火取虫のララバイ
射矢らた
火取虫のララバイ
◇4月17日(月)晴れ
記念すべき登校拒否1日目だ。今日から日記を書くことにする。母さんがすごいうるさいけど部屋から出ない作戦。こないだウィキペディアで不登校を調べたら、中学校で一番多い不登校の理由は無気力。意外と僕はメジャーな部類だったらしい。一生ゲームやってる父とレイヤー崩れで水商売の母が作った日本最低ランクの家庭の子供。そんなやつ学校行かなくても日本国様は痛くもかゆくもない。とりあえず親たちと関わるのは今日でもう終わり。今日から自由行動HAPPY! GOING MY WAY!
熱しやすく冷めやすい僕は時折今の自分に心細くなって、不登校を始めた四カ月前の日記の書き出しをまるで辞書でも引くかのように、藁をも掴む気持ちで読み返す。あの頃は自分がおっ始めた大革命にのぼせ上がっていて、朝まで眠れないくらいだった。
塩ビパイプ製のラックを組む。ぐらつかないように柱の長さを揃えてネジをしっかりと締める。風で倒れないようにラックの足を砂袋で固める。大きな白いシーツでラックを覆い、ぴんと張ってピンチで留める。ラックの上に丸い水銀灯を吊るす。両脇に蛍光灯型のブラックライトを取り付ける。僕はこの工程をすっかり頭に入れたので、ナルセの指示がなくてももう一人で組み上げられる。真夜中の山奥で、LEDの懐中電灯をたよりに黙々とやるこの作業は、とてもエキサイティングだ。
「先生、OKです」
僕が言うと、ナルセは右手を軽くあげてから、準備していた発電機のスターターを引いた。ヤマハのインバータ発電機はヒュルル、という軽快な回転音とともに動き出し、水銀灯が辺りを照らしはじめ、ブラックライトに反応したシーツが青白く浮かび上がった。トラップの据え付けはこれで完了だ。あとはただ、待つ。この待つ時間が、最高に楽しい。
昆虫採集の方法のひとつに、灯火採集というのがある。虫の走光性を利用した方法だ。走光性というのは虫が光に集まる習性で、コンビニや自動販売機、トイレなどの灯りに集まっているのを探して捕まえるか、自発的に灯りを照らして待つか。僕らがいま行っているのが、後者だ。ライトトラップという。
いくらも経たないうちに、すぐにばさばさと飛んできて布にへばり付くデカいのがいた。ナルセが近づいて、すぐに、シモフリスズメ、と言った。僕も顔を寄せてみて、昨日も来ましたね、と答える。小さいやつはどんどん飛んでくる。水銀灯を背に飛んでいると光が明滅するのでよくわかる。ナルセはそれらがシーツにくっつくたびに観察して名前を挙げる。えーと、アカエダシャク。ツマトビかな? ツマトビシロエダシャク。ヨシカレハ。スカシクロバ。たまに間違えて飛んでくるカナブンやカミキリムシには目もくれない。僕たちの目当ては、蛾なのだ。ナルセは蛾を捕まえては僕の鼻っ面に押しやってくる。ナルセにとってはすでに採集済みの種ばかりらしい。初心者の僕は差し出された蛾をひと通り回収する。捕まえた蛾は、毒ビンの中に放り込む。毒ビンには酢酸エチルを含ませた脱脂綿が入っていて、そいつで蛾を気絶させ、そののち三角紙という紙の袋に一頭ずつ入れて持ち帰る。鱗粉が落ち易い蛾は暴れると剥げてしまって標本にならないので、そのための処置だ。三角紙には獲った場所と日付を書いておく。僕は蛾を捕まえながら、辺りに気を配っていた。あの真っ白な、森の妖精みたいな気高い蛾が僕のために飛んでくるのを、ずっと待っていた。
その日も、夜が明けはじめる少し前まで採集を続けた。採集した蛾は二十二頭。機材を片づけていると、ナルセはしゃがんだまま、
「来なかったね、オオミズアオ」と言った。
「また、今夜に期待します」
そう僕が返すと、ナルセは、そうだね、まだ大丈夫、と言った。
