのせいでデニーさんがいる間は昼前の11時頃から正午にかけて彼からの電話で半ば無理やり叩き起こされることが度々あった。デニーさんはこっちが携帯を取るまで何度となく執拗に電話を鳴らし続け、ようやく僕が寝ぼけた態度で面倒くさそうに電話口に出たとしても、一向にお構いなく、いつも素っ気無い淡白な口ぶりで誘いの用件だけを告げてくる。デニーさんが待つフジで落ち合うと、リュウさんも寝起きの面持ちで彼の相手をしていたものだった。


「ハイ、オハヨウ。ドーゾ、好きなモノ食べてクダサイ」


デニーさんがフジのメニューでお気に入りだったのがサバの塩焼き定食だった。いつも店の奥にある小上がり席を陣取り、食事を終えた後もアイスグリーンティー(冷たい緑茶、タイ語でチャー・キアオ・イェン)を何杯でもお代わりし続け、ダラダラお喋りしながら数時間に渡り居座るのが常だった。お調子者の関西人リュウさんがタイ人ウエイトレスに得意のタイ語ギャグでちょっかいをかけるので、僕らはすぐに顔を覚えられ、毎日店を出入りする常連のようになった。一人でパタヤを訪れるデニーさんは、現地にはリュウさん以外の知り合いがいない様子で、滞在歴の長いリュウさんを通訳ガイドがてら頼りにしているようでもあった。


午後はパタヤビーチ沿いの店に場所を移す。強い日差しを遮るように大きな熱帯地方の木々が敷地内に植えてある植物庭園風カフェレストランだ。ここは夜になると新鮮な海鮮料理をメインにしたタイ料理が並び、屋外ステージには生バンドが入り、落ち着いた光の装飾に包まれた空間になる、雰囲気のある店だった。アウトサイドテラス席に腰を下ろし、目前に広がる海を眺めながら、午後のカフェタイムは甘ったるいアイスコーヒーか果物シェイクを飲みながら再び雑談にふける。デニーさんの好きなタイマッサージにもよくお供した。


そのうち日が沈む時間になると今度は夕食に出かけ、夜はデニーさんの女探しに付き添うようにバービア街を練り歩く。女性との会話を盛り上げるのはもちろんリュウさんの役目だ。そして、ようやくデニーさんのお気に入りの女の子が見つかり、彼がバーから連れ出すと、最後はホテルまで送り届け、その日が終わるというパターンだった。その後はリュウさんと締めに場末バーに寄って帰るか、ニックがまだ飲んでいるようだと合流する。


僕らは彼のガイド兼おつきの人みたいに朝から晩までデニーさんに誘われるがまま、自分の金を全く消費することなく、彼のお供を繰り返した。それは何だか彼が僕らを従え言いなりにさせるための代償とか必要経費のようにも感じられた。


典型的ブルジョアの健康志向とでも言うのか、デニーさんはほとんどアルコールを口にせず、基本的に水かソーダ水かリポ(健康飲料)しか飲まない。バービアではそれらを交互に飲み続けるだけである。昼食の定番は日本食レストランのFUJIかZENで、たまにシズラー(Sizzler)に赴き、サラダバーを頼んで大量摂取するように野菜ばかりを食べる。飲むのは新鮮な南国フルーツスムージーだ。支払いはいつも現金で、両替した大量のバーツ紙幣とドル紙幣をマネークリップで小奇麗に束ねて持ち歩いていた。


当時、最新型だった小さなキーボード(ボタン)がついた高価な携帯電話を持ち歩き、腕にはもちろん高級時計の代名詞ロレックスのギラギラしたゴールドタイプ。ホテルの部屋では随時ノートパソコンを開き、何やらアメリカとやり取りしている様子。いつもシンプルな服装で常夏には似合わぬ上品な革靴を数足履き回していた。デニーさんの口癖は、「イイモノを身に着けていないと、他人は細かいところまで見てるカラ。タイ人も皆ソウデショ?お金に寄ってくるダケ。だからボクはそんなに興味はないけどタカイモノしか身につけないヨ」といった感じで、それが信用になり人脈となり更に金を生むことになる。だからボクの友達はリッチな人たちばかりだよ、と自慢げに語った。


食事時になるといつもデニーさんが話すのが歯の話だった。とりわけ歯茎ケアについてで歯周病がどれだけ怖いかといった内容である。「歯茎は大事だから君タチも気をつけてネ!歯茎が死ぬと年を取ったとき歯が全部なくなっちゃうヨ!」と歯周病の恐ろしさを切々と僕らに語りかけた。


また、仕事の片手間でジム通いし、合気道まで習っているらしく、「懐からガンを抜くようにして撃ってきてごらん?」とか「ナイフを持ったつもりで僕に襲いかかってきてごらん?」と僕らに指示するように話しかけ、言う通りに強盗のふりをして襲いかかる芝居を打つと、突如として本気モードに豹変し、こちらが投げ出した手を掌底のポーズではねのけるのだ。「ほーらね、これだと撃てないネ!」と得意げに語り、襲いかかる腕を引き寄せるようにして抱えると、くるり反転して背負い投げを仕掛けてくる。


「ボクの先生はね、ボディーガードもしている凄腕だからー」とデニーさんは額の汗を拭いながら、自慢げに語った。その姿は日本の業界人にいそうな小金持ちの中高年おじさんといった有様で、奇妙な抑揚で話す片言の日本語も相まって、少し滑稽にも見えるアンバランス感が僕らに笑いを誘ってくるのだった。


そして、マネーゲームとでも言うべき投資関連の話題をよく口にした。リュウさんはそんなデニーさんのビジネス談義の時間だけは、先生を見る生徒のような真剣な目つきで、熱心に聞き入り、一人頷いていた。


ハワイ生まれの日系アメリカ人で名前はデニー田中という。祖父母が昔ハワイでアロハシャツ製造業で財を成した人物らしく、ワイキキで生まれた時からプール付きの豪邸で、お手伝いさんが何人もいるような家庭で育ったデニーさんは、とりわけお婆ちゃんっ子だったらしい。グランドママの味噌スープが大好物で、小さい時から日本食に親しみを感じながら育ったんだヨと日本食好きの所以を教えてくれた。大学から本土アメリカに渡り、法律や経営学を学び、真面目なカレッジライフを送ったデニーさんは大学を卒業すると、そのご褒美とばかりにお婆ちゃんから幾ばくかの資産を譲り受けた。その資金を元手にして色々と投資をしてビジネスをスタートさせたようだ。


映画好きの僕がいつかは行ってみたい、ハリウッドやビバリーヒルズがある夢の街、LA(ロサンゼルス)に現在拠点を構えており、ゲストルームやバスルームが沢山あるプール付き4階建ての豪邸に住んでいるらしい。しかもギャンブルの聖地ラスベガスまで車で数時間で行ける距離らしく、「キミタチもロスに来たら、ボクの家に泊まらせてあげるヨ」と言われて、僕はラスベガスのカジノ場で賭け事に興じている自分をふと想像し、一人ほくそ笑んだ。


そんなデニーさんだが、まさしく経営者らしく、考え方もその話しぶりも、時にシビアな内容の言動が目についた。それはナイトバーから連れ出したタイレディが気に入らなくなった時に特に顕著に表れる。それはいつもリュウさんの問いかけから始まる面白コントのようでもあった。


「あれっ、デニーさん、もう、あの子は飽きちゃったんですか?」


「うん、あの子はネ、ちょっとお金に汚い性格の子だったネ。だからね、ファイヤー!クビにしました…」


この「ファイヤー(Fire)」のセリフを言う時だけ、まさに流暢な、その言葉を強調するようにはっきりした力強い発音と、冷淡な表情で僕らに宣告するように答える。もちろん手で首を斬るポーズも忘れない。少しばかり後悔を滲ませた、でも、怖い冷徹経営者のような雰囲気を漂わせるデニーさんを見て、僕とリュウさんは顔を見合わせてクスリとし、笑いを堪えるのに必死になる。


オキニが見つかると数日は彼女を僕らと同じように四六時中連れ回し、洋服やらジュエリーなど彼女の好きな物を色々と買い与え、終始彼女のことを語り、最早ゾッコン、ベタ惚れで、ニヤニヤと仲良さげにしているのを、微笑ましく見ていたのも数日のこと。デニーさんは一度ご機嫌を損ねてしまえば、即刻クビ宣言するのが常だった。


リュウさんからは「デニーさんは人の細かいところまで見て気にするような人だから、いろいろ面倒だけど我慢してね」と僕に忠告するようなアドバイスをされていた。「今までは俺一人であの人の相手をしてて大変だったんだから。これからはヒロ君がいるから色々半減されて助かるよ…」とリュウさんは苦笑いしながら僕に話した。


女の態度が気に入らないと即クビ宣言するデニーさんだけに、言葉遣いに関しても細かい人だった。「ボクの英語は皆からビューティフルだと言われるヨ」と得意げに語り、僕らを生徒にみたてて、英単語(冠詞)のaとanとtheの正しい使い方など、細かい文法を色々と教えてくれた。


