パタヤ生活編

第29話)甘い生活とリアルタイランド

「ピピッ、ピピッ、ピピッ♪」


機械的なメッセージ受信音が無音の室内に鳴り響き、カーテンが閉めきられた薄暗い空間に液晶画面から放たれたオレンジ色の光が浮かび上がる。うたた寝していた僕はじっとりかいた寝汗を拭いながら、枕元においてあったタイ製の安価な携帯電話に手を伸ばした。隣で寝ていたエルもその音と光で目を覚ましてしまったようだ。彼女は怪訝そうな表情で僕が手にした携帯電話を覗き見る。


「Cookie Bar ni 6pm syugo de. 4649」


タイ人である彼女には理解できないだろうローマ字で書かれた日本語の文字列。その中にある英単語と数字で文脈を読み取ったのか、エルは眉をひそめて表情を曇らせた。リュウさんからの誘いのメッセージだった。まだ昨晩の酒が抜け切れていないのか、ズキズキと頭の奥の方に居座っている不快感を感じながらも、返信のメッセージを送る。


「Ryokai desu」


南国での淡い夢を胸に抱き、意気揚々とタイに降り立ち、パタヤ移住生活をスタートさせた僕だったが、まだ旅行者気分が抜け切れていないのか、何もせぬままにすでに数週間が経過していた。およそ一ヶ月ぶりにパタヤに舞い戻り、連絡を取ると、エルはすぐに僕に会いにバンコクからパタヤへとやってきた。彼女とは僕がタイ移住を決意した頃に出会い、それから数週間ほど時を過ごした恋人のような関係だった。


パタヤ生活を始めるにあたり、僕はすでに定宿になっていたLEKアパートメントに当然のように足を向けた。セカンドロードからソイブアカオへと繋がるソイダイアナに位置するこの安宿の周辺は、長期滞在者が集う安ホテルが密集する幾分賑やかなエリアで、暮らしの拠点地としては最適の環境だった。


しかし、ハイシーズンを迎えたパタヤの街並みは想像していた以上に欧米人の観光客たちで溢れ、僕のお気に入りであった通りに面した角部屋はすでに誰かにあてがわれており、安宿とはいえほぼ満室状態だった。更にホテルにとっては年始の書き入れ時であるため、部屋代も幾らか割り増し料金に設定されていた。


パタヤ移住を始めた高揚感に加え、持参した現金にも幾らか余裕を感じていたため、僕は数週間ほど繁忙期の旅行者価格で定宿に落ち着いた。久しぶりに再会を果たしたエルとの甘いひと時に陶酔しては機嫌よく浪費し、お気楽なパタヤ生活をスタートさせていた。だが、それもすぐに不安へと変わった。旅行者時分は一週間程度の滞在で飲み食い夜遊びにと20万円ぐらいは平気で使っていたが、いざ長期滞在していくとなると、そんな金銭感覚で暮らしていくことなど到底無理な話である。


「そんなんじゃあ、タイで生活していけないよ…」とリュウさんからも早々に釘を刺されることになった。


リュウさんが言うには、タイで安く済ませて生活していくためには、簡単にいうと年間100万円程が先ず考えるべき目安だということだった。単純計算すると月に10万円を超えない範囲内でやりくりしなければならないということになる。当時は一万円で3,500バーツ前後が両替レートだったので、タイバーツを3倍すれば大よその日本円になるという感覚だった。となると一ヶ月で30,000バーツ、一日1,000バーツというのが基準値だった。宿代が400バーツならば残り600バーツ以内で一日の飲食等を抑えなければならない。タイ飯を一日に2~3回食べるとしても、飲み代には数百バーツしか使えないわけだ。


とはいえ、定宿に転がり込んできたエルと同棲する恋人のように浮かれたパタヤ生活を始めた僕にとって、そんなケチケチした節約じみた考えは到底頭にはなかった。


僕が日本帰還時に私物一切を売り払い、なけなしの貯金とわずかばかりの退職金をかき集めて、タイに持参した全資金は60~70万円程だった。これに当面3ヶ月間は日本を行き来して失業保険をもらえるという程度だった。となると月に10万円以上散財するような日々を繰り返すならば確実に1年は持たない計算になる。要はエルとの甘い生活に溺れ、女にうつつを抜かしているようでは破綻は目に見えている。そうなる前に生活資金を稼ぐべく、何かしら早く行動に移さなければ先はない、というシビアな現実が目の前にあるだけだった。


僕はすっかり顔見知りになっていた定宿のオーナーである恰幅のいいオバサン、通称ビッグママにおねだりするように部屋代の値下げ交渉を持ちかけた。リュウさんの住まいであるホリデイホテルの家賃は一ヶ月9,000バーツ程だった。電気代は使用した分だけ別途徴収となるのでトータルすると10,000~11,000バーツということになるらしいが、それでも一日あたりに換算すれば350バーツ程度である。僕はそれ以下の価格でマンスリー契約できなければ、これ以上ここに住み続ける意味はないとビッグママに告げた。


