第27話)ドロップアウト・ジャパン
「このまま辞めたら、お前の人生はもう終わりだぞ。それでもいいのか?」
最後の話し合いと呼び出された会社近くの喫茶店で、上司に言われたその言葉は、僕を不安にさせることなど微塵もなく、逆にわなわなと全身を熱く震わせる怒りの感情しか生まれてこなかった。このまま辞めたら、俺の人生は終わりだって?なんでアンタにそんなことが分かるんだ。いや、そんなことは絶対にない!
親ほどに歳の離れた上司は、突き放すような言葉で僕の気持ちを踏み止まらせようとしたが、その言葉が却って僕の決心を揺るぎのないものに変えた。二度に渡って辞表を受理されず休職扱いとなり、数ヶ月もの間ふらふら彷徨い、悶々と思い悩む日々が続いていたが、皮肉にも最後の話し合いで上司に言われたその言葉のおかげで、僕はぷつんと理性の糸が切れるように完全に吹っ切れたのだった。
あれからもう何ヶ月が過ぎただろうか。勢い余って会社を辞め、逃げるように飛び出した日本、癒しを求めて訪れた南国の楽園タイランド。それからパタヤで知り合った日本人長期滞在者リュウさんに誘われ、導かれるように決めたタイ移住。僕にとって激動の2002年がようやく終わり、時は2003年の新年を迎えた。
すでに解約を申し出ていた下北沢のアパートは年が明けた15日までに部屋を大家に明け渡さなければならない。世間の正月休暇が明け公的機関や一般企業が仕事始めで通常営業を開始すると、僕もそれに合わせるようにパタヤ移住へ向けようやく動き始めた。日本に帰国してからそのまま僕のアパートへ転がり込んできたリュウさんとは、結局、年末年始を共に過ごすことになった。それから、僕のアパートの賃貸終了期限である1月15日に合わせてもらい、同じタイ行きの航空券を予約した。
年に何度かは日本に帰るというリュウさんは1年のオープンチケット、僕は1ヶ月のFIXチケットを購入した。なぜ1ヶ月のFIXチケットを購入したかというと、それは1ヶ月先の決められた日時に再度、日本に戻って来なければならない用事ができたからだった。それは失業保険だった。僕は全くそんなことなど考えもしなかったのだが、仕事を数ヶ月前に辞めた僕には幾ばくかの失業保険を受給できる資格があったようだ。そのことをリュウさんから聞いた僕は、そんな手があったのかと帰国後リュウさんに付き添ってもらい、人生初めてのハローワークに足を運んだ。
下北沢に住まいがあった僕は世田谷区民ということになるので、向かったのは渋谷のハローワークだった。システムもよく分からないまま事務的な手続きを終えると、僕には3ヶ月間(90日分)の支給がされることが分かった。給付額は月額で16~18万円程だったので、タイまでの往復航空券を5~6万円程で抑えれば10万円程が残ることになる。だから僕は失業保険がもらえる間は、そのためだけに毎月、日本とタイを行き来することに決めたのだった。
それから出発日に合わせるように電気や水道を解約し、固定電話に携帯電話、インターネットなどを解約した。そして、最後に住民票を抜き、転入先もないまま自分の存在がまさに宙ぶらりん状態になると、自分はもう日本には居場所はなく、日本人としての権利や資格を全て失ったような感覚にとらわれた。
僕は数枚持っていた銀行のキャッシュカードから有り金を全て下ろすと、クレジットカードの類はタイではもう必要ないとばかりに全てハサミで切り刻み、ゴミ箱に捨てた。それは僕にとって日本を捨てこれから異国の地でやっていくための覚悟であり、自分に向けた決意表明としての儀式のようでもあった。
とにかく、その時の僕は自分が日本で使ってきたものを、日本という垢がついたしがらみを一切捨て去り、まっさらな無の状態にしたかったのだろう。
学生時代から8年近く住み続けた一人暮らしの部屋はまさしく物で溢れかえっていた。インターネットで不用品を売るなど、それまで全く経験がなかった僕は、衣類や下着など要らなくなると全てゴミ袋に入れて捨てていた。これからは暑い南国へ行くのだからもう冬物衣料やブーツなどは不要品である。僕はタイで色々お世話になったお礼にとリュウさんに「何か欲しいものがあれば何でも持っていってください」と私物を処分するように無料であげた。そして、自分のお気に入りの衣類などダンボール数箱分の荷物だけをまとめて実家に送った。
渋谷、原宿、代官山辺りで買い揃えてきた数々の品々。当時流行っていたDCブランドに裏原宿系もの、下北で集めた古着、ビンテージ衣料など、そこそこの金額をはたいて購入した思い出の品ばかりだったが、これからタイ移住を始める僕にとってはどれも不必要なものだと思われた。僕はその中でも特に高額なものだけを数点見繕い、インターネットオークションを趣味でやっていた友人に頼んで売ってもらい現金に変えることにした。そして、日本に帰国した際に必要な最低限の衣類や捨てられない写真アルバムなどダンボール一箱分の荷物だけ、その友人に預かってもらうことにした。