一方、もう一人のアメリカ人ニックはと言えば、デニーさんとは全く正反対の性格だった。デニーさんはカラオケ好きで、気に入った女性ができるとすぐにご機嫌になり、カラオケに連れて行くのが定番だった。そんな時、デニーさんから一緒にカラオケに行くかと誘われると、ニックはいつも決まって一言、「NO WAY!(ノーウェイ)」と一刀両断するように冷ややかに答えるようなタチ(気質)だった。「デニー、お前カラオケの何が楽しいんだ?(ファッキン)俺にはさっぱりワカラナーイ!」と小馬鹿にするような軽口を叩くのも忘れない。


僕は、そんなニックを見て、アメリカ人には付き合いというものがないのか、それとも単独行動を好む一匹狼的なニックの性格なのか、いや、ただ単に二人は合わないだけなのか、と対照的な二人のアメリカ人を面白おかしく観察するように眺めるだけだった。


デニーさんがキレイで流暢な英語を操る気品のある人物だとすれば、ニックは普段からスラングばかりを使うアウトロー(荒くれ者)といってもよかった。ニックはいつも口癖のように「Fuckin'(ファッキン)」という単語を必ず会話の中に織り交ぜた。会うと口にするのが「Hey Guys, What's Up?(調子はどうだ)」といった調子だ。


ニックはよく僕のことを「お前はまだパピーだから…」とからかうような言葉で笑った。Puppy(パピー)とは子犬のことで、青二才とかヒヨッコみたいなニュアンスの言い回しらしい。僕が酔っ払って将来に対しての不安などを彼にふと打ち明けるように話したりすると、「お前はまだ世間知らずのヒヨッコだから問題ない。人生は長いんだ」といった感じの暖かい態度だが、少し小馬鹿にするような言い方をした。


それはジョージのバーでニックが仲良くなった欧米人たちと話す会話でも同様だった。言うならばハリウッド映画によく出てきそうな会話劇。古き良きアメリカの時代背景と街並みで、長年床屋を営むオヤジ(地元の友人)の店に散髪に訪れるシーンだ。


「よう!久しぶりに来てみて相変わらず小汚ねぇ店だと思ったら、そこの主まで小汚ねぇナリ(ツラ)してやがる。おい、老いぼれ、元気にしてたか?」。「うるせぇ、チンケな偏屈オヤジが何言ってやがる。その頭でっかちの錆びた頭を小奇麗にしてやるから、とっととこっちに来て座りやがれ」。「そういえば、お前んところのクソッタレ女房が最近ジョージのバーで夜な夜な飲んだくれてるって街で噂になってるぞ。役立たず亭主の愚痴を散々ぼやいてたって話だが老いぼれも大変だな」。「うるせぇ、お前んとこの牛のように太った女房はこの前ダイエットマシンで足を滑らせて入院してるらしいじゃないか。手前の安月給をはたいて分割ローンで無理して買ってあげたのにってか。どうせすぐにあの癇癪ワイフに当たられてガラクタ行きってのがオチさ。ところで支払いはいつまで残ってるんだ?」。みたいなやり取りである。


軽口を叩き、冗談半分の罵り合いのような世間話、相手を一捻りさせるようなやり合い。ニックはそれらを連想させるような雰囲気の言葉使いや話し方をした。


ニックの生まれはニューヨーク州のブロンクス。僕が知っている情報はたった一つだけだったが、それはロバート・デニーロ主演・監督の作品「ブロンクス物語」で、僕は映画の情景を思い浮かべるようにニックが語る昔話に耳を傾けた。先祖を遡ればアイリッシュ系とイタリア系の血が混ざっているらしく、元々は大航海時代にアメリカ大陸へと渡ってきた家系なのかもしれない。ニックは典型的な悪ガキで、若い頃は喧嘩にドラッグにギャンブルに強盗、窃盗などまさに絵に描いたギャングのような少年~青年時代を過ごした。そして20歳の時にとうとう諸々の悪事がばれて逮捕されてしまったらしい。


ニックに宣告された選択肢は二つだけだった。それは、そのまま罪を償うために刑務所暮らしを送るか、あるいはアーミー(軍人)になるかの二択であった。「ママは深く落ち込み、悲しみに暮れて泣いていた。俺もついに観念し反省したよ。ジェイル(ムショ)暮らしだけは勘弁だからな。だから、それまで迷惑をかけてきたママのためにも、俺はアーミーになる道を選んだんだ…」とニックは昔を思い出すようにしみじみと僕らに語り、米軍に入った経緯を教えてくれた。


ネイビー(船乗り)として世界を渡り歩いたニックが若かりし頃、ベトナム戦争の1970年代、そして80年代にかけて彼が話す、タイやベトナム、フィリピン等の話はどれも興味深いものばかりだった。20数年以上前、パタヤがさほど開発されていなかった時代の話。ニックが初めてパタヤを訪れた頃はまだジョムティエンビーチも開発されておらず、パタヤ湾の海岸沿いに僅かなバーが建ち並んでいるだけの素っ気ないビーチリゾートだったらしい。とはいえ、だからこそ彼ら大勢の米軍たちが来る時は街をあげての歓迎ムードになるわけだ。


「パタヤを訪れる時は、大きな船だから沖合いまでしか近寄れないんだ。そこから小型ボートを漕いで上陸するわけだが、皆、興奮してるから我先にと海に飛び込んでビーチまで泳ぐんだよ。パタヤみたいな歓楽地に滞在する時は軍で定期的に性病検査があるんだ。俺はドクターからクスねた自分専用の注射器を持っていたからな。それで滞在中にダーティーな液体(黄色い膿)が出ると自ら抗生物質を太ももやおしりに打つんだ。俺も昔はよく淋病にかかってトータル10回以上は自分で注射したもんだよ。だから性病のことなら何でも知ってるぞ、困ったら何でも聞いて来いよ」


ニックの話はいつもブラックジョークが散りばめられた、軽妙で魅力的なトークばかりだった。彼ら米軍たちが大型船でパタヤを訪れると、パタヤビーチの海岸線にはずらり現地の女性たちが勢揃いし、アメリカ国旗を振って出迎える。沖合いから小型船に乗って上陸してくる米軍たちの姿に騒然だったことだろう。上陸を待ちきれず沖合いから競うように泳いでくるアーミーたちに声援を送るように、キャーキャーと嬌声混じりのタイレディたちが出迎える。ニックから昔話を聞き、パタヤにもそんな時代があったのかと空想するだけでも楽しかった。


戦地に赴き、過酷な戦闘に従事すれば軍からボーナス(報奨金)が出る。ニックは30歳ぐらいの時に、その資金と貯金を全部はたいて、現役軍人でありながらも、フィリピンのアンヘレスでゴーゴーバー経営をやったことがあるらしい。それはすぐに失敗に終わってしまったようだが、「俺もあの頃はまだ若かったんだ。ちょうどヒロぐらいのヒヨッコだった時だよ」と昔を懐かしむように語るニックに、僕は今の自分を重ね合わせた。ニックは折にふれて、僕に応援の言葉をかけてくれた。


「ヒロ、お前はまだパピー(ヒヨッコ)だから何をやったっていいんだ。俺だって昔はただのチンピラだったんだぞ。それが軍のおかげでここまで来れたんだ。でもな、ゴーゴーバー経営した時は、俺も軍を早期リタイアするつもりだったんだ。俺は戦地で人を殺したことはないが、死んだ人間はたくさん見てきた。それは想像を絶する体験だよ。だから軍人生活にも嫌気がさしていたんだ。でも、考えが甘ちゃんだったんだな。1年も持たずに店を畳んで貯金も底を尽きたけど、俺はそれで経験したんだ。昔から大工作業が好きでな。店を自分の好きなように作っていくのは本当に楽しかったもんだよ」


ニックは語気を強める。


「でも、何もしなければ、それはゼロ、ナッシングなんだ!俺が言ってる意味が分かるか?何かを始める時は全てゼロからで、投資するならそれはマイナスからのスタートだ。ギャンブルのようなもんだよ。でもな、何もしなければ、何も手にすることはできないんだ。何かを得たいなら、考えてるだけじゃなくて、実際やってみないといけないってわけさ」


僕はニックの話にただ深く頷くばかりだ。


「フィリピンでのゴーゴーバーの失敗が教訓になったよ。だから、俺はまたしばらくは軍で働いて貯金することにしたんだ。それから10数年が経ち、今度は日本に移住して飲食業のリベンジを果たした。日本人のスタッフは皆とても真面目で勤勉に働いてくれるし、成功したのは彼らのおかげだよ。でもな、3年間必死に店作りに経営にと休みなく働いてきたけど、俺はすぐに飽きちゃうんだな。それでまた何か別の新しいことをやりたくなっちまうのさ」


僕は自分の中の考えと、ニックの話す言葉が脳内でシンクロして、酷く刺激を受けることになった。


「実は俺にはガキがいるんだ。20歳を超えた辺りの若い時期に結婚してな。まあ、それも3年と持たなかったんだが。その別れたワイフとの間にガキがいるんだよ。今はたまにアメリカに帰った時は会えるような関係になったんだけどな。ちょうどヒロと同じぐらいの年頃だよ」


聞くと、ニックの子供は僕とまったく同じ生まれ年だった。ニックは僕にとって父親といってもおかしくない年齢だった。でも親父というだけではない、人生の先輩というか師匠のような、フレンドリーな兄貴、親分といった存在だった。そして、早期リタイアして移住した日本でも結婚して別れた日本人の奥さんがいたようなので、ニックはバツ2ということになるらしいが、実際ニックは随分とプレイボーイ(モテ男)だったようだ。それは少年のような若い気持ちと精神性を兼ね備えているといった雰囲気のニックでもあったから、僕には理解できた。特に熱しやすく冷めやすいタチ(性質)は僕と同様のものだと感じた。


ニックはのんびり優雅に世の中を渡り歩いてきた、いぶし銀が光るダンディーな大人の男といったオーラを常に漂わせていた。180cm以上ある大柄の体躯で、白人だから肌が弱いらしく、日中は必ずサングラスを着用している。日焼け対策なのかTシャツの上にいつも決まってPOLO(ラルフローレン)の長袖チェックシャツを羽織り、少し袖をまくったスタイルだ。下はラフなジーンズを履き、足元は機能性に優れたスポーツサンダルである。そして時計はロレックスのダイバーズモデル。僕はそのシンプルな装いに好感を持ち、その佇まいは大好きな俳優であるケビン・コスナーを連想させた。


僕が金銭的にギリギリで暮らしている現状を知っているニックは、時に人生を左右させるような嬉しい言葉もかけてくれた。それは僕がこの先どうすりゃいいんだ、金もいつまでも続くわけじゃないし、と深く先行きを案じ、昼間ののどかな時間帯であるにも関わらず、思い余ってニックが滞在しているホテルの部屋に足を運んで、色々と現状の不安な思いを切々とぶちまけた時だった。ニックはそんな僕の話に優しく耳を傾け、そして、散々僕の愚痴を聞いた後に、こう言ってくれたのだった。


「ヒロ、お前は何だっていいから、とにかく何かやってみろ。それで、もし上手くいかずに滞在資金が尽きて、日本に戻らなきゃいけなくなったら、その時は俺の店で働くってのはどうだ?頑張ればその内マネージャーの位を与えてやってもいいぞ。飯は賄いつきだし、いつだって無料で食べりゃいいさ。家は俺のマンションに住めばいい、家賃はフリーだ。サラリー(給料)は毎月30万円ぐらいあげよう。それにトビーみたいに三ヶ月ごとに一ヶ月の休暇を与えるスタイルでもいいぞ。そしたらお前も金を貯めてタイにまた来れるだろ?どうだ、嫌か?それでも日本には帰りたくないか?だったら、何かやるだけだよ…」


僕はニックから言われた寛大な言葉にただ感動し、思わず涙を流してしまった。


すぐにニックに歩み寄り、握手しながら、自ら身体を預けると、「サンキュー、ニック」と何度も言いながら、ニックの大きな胸に顔を埋めていた……。


僕はパタヤ移住を始めてから出会う、濃いキャラ(性質)を持った欧米人たちに囲まれて、そのうち彼らの生き方に影響を受けるようになっていった。そんな中ニックだけは僕にとって特別な存在となっていった。


ニックの行きつけであるジョージのバーにも、様々な人種とタイプの欧米人たちが集っていた。もちろん彼らにも其々のバックボーン(背景)やタイ(パタヤ)にまつわる物語があった。


欧米人のことをタイ語で「ファラン」という。総じて欧米人種全体を言い表す言葉で、タイ人に言わせると、金髪で肌が白い、俗にいう白人のイメージである。パタヤはファランが溢れる街で、開拓者(外資)としての顔も持つファランが、欧米文化やそれを感じさせる街並みを築き、現地の景観に溶け込ませ、じっくり時間をかけて根付かせてきたという雰囲気がそこかしこに漂う街だ。人種のるつぼといった街でもある。


実際、そんな欧米人たちの輪の中に足を踏み入れてみると、ほんとに各種様々、いろんな人種とそのお国柄、性格(性質)、そして人生物語があり、僕は至極関心を抱くようになった。


少しでもいい、そんな彼らの仲間入りするために、自分も早く何かをやりたいという強い意欲に駆り立てられていた。


それから、再び悶々としていた時に、突然、機会は訪れた。


ニックからビジネスの話がリュウさんと僕の二人に持ちかけられたのだった。


それはゴーゴーバー経営の話だった。

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