ナルセの家の玄関先で、獲った獲物をタッパーに詰めていく。三角紙の中で動かないように、できるだけ詰めて入れる。まだ毒ビンの中にいるやつも、袋に入れ直して詰める。補虫アミを畳んで帰りかけたとき、廊下の奥の戸が開いてナルセの奥さんが出てきた。僕は、しまった、と思いながら、小声で、お早うございます、と言った。奥さんは口元で微笑んでちょっと頭を下げてから、ナルセに、パンは? と聞いた。ナルセが僕に目配せするので、頂きます、と答える。僕は世間知らずだから、こういうとき、断るべきかどうか、わからない。結局、キッチンへ押し入ってジャムを塗ったトーストと牛乳を貰って食べる。隣の居間にある小さなベッドには赤ちゃんが真っ赤な顔で寝ている。わずかな物音でも起きてしまうらしく、奥さんがよく抱き上げては子守唄を歌ってあやしていた。僕はひと通り食べ終わると、食器をそっとシンクに重ねて置いて、二人に礼を述べてそそくさと家路につく。
家に帰ると、ナルセの家でしたように、またこっそりと玄関を上がり、きしむ戸を開けて台所に入る。壁の時計を見ると、六時五分。この時間、親はそろって爆睡中だ。リュックサックから先ほどのタッパーを取り出し、素早く冷蔵庫の奥に突っ込んで、忍び足で自分の部屋に戻り、戸に鍵をかけて、布団に身を投げ出した。夜の山は寒いくらいだったが、今は裸になりたいくらい暑い。
毎朝十時前には起きる。隣の部屋から、NHKの体操番組の音楽が聞こえてくる。運動不足の父が母に強制されているのだ。まだ三十五歳なのに、老人みたいだ。恥ずかしい。
起きて取り掛かるのは、蛾の
ナルセと蛾の採集に出掛けるようになって半月が経つ。
ナルセ、つまり成瀬良彦は、中学校の国語教諭で、さらには僕が1年3組のときからのクラスの担任で、3年に上がっていきなり不登校になった僕に一学期の間じゅう電話を掛けてきたり家庭訪問にきたり、鬱陶しいくらい世話を焼いた人だった。学校から言われていたのかも知れない。
そのナルセも夏休みに入って大人しくなっていたのに、迂闊にも夜の山で出くわしてしまった。僕は少し前から、暇を持て余して夜中に家をこっそり抜け出して外歩きをするようになっていた。街を徘徊すれば警察に補導されそうなので、ネットで調べておもしろそうなことを模索した結果、山へ入ってクワガタ採集をすることにした。その決行初日にナルセに会ったのだ。ナルセはその日も蛾を大量に集めまくっていた。遠目から見て、闇の中でナルセのいる一帯だけが煌々と光っていて、僕ははじめUFOかと思って戦慄したが、少しづつ近づくと先にナルセの方が気づいて、嬉しそうに駆け寄ってきた。
ナルセは、待ってればクワガタもたまに飛んでくるよ、とだけ言った。学校のことはひとことも言わなかった。
大小の蛾がいくつも飛んできた。ナルセは捕まえて僕に見せた。
「蝶よりこっちのほうが綺麗だなんて、変だろ」
ナルセの手の中で、蛾は太い胴体で静かに息をしていた。毛皮を纏った頭に、ウチワみたいな触角が揺れていた。まるい複眼は鈍くにじんで光っていて、どこまでも黒かった。
「いや、そんなことないです」
僕が蛾を両手で受け取ると、包んだ手の中でばたばた飛んだ。意外に強い力だったので怖くなって手を開くと、蛾はそのまま闇の中に飛んでいった。手のひらには茶色い鱗粉がたくさんついていて、翅や足や胴体が手の皮膚を押す感触がいつまでも残っていた。初めて、蝶ではなく、蛾に触った。少し震えた。
三時間くらい、ナルセと夢中で蛾をとった。自転車を積んでもらって、ナルセの家に帰った。そこで初めて蛾の標本箱や乾燥中の展翅板を見た。すごい数だった。箱の中には見たこともない、大小の蛾がずらりと並んでいた。その中に、真っ白な蛾があった。背を向けたものと腹を向けたものと二種類の標本があった。妖精のようだった。オオミズアオという種類らしかった。ほかのものに比べてひときわ大きく、美しかった。五月から八月の間に発生するんだけど、この辺りはなかなかいない、とナルセは言った。
僕はこの夏、オオミズアオを獲ろうと決めた。
展翅に没頭していると、昼頃、部屋のドアをノックする音が聞こえた。少し時間を置いてドアを開けると、廊下にプレートに乗った焼き飯が置いてあった。父が毎日食事を作って置いてくれるのだ。父の焼き飯はちょっと醤油が多くて辛い。食事にはお茶と、両親が書いたメッセージがいつも添えてある。内容は、時事ニュースだったり、家に来たナルセのことだったり、父の大会結果だったり、様々だ。たまに父が寄稿したゲーム雑誌の記事の切り抜きがあったりもする。僕は、このメモを読むたびに、自分が親を恨んでなんかいないことを痛感して歯痒い気持ちになる。何も言わずに食事を届けてくれるようになった五月の中頃から、メモは欠かさず添えてある。僕はそれを全部、引き出しの奥にとっている。
現役プロゲーマーの父と元コスプレイヤーの母は、ある格闘ゲームの全国大会で出会ったそうだ。父はその大会の優勝者で、母はそのイベントのマスコットキャラクターだった。二人はそれぞれが一番輝いている時に出会い、それから半年も経たずに母は僕を身ごもり、二人は二人三脚で転落していった。母のコスプレ衣装はいまや全て部屋着になっている。人生あてのない旅人同士で結婚すると、こういうことになるらしい。
けれど僕は感謝しなければいけない。今のところこうして食事をくれるし、スマホもずっと使えている。親は僕が夜中に家を出て蛾の採集なんてしてるのを、何も言ってこない。きっとナルセと連絡を取り合っているのだと思う。それをナルセに聞くのは嫌だ。結局僕はまだ子どもで、社会の枠組みの中で生かされている。自由になると言ったって、まるで毒ビンのなかの蛾みたいに、いつかおとなしくなるまでばたばた暴れているだけだ。
◇8月15日(火)晴れ
僕のコレクションも増えてきた。けれどオオミズアオはまだ現れない。あと半月で八月も終わってしまう。そうすればオオミズアオの時期が終わってしまう。とれなければ、僕の生きてる意味がない。
◇8月21日(月)曇り
昨日は風が強くてあまり飛んでこなかった。ここ一週間はすでに獲った蛾ばかりで新しい種類が増えていない。今晩は学校の正門前に集合らしい。なんなんだろう? ナルセが怪しい。
午前二時。学校の正門につづく林道はうすら寒かった。袖口から潜り込んでくる冷たい空気はとても湿っていて、体じゅうがどんどん濡れていくように感じた。
校門までやって来て、僕はとてつもない不安に襲われ、同時にふて腐れた。そこには、ナルセと一緒に、チャンポンがいた。チャンポンは小学生のときからのクラスメイトでよく遊んだし、中学もずっと一緒だったが、僕が学校に行かなくなってからは一度も会っていなかった。不登校になったやつなんて誰も相手にしない。チャンポンの家はごく普通の一般家庭だ。親もちゃんとした会社員だ。僕とはもともと合わない。ナルセが呼んだのか、経緯はわからないが、二人ともなにか勘違いしているのだ。謀略だ、と思って、ナルセを恨んだ。今までのことは何だったんだろう。
チャンポンは僕を見るなり、よう、久し振り、とデカい声で言った。彼は僕と性格も違う。蛾を集めて喜ぶようなやつじゃない。そうは思ったけれど、僕は右手を挙げ、おう、と何気ないふうを装って返してしまった。
その夜の採集は最悪だった。よっぽど帰ってやろうかと思った。チャンポンは蛾のことなんてほとんどそっちのけで、ナルセと喋ってばかりいた。毎晩こんなことしてて奥さん怒らないの? 家の中、蛾だらけなんでしょ。子どもの世話してんの? 家事手伝ってるの? ナルセは終始、大丈夫大丈夫、と言って笑っていた。僕はそんな話、ナルセにしたことがない。真剣に蛾を獲りたいのだ。
◇8月22日(火)くもり
なんなんだあいつ! いいとこの子供はおとなしく寝とけばいい! 邪魔だ。ナルセはどういうつもりだ。結局あいつは僕を学校に来させたいだけだったのか。それでチャンポンを雇ったのか。許せない! 復学を目論んでるとしたら逆効果だ。だいたいチャンポンとなんて仲良くもない。蛾も獲らずに喋ってばかりいる。ナルセもずっと喋ってる。あんなに不真面目だとは思わなかった。僕はこれでナルセに不信感を抱いた。チャンポンがいたらオオミズアオどころじゃない! 採集どころじゃない! むかつく!
◇8月25雨
雨で採集はナシ! あと五日しかない。もうすぐ九月だ。九月になったら終わりだ。僕は生きる目標がなくなる。もう、一人で行ったほうがマシだ。でも機材がない。コンビニとかを回って探す方法もあるけど、自転車で行ける範囲なんてたかが知れてる。結局、僕はナルセにくっついてやるしかないのか。ガキ! 僕はガキだ。
◇8月26
結局、また三人で行った。行くたびに、チャンポンが来ていなければいいのにと思う。二学期が始まればチャンポンも来れなくなるだろうけど、それでは遅すぎる。
八月三十一日。
今日で八月は終わりだ。オオミズアオに会うチャンスは今夜で最後。ナルセの家に着くと、チャンポンが一人で待っていた。ナルセ、出てこねえよ、と言うので、早くしてくれよ、と返すでもなく呟いた。それから十分も経ってから、ようやくナルセは出てきた。紙切れを何枚か持っていた。暗くてよく分からなかったが、くしゃくしゃの顔をしているように見えた。
「ごめん、遅くなって」
そういうナルセは、それでもまったく急ぐ気配がなかった。それどころか、よろよろとして、今にも倒れ込んでしまいそうな感じだった。僕は一刻も早く出発したかった。ナルセの様子を見ても、苛立ちばかりが募った。
「先生、どうかしたん」
チャンポンがナルセのそばに寄って聞いた。その時、はじめてナルセの顔をよく見た。ナルセの顔は血の気が引いていてほんとうに真っ白だった。
「悪い。今日はやめにしよう」
僕は失望した。今日は一人で山を探し回るしかない、と思った。今晩しかないのだ。
「どうしたん、マジで」
チャンポンはしつこく聞き出そうとする。よせばいいと思った。
ナルセは、僕たちの顔を順番に見て、恥ずかしいことだけど、と言って小さいほうの紙切れをチャンポンに渡した。チャンポンは僕に一緒に見るように促した。
それは、奥さんの書いた長い書き置きで、離婚したい、我慢できない、という内容だった。ナルセに対する非難の言葉がずっと書かれてあった。もう一枚の大きい紙は、あの、離婚届だった。ドラマみたいに、奥さんの署名と捺印があった。
「マジかよ」
チャンポンが、感情のよくわからない、素っ頓狂な声を上げた。
「風呂に入ってる間にいなくなっちゃった。俺、奥さん探すからさ、また明日にしよう、な」
また明日、という言葉がやたら間が抜けて聞こえた。もう、明日なんてないように思われた。僕はもう諦めた。この二人はダメだ。自分の力で探すしかない。
「じゃあ僕、今日は一人で行きます」
僕がそう言うと、チャンポンが目を見開いて突っかかってきた。
「お前なあ。なんでだよ? なんでまだ蛾なんか探そうとすんの」
「だってどうにもできない。仕方ないよ」
「仕方ないじゃねえよ! ナルセ、奥さんいなくなってんだぞ」
深夜の住宅地でチャンポンが声を張り上げた。僕は驚いて目頭に涙が溜まり、歯を食いしばった。
「は、張本」ナルセが慌ててチャンポンを制して言った。
「張本、いいんだ。有難いけど、これは俺と嫁さんの問題だから。俺が何とかしないといけないんだから。頼む、今日は帰って」
チャンポンは不服を露わにしたが、結局、僕たちは引き上げることになった。帰り道、僕はそれでもまだ、チャンポンと別れたあとに山へ行くかどうか迷っていた。
「俺、お前のことわかんねえよ」
チャンポンが言った。僕が何も答えないでいると、お前ってなんにも話さないじゃん、と小さな声で続けた。
「奥さんにだって何回も世話になったじゃん」
そうだ。チャンポンに言われるまでもなく、僕はさっきからずっとナルセの奥さんのことを思い出していた。焼いたパンの熱さや、ジャムの味や、さみしげに歌う子守唄を思い出していた。チャンポンの言うように、協力すべきだったのかも知れない。けれど、僕は僕でそれどころじゃなかった。僕には僕の一大事が確かにあった。
「これでナルセが本当に離婚したら、俺たち後悔するぞ」
「じゃあ探すの? 僕たちで奥さん探すのか?」
真っ当なことを言われて、かっとなった。チャンポンは、それは、と言い淀んで、わかんねえ、こんなこと俺たちが出る幕じゃないのかも知れないし、と俯いて言った。僕はチャンポンを責めるような言い方をしてしまったことを後悔してしょぼくれた。
踏切を渡って、互いに後ろ髪を引かれながら別れてしまった。僕はもう、急に何もかもどうでもよくなってしまって、早く帰って布団に突っ伏したかった。
けれど、そうはいかなかった。現実は僕の失望や疲れを全部無視して襲いかかってきた。大通りに出た途端、見つけてしまったのだ。
僕ははっとしてガードレールに身を隠した。
通り沿いのファミレスから赤ちゃんを抱いた奥さんが出てきたのを、この僕が見つけてしまった。遠巻きに観察すると、奥さんは駅に向かって歩いていくようだった。僕はほとんど咄嗟に、唯一の友に電話をかけていた。
「チャンポン、奥さん見つけた! 助けて!」
一部始終を伝えて電話を切ったあと、自分でも変な言い方をしたと思った。それでも、チャンポンは三十秒も経たないうちに駆けつけた。
「ナルセに電話したぞ」
そう言いながら、チャンポンは目を皿のようにして奥さんの姿を追った。僕は、奥さんの後ろ姿を見ているうちに、あの子守歌が聞こえたような気がして、涙が込み上げた。毎日のように会っていたのに、もう二度と会えない気さえした。
「チャンポン、来てくれ!」全身が震え立った。僕は自転車を置いて走った。チャンポンもすぐに続いた。
赤信号に立ち止まった奥さんに飛びついた。
「あのっ、」
奥さんのことをなんと呼べばいいかわからず、足もとでひれ伏した。となりでチャンポンもひれ伏した。奥さんは、きゃっ、と言って少し後ずさりしたが、構わなかった。
「戻ってください!」
「ナルセを連れ回してすみませんでした!」
「これからはちゃんとします!」
「帰ってきてください!」
「お願いします!」
無我夢中で奥さんのスニーカーに向かって叫んだ。言葉はなんでもよかった。喉の奥から出てくることをそのまま叫んだ。
「よしみ、よしみ、ごめんなさい! 僕が悪かったです、ごめんなさい、勘弁してください、すみません!」
交差点の角に停まった見慣れた車からナルセが叫びながら出てきて、僕たちの間にすべり込んで土下座した。ナルセはまったくダメなやつだった。歩道のコンクリに頭をぐりぐり擦り付けていた。三人でひと通り謝り続けて奥さんを見上げると、彼女は目にいっぱい涙を溜めたまま、ぶふっ、と吹き出して、そのあとわんわん声を上げて泣きだした。続いて泣き出したナルセがあまりにも情けなくて、僕とチャンポンは込み上げる笑いをこらえるのに必死だった。
信号が変わって、停まった車や歩く人たちがみんな見ていた。
チャンポンと公園を通って帰った。夜の公園は見事なまでに殺風景だった。僕は自転車のタイヤゴムが細かい砂にまみれるのを見ながら歩いた。
「大人の自由って、すげえな」
不意にチャンポンが言った。なにそれ、と聞くと、
「だってさ、自分の意志で家族の縁を切れるんだから。俺も縁切りたいときあるよ。俺の親、うぜえんだもん」
僕はその言葉に少し驚いた。知らなかった。
「チャンポンもあるの」
勝手に親との縁を切ったつもりになっていた。でも僕は、いつしか気づかされた。親との関係は、切れるものじゃなかった。
「いや。僕はもうどっかで諦めたんだと思う」
僕がそう言うと、チャンポンは笑った。
「お前の親、いい人たちだよ。明るくて仲もいいし。離婚なんて絶対しなさそうだし。お前恵まれてるよ」
「そうかもしれない。二人揃ってバカだから」
そう言って、僕は急に、自分の家に帰りたくなった。
「チャンポン、悪い、ちょっと帰るわ」
おう、と面食らって手を挙げたチャンポンに、僕は、できるだけ笑って、ありがとう、と言った。
公園を出るときに見かけた水銀灯に、蛾が集まっていた。その中に一瞬、真っ白い大きな蛾が見えたような気がしたが、僕は振り切って走った。
家に帰ると、父がまだ起きてゲームをしていて、僕の姿を見るなり突っ伏して寝たふりをしようとするので、ただいま、と言った。
「もう終わったの? きょ、今日早くない?」
「うん、今日は、なし」
父はテレビを消して、その場でうろうろして言った。
「……そろそろママ迎えに行くけど、一緒に行こっか」
僕は迷わず、行くと答えた。
母を店に送る時について行ったことはあったが、迎えに行くのは初めてだった。酔っぱらった母は僕を見て、ニヤニヤしながら、ほーらね、と言った。目にいっぱい涙を溜めていた。帰りに、ナルセの奥さんが出てきたファミレスに寄って、晩ご飯だかなんだかわからない軽い食事をした。母は、お祝い、と言って自分だけ赤ワインを注文した。僕はぼそぼそと、ナルセと奥さんのことを話した。母は、甘いねえ、その奥さん、まだまだ甘い、と言ってフライドポテトにケチャップを直接大量にかけた。コイツなんて見なよ、ゲームしか能ないじゃん、と母に指を指されて、父は頭を掻きながら、ご飯も作れるよ、と言った。僕は二人のやり取りを見ながら、チャンポンの言葉を思い出して一人で首肯した。
「なに? なに一人で納得してんのよ」
母が顔を覗き込むので、僕は、ううん、とかぶりを振って、詰まり詰まり、今まですみません、と言った。最後のほうは唇が震えた。
母は、いいのよ、と言って真っ赤になったポテトをいじくり回し、
「いつの間にかね、アンタは子守唄なんかなくっても一人で眠って一人で起きられるようになったってことよ。立派だよ。アタシたちも長いことかかってそれがわかっただけのこと。通過点よ」
と、自分で頷きながら言った。それから、結局ポテトに口はつけず、喉をごくごく言わせてワインを飲み干した。
次の日の朝、僕とチャンポンはナルセに呼ばれて家に行った。
奥さんは戻った。ナルセは蛾をやめると言った。チャンポンが反対したが、けじめだから、と言って譲らなかった。
ナルセは採集機材と標本その他を全部僕たちに押し付けた。考えた末、学校の理科室と用具室にこっそり運び込むことにした。僕たちも続ける気力は失せていた。簡単に言うと、白けたのだ。
忍び込んだ理科室の棚に標本を並べながら、チャンポンが言った。
「なあ、二学期から学校くれば」
僕は内心驚きながら、照れ笑いをしてチャンポンの顔を見たが、チャンポンはちっとも笑っていなかった。
僕は、うん、考える、と真面目に答えた。窓の外を見ると校庭がやたら白くて、赤いサッカー部員も緑の野球部員も掻き消えそうだった。みんな、小さかった。
学校に通う意味は、いつまで経っても見出せなかった。学校へ行くとしたら、それは、あの親たちのためだ。今は、それでもいいような気がした。校庭で部活に励む生徒を見て、みんな一生懸命やってるなあ、と思った。
「始業の日、お前んチに誘いに行くからな」
そう言うチャンポンの仁王様のような表情に吹き出して、理科室を出て廊下を走った。
自転車にまたがり、正門を出て林道を抜け、風を切って坂道を下る。日差しはいよいよ強かった。向かう先はチャンポンの家だ。新しいゲーム機とソフトを買ったらしい。
もちろん父には、内緒だ。
火取虫のララバイ 射矢らた @iruya_rata
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