パチンコで大勝した時に奮発して買ったIWCの時計は30万円近くしたものが20万円程で売れた。大事にしていたシルバーアクセサリーも数万円の現金に変わった。それまで数年かけて収集してきた趣味関連のコレクションたちも資金調達のためにと背に腹は変えられず泣く泣く売り払うことにした。
インターネットで調べた買取業者に電話をして家に来てもらう。映画のVHSはほとんどガラクタ同然だったが、ようやく一般にも普及し始めていたDVDが少々あったので、そこそこの値段で買い取ってくれた。書籍にマンガ本、雑誌などは大した額にはならなかった。
ハードロック、パンク、コア、UKロックなど洋楽中心の音楽CDにアナログ盤のLP(レコード)は全部で2000枚近くあった。僕にとっては最も売りたくない大事なコレクションであったが大量の荷物を実家に送りつけても、そのうち処分されることは目に見えていたので渋々手放すことにした。それら思い出が詰まった品々を一つ一つ時間をかけて、とはいえ淡々と査定されていく。
買取業者の兄ちゃんに「これは100円ぐらいにしかなりませんねー」とか「この辺は価格がつけられませんね、数十円なら…」なんてシビアな査定を言い渡され、ムキになって「それはないでしょう、これはですね、云々かんぬん…」と僕目線の商品価値を説明しようとするが、そんなやり取りも始めのうちだけで、そのうち、もう好きにして下さいとばかりに観念することになった。結局、僕が数年かけてコツコツ収集してきた宝物たちの買取価格は全部で十数万円ほどにしかならなかった。
オーディオ機器や家電用品も全て処分すべく、買取業者に数社電話して相談してみたが、中古の大型家電は買い取るどころか、逆に回収するために金がかかるんですよと非情な回答をされたので、売ることはすぐに断念した。僕は学生時代から足繁く通っていた下北の行きつけのショットバーに久々に顔を出し、そこの主(兼バーテン)であるジョーさんにタイ移住する旨を告げると、全て譲ることにした。
上京してからずっと愛用してきたビデオ内臓型の14インチ箱型テレビ(俗に言うテレビデオ)に、当時としては大型だった30インチ程の二代目テレビ、それにビデオデッキ2台、DVDプレーヤー、ホームシアターサウンドシステム、レコードプレーヤー、コンポ、ラジカセ、映画鑑賞用の特大スクリーンにプロジェクター、そして電話機やデスクトップのパソコンなど、彼のバーで有効利用してもらえるならと思ったからだった。
ジョーさんは僕が仕事を辞めたことは知っていたが、タイ移住することに驚き、それでもバーテンダーという職業柄いろんな人たちを見てきたこともあるのだろう、すぐに門出を祝うようにタイ行きを祝福してくれた。翌日、バーから数分程の近距離にある僕の住まいに来ると、彼は大喜びして一緒に荷物を運んだ。電子レンジ、冷蔵庫といった家電製品や収納ボックス、棚類なども全てバーで役に立ちそうだった。ジョーさんが不必要だというソファーベッドや調理器具等もとりあえず店に運び、それらはすぐに常連のお客さんたちに無料で提供され喜ばれることになった。
誰からも貰い手がなく部屋に唯一残ったのが洗濯機だった。業者に頼むと回収するのに5,000円程がかかると言われていた。僕はジョーさんとひと気の少ない深夜に、アパートのすぐ近くにあるコインパーキングに運んでそれを投棄した。敷地内の奥にエロ本の自動販売機があり、その脇に放置された自転車や粗大ゴミなどが固まっているスペースがあったのだ。翌日、どうなったか確かめに行くと、すでに僕の洗濯機は誰かに持って行かれたようだった。
ジョーさんにあげたつもりの品々はトータルすると結構な額になるものだったので、結局、彼は餞別という形で僕に数万円を支払ってくれた。それからタイに行く直前、ジョーさんの奢りで飯を食いに行くことになった。バーテンの彼とプライベートで、それも二人だけで食事に行くことなど、それまで一度もなかったことだから僕はその最初で最後の彼の心意気が嬉しくて仕方なかった。ジョーさん行きつけの焼き鳥屋に連れて行ってもらい、色んな酒場をはしごし、その日は久しぶりにベロベロに酔っ払うほどに二人で酒を飲み交わし語り合った。