ママは僕の申し出に困った表情を浮かべたが、何とか僕の状況を理解してくれた。ウーンと頭を捻らせながら、取り出した電卓をカシャカシャと叩き、片言の英語で説明するように僕に告げる。通常400バーツのエアコンルームを月単位で借りるならば、一日あたり負けても300バーツ×30日で月額9,000バーツ。エアコンなしでファンだけの部屋なら250バーツ×30日で月額7,500バーツというのがビッグママが譲歩した最終的な言い値だった。


「ママー、プリーズ、ディスカウント、モア、プリーズ…」と甘える子供のように彼女にもう一声を強請る。電気代と水道代込みなので、これ以上は経営が成り立たないから無理だと現実的な返答をするビッグママ。それでもしつこく交渉を続けると、「それなら他のところを探せばいいじゃない?アパートならもっと安く借りられるでしょ」と冷たい最終通告をされてしまった。確かにアパートなら5,000バーツ程で賃貸できるという話はリュウさんから聞いていた。しかし、アパートを借りるとなると家具やら家電製品など色々と自分で調達しなければならないということだった。


「ママー、俺はここが好きだし居心地がいいんだよ、頼むよー。ディスカウント、モア、プリーズ…」。


すると、もはや困り果てたような表情のビッグママから思いがけない一言が返ってきた。その時の状況を言い表すなら、こんな雰囲気の物言いとやり取りだった。


「全くしょうがないわねぇ。じゃあ、敷地の奥にある従業員用の部屋が今ちょうど一部屋空いているから、アナタがそれでいいんだったら、一ヶ月3,000バーツでいいわよ。どう?」


「何?それって?たったの3,000バーツ?ホントに?見せて、見せて!」


一ヶ月3,000バーツとは一日あたり100バーツと破格の料金である。喜び勇んで従業員専用の部屋に案内してもらうと、そこは客室の半分程の広さの狭い空間であった。一応ながら古い木製のベッドとクローゼットは備えつけられている。しばらく使われていなかったのか、室内は至る所に埃が目立ち、鼻をつくカビくさい異臭が充満していた。浴室を確認してみると簡素な洋式トイレがぽつんと置いてあり、壁から飛び出すように設置されたシャワーからは水だけしか出ないようだ。


部屋にはもちろんエアコンなどあるはずはなく、天井にはファンすらもない。日当たりは悪く薄暗い、じめじめした空間。閉めきられたカーテンと窓を開けると隣のホテルの外壁がすぐ目の前にあり、景色を楽しむどころではなかった。それにエアコンの室外機がゴォーゴォーと轟音を響かせ、そこから排気されている生暖かい風が漂い、換気のために窓を開けるのは無理な様子だった。


僕は呆気に取られる一方だったが、この粗末な部屋ならハングリー精神が芽生えて、ここから成り上がっていこうと自分を奮い立たせることができるかもしれない。出発地点としては最適なのかもしれないと自らを戒め、思い切って借りることにした。


すでに顔見知りになっていた従業員と一緒に部屋を掃除する。さすがに扇風機は用意してくれた。テレビは必要なら一月500バーツの追加料金が発生するというので断った。掛け布団とシーツ類は用意してくれたが、部屋の掃除やシーツの替えなどは基本的にしないセルフでというのがビッグママからの条件だった。


それでもこの安宿の従業員は女性ばかりでママのファミリー経営という感じだったから、貧乏くさい日本人が自分たちと同じ境遇の部屋に住み始めたという同情からか優しくしてくれ、週に一度はママに内緒でシーツを替えてくれたり、洗濯物を干すスペースを提供してくれたり、何かと世話を焼いてくれることになった。


環境が変われば自ずと人格も変わる。旅行者とは違う現地人同等の住まいに身を置くことで、僕の金銭感覚はみるみるうちに質素になっていき、生活はタイ人化していった。食事は専らタイ飯のみで屋台か行きつけの食堂で全て済ませる。僕は部屋代以外の諸々の出費を一日200~300バーツ程度で抑えるように自らを制限し、1,000バーツは一万円、100バーツは千円のような感覚で考えるようになっていった。


終日ギラギラと照りつける南国の日差しと砂埃舞う道路のせいで、外出するとすぐに汗だくになり衣服は汚れてしまうので、洗濯には気を使うことになった。定宿のランドリーサービスは幾分高いので、すぐ傍にあった洗濯屋を利用するようになった。掘っ立て小屋のような住まいを兼ねたその洗濯屋は、定宿のビッグママに似た雰囲気の丸々と太ったオバサンが経営しており、愛想もよく格安なのが良かった。料金は一着あたり数バーツだった。


下着類は自分で洗えるのでお願いするのはTシャツばかりだったが、Tシャツにまでピシッとアイロンをかけるのがタイスタイルらしく、袖にきっちり折り目がつくことに当初は違和感を感じていた。日本では多少シワがよっていても洗濯後そのままTシャツを身につけるというのが普通だったから、初めはホテルの部屋で自分で洗濯していた。だが、それだと小汚い、みっともないとエルに言われてTシャツだけは洗濯屋に出すようになったのだった。


しかし、そのアイロンのせいでお気に入りのTシャツはラバープリントが溶けて絵柄が台無しになってしまった。また他人の物と間違えないように区別するためか、襟首についているブランドのネームタグには油性マジックで文字を書きこまれてしまった。その「J」という英文字は「Japanese」の略らしく、半ば怒って突っ込む僕に、洗濯屋のオバサンはマイペンライ(大丈夫)と笑ってごまかすだけだった。


うだるような午後の陽光が幾らか落ち着きを見せ、パタヤの街が穏やかな夕焼け色に染まる頃合、リュウさんから連絡があると、先ずはソイブアカオのクッキーバーに集合するというのがいつものお決まりのパターンになっていた。初めのうちはエルも一緒に連れて行っていたが、彼女は酒が苦手なたちで飲み歩くことが嫌いなようだったので、僕がリュウさんに会いに行くとなると、部屋で待っているか友達に会いにいくか別行動するようになった。それにリュウさんに気を使っている様子だった。


日本人長期滞在者が集うバービア「LITTLE ANT(リトルアント)」、通称クッキーバーでリュウさんと落ち合うと、シンハービアかタイウイスキー等の安酒をチビチビやりながら無料のビリヤードに興じる。大きな敷地内は左右20軒近くのバービアが軒を連ねる開放的な空間で、食事時になると様々な屋台や売り子が現れて各店舗を練り歩く。僕のお気に入りはいつもサイドカー仕様のバイクでやってくるオジサンのガイヤーン(焼き鳥)だった。


1串5~10バーツ程と安く、炭火で時間をかけて丁寧に焼き上げる焼き鳥の味は中々のものだった。それに四角い形に薄く伸ばしたカオニャオ(もち米)を一緒に食べる。バターとマスタードのようなものを混ぜた調味料を刷毛(はけ)で塗っては、塩こしょうを振りかけ丹念にじっくり焼き上げていく。何とも香ばしい煎餅のようなカリカリした食感がお酒のつまみとしてもよく合った。


クッキーバーで小腹を満たし、ひとしきりビリヤードに興じると、それからようやくソイ7、8、9辺りの繁華街へと繰り出す。そして、深夜までダラダラと安酒を飲みふける。僕はクセが強いメコンの口当たりが苦手で、センソムというタイウイスキーを飲むようになった。それをコーラで割ってライムを搾ってもらう。タイ語で注文する際は「センソム・コーク・サイ・マナオ・ドゥアイ(センソムのコーラ割り、ライムを一緒に入れて)」という感じだ。料金はバービアで飲むと一杯30~35バーツ程と格安だった。


まだ客足の少ない早い時間帯に店が客寄せとしてドリンクを割引価格で提供するハッピーアワーや、一杯頼むと無料でもう一杯ついてくるバイ・ワン・ゲット・ワン・フリー(Buy One, Get One Free)を狙ってバービアを飲み歩くというのが定番だった。


それから深夜2時、3時を回り、ふらふらと繁華街で飲みふけった後は、再び宿近くのソイブアカオまで戻ってきて、最後はクッキーバーで締める。いつも待ちきれなくなったエルがどこかで合流することになった。そして、翌日昼過ぎに起床し、ダラダラしているとすぐにまた夕暮れ時になってしまう。しばらくは飲兵衛なリュウさんのペースに振り回される日々が続いた。


「俺はいったい何をやってるんだ。両親からは勘当同然で日本を飛び出してきたっていうのに。あの時、自らに誓った決意表明はどこにいってしまったんだ…」


エルとの甘い生活を続け、毎晩リュウさんに連れられて夜の盛り場へと繰り出す毎日を送っていると、再び言いようのない不安や焦燥が顔を覗かせるようになった。


のんびり穏やかな南国の空間に身を任せるように浸っているうちに、当然のように時間は淡々と過ぎ去っていく。パタヤ移住生活を始めてから、すぐに一ヶ月が経過してしまった。


僕はハローワークから提示された失業保険の支給日に合わせるように日本に帰国し、同郷の友人の住まいに数日滞在させてもらうと、一週間と間を空けずに再びタイへと舞い戻ってきた。テレビ業界で働き続けている友人は、すでに家庭を持ち、家には小さな赤ん坊もいた。彼ら夫妻は僕を接待するように滞在中もてなしてくれたが、その日本の当たり前の光景、家庭の温もりを感じさせる幸せそうな空間が、却って僕を憂鬱にさせた。


「お前はいったいタイで何をやりよるとか?」


「いや、パタヤで長期滞在しとる日本人と知り合って、その人と一緒にこれから商売を始めようと思ってくさ。今は現地で色々と準備をしとる段階なんよ…」


「へぇー、タイで商売とかすごいやん。で、何をやるつもりなん?」


「うん、パタヤは観光地やから欧米人旅行者が多いんよ。だけん、屋台スタイルでタコライスを売ろうかと思っとる」


「はぁー?なんやそれ、タコライスって?あの沖縄料理のやつか?」


「そうそう、あのファーストフードみたいなやつたい…」


「そんなんでやっていけるとや?」


「分からん。でも、とりあえず今んところはそれでやっていこうかと思っとるったい」


「はぁー、ほんとに大丈夫かいな?今やお前は世捨て人みたいやなー」


「ははは、そうやな…」


確かに日本の社会をドロップアウトし、異国の地タイで何をやっているかも分からない僕は、日本で家庭を持ち全うに暮らしている友人からすれば全く想像もできない人間であり、まさに世捨て人だった。その言葉は僕の胸に深く突き刺さった。


友人の家にあったパソコンを借りて、再度インターネットでタコライスのレシピを集め、本屋に出向いて色々と料理関連の書籍を購入した僕は、タイに再び舞い戻るとリュウさんにそれらを差し出し、思いの丈をぶつけた。


「そろそろ、話していたタコライスの商売について、動き始めた方がいいかと思いまして。色々レシピとか参考になりそうな本とか買ってきました」


「ほんとに?それはありがとう。じゃあ、さっそく目を通しておくよ」


「出店する場所とかも探さないといけませんよね。どうしましょう?」


「うーん、それはコンビニの前とかちょっとしたスペースを借りてってことになるんだけどさ。いい場所だと家賃も結構するからねー。それでタイ人を雇って数十バーツのタコライスを売って、はたして一日どれぐらい売り上がるのか?ってことだよね。それで俺ら二人の生活費が出るぐらい利益を上げられるのかってことなんだよ。まあ、先ずは原価計算しないとね」


「そうですか。じゃあ、先ずは話していたように試作品でも作ってから、という感じですか?」


「うん、そうだね。でも、先ずはヒロ君自身がタイの生活に慣れることからだよね。市場調査じゃないけど、数ヶ月ぐらいは実際に色々と現地を見て、タイ事情を知って、もちろんタイ語も覚えてさぁ。今はまだ失業保険をもらいに毎月タイと日本を行ったり来たりの生活だからね。こっちにしばらく腰を据えられるようにならないと商売なんか出来ないと思うよ。まあ、焦らず、焦らずね」


「は、はぁ、、そうですか……」


当初の話では、持参してきたレシピを元に、市場かスーパー辺りで材料を買出し、先ずは試作品を作ってみて、周りのタイ人や欧米人に試食させて意見を訊いてみる。それである程度の原価が分かるし、幾らぐらいなら売れそうか?といった具体的な第一段階を踏むことができる。それから色々試行錯誤しながら、出店場所を探して、という計画だった。


しかし、それから数日が経ち、数週間が過ぎても、その計画が実行に移されることはなかった。


リュウさんにとってタコライス販売計画は現実的に考えると投資したいと思えるほど魅力を感じるアイデアではなかったのか。いや、実はタイで商売するということ自体が頭であれこれ考えた机上の論理など簡単には通用しないシビアなものなのか。半ば旅行者気分でタイ移住を決めた当時の僕にとって、当然それは全く分からないことだった。


一緒にビジネスをしようという話は何だったんだ?それにスポンサーに話して生活費程度の給料を保障してくれるという話はどこにいったんだ?リュウさん自身は日本に帰国する度にスポンサーから幾ばくかの金銭をもらっているようだった。そもそも、そのスポンサーってやつはいったい何者なんだ?


商売に投じる資金の余裕すらない、手持ち資金で出来る限り長くタイにいるために日々の生活をやっていくだけで一杯一杯だった僕にとって、リュウさんは頼みの綱であり、こっち都合の意見など言うこともできない。二人の間には主従関係のようなものがすでに出来上がっていた。


いつしかタコライスの計画は禁句のように立ち消えとなった。


僕は現実逃避するようにエルとの甘い情事に溺れ、リュウさんとの堕落した飲んだくれ夜遊び生活が繰り返し、繰り返し、日々淡々と続くだけであった。

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