迷っているのは猫ではなく

ギア

迷っているのは猫ではなく

 仕事を終えてオフィスを出る。もう9月も半ばということもあって夏の蒸し暑さは消え失せていたが、かといって肌寒さなどはかけらもない。私は1年で最も過ごし良い空気をスカートから伸びる足に感じつつ、1人暮らしのアパートでゴロゴロすべく歩き始めた。


 駅前からほんの少し外れると江戸時代には上水路として用いられていた小川が流れている。これに沿ってさかのぼればアパートまで迷うことなく帰れるのだ。実に便利。会社に入ってからというもの、ここを四季を感じつつ徒歩で通勤するのが私の日課となった。


 その夜は、木々の茂る川沿いが秋らしく虫の音で満ちていた。すでに日が落ちたあとの木陰は影絵のように黒く塗りつぶされていたが、一定間隔に並ぶ街灯に透けて光る葉の緑にはまだ夏の名残を感じた。


 その緑がやけに綺麗に目に映り、なんとなく足を止めて見上げていた。時間だけはたっぷりある。何しろアラサー女の独身暮らし。家で待ってる人もなく、急いで帰る必要もない。


 ボケっと薄緑に光る葉を見上げていたが、ふとそれを照らす街灯が気になった。いや、正しくはその街灯の目線の高さに貼られていた何かだ。普段目にするような無断で貼られている広告の類とは明らかに違っていた。


 それには猫の写真と飼い主の連絡先が載っていた。迷い猫の情報を乞うものだ。実はこの辺りではそれほど珍しいものではない。年に何度かは目にする。


 ただ、その張り紙は私が今まで見てきたものと1つだけ違っていた。写真の猫に見覚えがある気がしたのだ。それも誰かの家の中などではなく、実際に路上を歩いているところを見たような気がした。


 写真の猫は黒と茶の縞模様だった。ふむ。記憶をザクザクと掘り返す。


 ああ、思い出した。先週の土曜日か日曜日だ。自転車でこの川沿いを通り過ぎたときに見かけた猫に似ている気がする。妙に良い毛並みに加えて、鮮やかな赤い首輪という野良猫に似つかわしくないものを身に着けていたので、色濃く記憶に残っていた。


 張り紙をあらためて確認する。私の見かけた場所とその連絡先の住所は直線距離にして数キロメートルといったところだ。猫の行動範囲は狭いとは言うが、ありえない距離ではないだろう。


 猫の模様以外の情報としては「首輪をしています」と書かれている。「オレンジを基調としたカラフルなデザイン」らしい。さらに「銀のタグが下がっている」とある。


 先週見かけた猫を思い返す。その首にはがあった。はてさて、単に違う猫だったのだろうか。それとも実際はオレンジ色だった首輪を私が赤と見間違えてしまったのだろうか。銀のタグがついていたという記憶はない。しかし単に見えない角度だったのかもしれない。


 あらためて張り紙の詳細を読んでみる。


 依頼者によると猫が逃げ出したのは9月6日らしい。私が猫を見かけたのは先週の土曜日か日曜日に出かけたときだから、9月6日か9月7日。


 うわ、一致した。


 それに気づいたとき、思わず私は顔をしかめた。見かけたのが逃げ出した日よりも前だったら悩む必要もない。間違いなく別の猫だ。報告する理由もない。


 しかし、ふむ、可能性があるらしい。張り紙にはご丁寧に「どんなわずかな情報でもかまいません」と書かれている。そのすぐ下に依頼者の電話番号がある。電話番号はなぜか2つあった。単に電話を2つ持っている人なのか、夫婦それぞれの番号なのか、はたまた兄弟や姉妹や親子なのか。いやいや、そこは問題ではない。


 悩んでいても結論は出そうになかった。いつまでも街灯の下に立っていると蚊に食われる一方だ。はてさて、どうしよう。


 仕方ない。アイツに相談しよう。


 スマホを取り出す。メッセージの類ではこの状況を上手く伝えられる気がしなかったので、電話をかけてみた。これで相手が電話に出なかったら、諦めてまっすぐ家に帰ろう。そう考えていたが、私と同じくアラサー独身女子である友人も1人で暇していたらしく、すぐに電話に出てくれた。


「お、どうした?」

「暇?」

「まあ、ぶっちゃけ暇だけど」


 夜という時間帯ということもあって、相手の声はいぶかしげだった。


 私は簡単に事情を説明した。そして「アンタだったらどうする?」と聞いてみた。なお、個人的に気にしているポイントもちゃんと説明しておいた。1つは記憶にある首輪の色が張り紙の情報と合っていないこと、そしてもう1つ、ほぼ1週間も前の情報を今更伝えるかどうか、だ。


 友人はほとんど迷わなかった。


「私だったら電話するかなあ」

「するかあ」

「ただ、相手がおかしい人だったら困るかもね」

「どんなふうに」

「なんでそのとき捕まえてくれなかったんですか、とか詰め寄られたら嫌よね」


 幸か不幸か、その心配はいらない。張り紙には「人見知りをする猫なので無理に近づかないでください」とあったからだ。無理に捕まえようとしていたら逆に怒られそうな注意書きだ。


「それは大丈夫そう」

「ああ、そうなん? じゃあ電話するかな」

「そっか。ありがと」


 私は感謝の言葉と一緒に電話を切った。手にしたスマホをそのままにあらためて張り紙に向かう。友人の言葉に説得されたわけではなかった。会話の最中でもう電話をする決心はついていた。多分私はきっかけが欲しかっただけなのだ。


 電話番号は090と080で始まる番号が2つ書かれている。特に大した理由もなく、私は090で始まる方の番号に電話をかけた。呼び出し音が鳴る。そのまま鳴り続ける呼び出し音を聞きながら、ふと気づく。相手からしてみたら見知らぬ番号からの着信になるわけだ。警戒させてるかもしれない。


 その考えを読みとったかのように、相手方が留守電モードになった。あらら。録音開始の発信音が鳴る前に私は通話を終了した。音声だけ残すのも面倒だったし、なんと言えばよいか考えていなかったからだ。少し迷ってから、080で始まる番号へ電話をかけた。


 また留守電モードになったらもう諦めよう。そう決心したとき、電話がつながった。


 「はい?」


 不安げなその声は40代の女性のものに聞こえた。


 私は名字だけ名乗り、張り紙を見たことを伝えた。そして「先週末の9月6日か7日のことなので、もう1週間経ってますし、どれほど参考になるかは分かりません。それに首輪の色も違った気がします」とあらかじめ断った上で、そのとき見かけた野良猫が写真の猫に似ていたことを話した。


 見た目について少し細かく聞かれたので、思い出せる限りの範囲で答えた。また見かけた場所も可能な限り詳しく伝えておいた。


 相手は「ありがとうございました。その周辺を探してみることにします」と述べたあと「また見かけるようなことがあれば、ぜひお電話ください」と付け加え、最後にあらためてお礼の言葉を述べてから電話を切った。


 私はスマホを鞄にしまって、再度歩き始めた。意識せずにいた空気の心地よさが戻ってきた。一息つく。電話をして良かった。そう思った。


 川沿いの道を歩きながらさっきの友人へメッセージを送った。電話をしたこと、特に問題なかったこと、感謝されたこと、そして最後に友人への感謝。


 メッセージを送り終えたあたりで、橋のたもとにさしかかった。私の家は反対岸だ。しかし橋はここだけではない。しばらく先に進んでから別の橋を渡ってもいい。普段は川べりの歩きやすさを重視して次の橋を渡って帰っているが、今日の私は橋を渡ることにした。


 猫のためだ。


 先週末に猫を見かけたのは、確かこの橋を渡った向こう側だった。通勤時と違って、休日に家から駅へ向かうときはそっち側を自転車で走行し、今通り過ぎた橋を渡ってから今日さっきまで歩いてきた道のりをさかのぼる形となる。


 橋を渡った。土の露出する川沿いの道を歩く。川のすぐ側まで迫った民家の並びと川沿いに植えられた草木に挟まれた形となる。秋を迎えたばかりのひやりとした空気の中に岸辺から聞こえる柔らかい虫の声が満ちていた。


 その只中を行く心地よさに笑みがこぼれる。これだけでも道を変えた甲斐があったかもしれない。そんな優しい気持ちに浸っていた矢先。ふいっと目を向けた車の屋根に、例の猫がちんまりと座っていた。


 うぐっ、と思わず込み上げた笑いを咽喉でこらえる。なぜ笑いをこらえたのか、自分でも良く分からなかった。猫が逃げるかもしれない、と考えたのか、民家の住人に不審者と思われることを恐れたのか。


 いずれにせよ笑いが込み上げた理由ははっきりしている。そんなバカな、という笑いだ。さっき電話したばかりで同じ場所を通り過ぎたらそこにいました、なんて出来過ぎだろう。


 しかしあらためて見ると本当に毛並みの良い猫だ。柄は茶の縞模様。首輪の色はなんだろう。暗くてよく見えない。真っ赤な首輪なら私の勘違いでした、ということで収まる。いや、収まるのか?


 それ以前にどうしよう。報告するのか。しかし誰が信じるんだ。連絡したわずか数分後に「1週間前見かけたので、またいるかもしれない、と思って同じ道を行ったらいました」と伝えるのか。私だったらイタズラ電話と判断する。


 ただ、ついさっき聞いたばかりでまだ耳に残る「見かけたらまた電話してください」の言葉。脳裏の浮かぶのは張り紙にあった「わずかな情報でもかまいません」の言葉。


 わずか数秒、いやもっと短い刹那の瞬間、そんなこんながまとめて頭の中でぐるりと巡った。猫は変わらず自動車の屋根に座ってこっちを凝視している。おそらく意識がないあいだ、私も同様に相手を見つめていたことだろう。


 よし。まずは首輪だ。首輪を確認しよう。


 正面を見ている猫の首は夜の暗がりに真っ黒な影となってしまっている。普通に近づいたら逃げるだろう。ジリジリと横に移動し角度を変えようとしたが、猫の目がこっちにしっかりロックオンされており、まるで首とそのすぐ下が固定されたかのように正面顔を維持されてしまう。どれだけその角度に自信があるんだ、お前は。


 どうすればいいんだ、と焦る私をあざ笑うかのような事態が起きた。


 なんと隣の民家との隙間から猫がもう1匹が現れたのだ。勘弁して欲しい。1匹でも手一杯なのに何をしに出てきたんだ。元居た猫を驚かせないようにゆっくりを顔を新しく出現した猫へと向ける。


 薄茶色の縞模様のない猫だった。ああ、良かった。首輪もしていない。よし、今回の件には無関係だ。


 私の迷惑そうな雰囲気を感知したのか、ありがたいことにその新たな猫はそのまま回れ右をして暗闇に消えていった。ありがとう。そしてさようなら。


 あらためて最初の猫に向き直る。私の視線が外れたことで暇になったのか毛づくろいを始めていた。首輪がちらちらと見える。


 赤いような気がする。


 もう少し首を傾けてくれないだろうか、と願う私の思いが届いたのかどうかは分からないが、猫は顔を上げると私のほうを一瞥してから乗用車のフロントガラスを滑り降りると、そのままアスファルトへと降り立った。


 私の足元へと歩み寄ってきたので、しゃがみ込んで迎え入れる。


 そして、そのあまりに人懐こい行動を見たとき、「人見知りをする猫なので」という文言を思い出した。


 違う猫だ。


 すり寄ってきた猫の首元に見えた鮮やかな赤い首輪を見ながら、1人頷く。事象が確定した瞬間だった。さっきまでは箱の中で迷い猫と野良猫が入り混じった状態だった。開いた箱の中、観察されたことで野良猫に確定したのだ。


 私の迷いが晴れたことに気づいて無理に留まる理由もないと判断したのか、猫は私の足元を離れて車の下へと潜り、姿を消した。


 それ以上追う必要を感じなかった。


 私は立ち上がって、対して汚れてもいないスカートの裾を形だけ払ってから歩きだした。なんとなくスマホを取り出すと友人からメッセージが届いていた。いつか続報あったら教えれ、とだけ書かれていた。


 ちょうどいい。私はまたスマホから相手に電話した。ただ今度は判断に迷ってのことではなかった。


「どうした」

「うん、続報」

「早いな」


 笑う相手に顛末を伝えた。そして、先ほどの探し主には電話しないことも伝えた。友人は不思議そうに、なぜ電話しないのか、と聞いて来た。


 あまりにもさっきの電話から間が空いておらず、先の電話と合わせていたずらと思われるのが嫌だったからだ。それとあまり深くつながることも避けたかった。この件を他人事のままにしておきたかった。そう説明してみた。


 私は間違っているのかもしれない。


 しかし私の説明を聞いた友人は「私だったら電話するけど私じゃないからなあ」と笑った。そんな彼女の距離感がありがたかった。


 電話を切るとすっかり夜も更けて空気はさらに冷えていた。妙に暖かく満ち足りた私の内とは対照的に。

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