深夜明け方近くになり、最後の締めにとジョーさんは定休日だった店を僕だけのために開けてくれた。酒が弱い僕がいつも決まって頼むのがウォッカトニックだった。ジンはクセが強いし悪酔いしてしまう気がする。ウイスキーやバーボンなどはもってのほか。そんな僕にジンよりウォッカのほうが飲み易いし、次の日そんなに残らないよと学生時分の僕に教えてくれたのがジョーさんだった。それから僕はウォッカトニックを愛飲するようになった。
そして、ジョーさんが僕のためだけに作ってくれるオリジナルのカクテルがあった。それはコアントローというリキュールをトニックウォーターで割ったもので、それに少量のカルピスを混ぜて最後にレモンを絞る。酒が苦手な僕にとって、それは甘く口当たりの良いポカリスエットのような爽やかな味わいで、僕はそれを「ポカリ」と呼んでいた。「じゃあ、最後はヒロお得意のポカリにするか?」 ジョーさんはいつものように僕専用のスペシャル・カクテルを作ってくれた。
ジョーさんの店はロックミュージックを流すバーだったので、僕はその空間が大好きだった。学生時代、友達たちと数人で訪れ、深夜遅くになると決まってハードロック系のアップテンポの曲調に変わる。店内には耳をつんざくほどの大ボリューム音が響き渡り、もちろん皆ノリノリご機嫌になり身体を揺らし始める。するとそれを見たジョーさんが「そろそろいっとくか?やっとくか?」とテキーラを勧めてくるという按配だった。冷凍庫でキンキンに冷やされたトロトロのオルメカは若い時分バカ騒ぎした時の象徴のようでもあった。
僕は兄貴ほどにしか年が離れていないジョーさんに対し、少なからず羨望や憧れの気持ちを抱いていたことも確かだった。毎晩好きなだけ酒を呑み、彼のことを慕うように訪れる常連客たちとワイワイ飲み騒いでいる彼を見て、なんて自由気ままに生きているんだ、楽しそうな人生を送っているんだとバーテンダーという職業を羨ましく思ったりしたものだった。
そのようなことを彼に話すと、ジョーさんは「まぁなー、でも、実際はそーでもないぜ…。嫌な客の相手もしなきゃなんないし、だいたい皆が揃って仕事の愚痴ばかりだからな。こっちも聞いててウンザリするけど、皆その愚痴話を聞いてもらいたいんだよな。別に家で独りで飲んでもいいわけだし、他にも店はごまんとあるわけだろ。それでも俺の店に来てくれてるわけだからさ。高い酒代を払ってよぉ…」と僕に本心を語ってくれた。
それからジョーさんは、サラリーマンという定職を捨て、今後タイという異国の地で生きていく決意を固めている僕に対し、同志を見るような暖かい目線で、これまで彼が会った人たちの参考になりそうな人生話を色々としてくれた。実はジョーさん自身も自分で店を持つために運送屋で数年働いて資金を貯めたこと、それに毎月数十万円という高い家賃を払って店を経営していくことがどれだけ大変なことか現実的な苦労話を初めて教えてくれた。それは客前では絶対に見せない彼の裏の素顔であり、アヒルも水面下では一生懸命に水をかいているという例え話のようでもあった。
そして、ジョーさんはおもむろにカウンターの下から一冊の本を取り出すと、恥ずかしそうにはにかみながら僕に手渡した。それは僕も何冊か持っていた高橋歩の本だったが「LOVE&FREE」という僕が持っていない詩集タイプの書籍だった。
「客がいない時とかにたまに読み返すんだ。俺が読んだやつだけどさ、今のヒロに丁度いいかもしれないから、よかったらあげるよ」
パラパラと中をめくると、ジョーさんが特に気に入っているという1ページに付箋が挟まれていた。そこにはこう書かれていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
でっかい花
ゆっくりやりてぇなら、胸張ってゆっくりやろうぜ。
ぶらぶらしたけりゃ、飽きるまでぶらぶらしようぜ。
ココロに引っかかることがあるなら、納得できるまで遠回りしようぜ。
「年相応の世間体」なんて気にしてたら、自分を小さくするばかり。
「人生」とは、生まれてから死ぬまでの全ての期間をさすんだ。
「人生、男子は一事を成せば足る」
いつか、死んじまう日がくる前に、
一回でもいい、一瞬でもいい、
命を精一杯輝かせた、
でっかい花、咲かそうな。
(引用:LOVE&FREE 高橋歩)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
それはまさにフラフラしているその時の僕にすぅーと染み入る言葉で応援メッセージのようにも感じた。
これがバーテンダーという職業なのかと合点がいった。
僕は「必ずタイで一花咲かせて、いつかジョーさんに会いに東京に戻ってきます」と再会を誓い、彼の店を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます