中編
中編
翌日――金曜日は三日ぶりに晴れ晴れとした天気の朝だった。だが、学校に来ると天気とは裏腹に教室内にはどこか妙な雰囲気が漂っていた。
僕が教室に入った途端、クラスメイトたちの視線が一斉に僕へと向けられた。しかも、その後にみんな一様に僕から目を逸らすのだった。
シロの一件以来、僕は確かに教室で浮いていたが、それでもこんな反応は初めてだった。戸惑いながら教室を見回すと、静本さんの姿が目に入った。
驚いたことに、彼女は目を赤く泣き晴らしながら僕の方を見ている。彼女は席から立ち上がると、
つかつかと歩み寄ってきて、僕を睨みつけた。
「最悪」
静本さんはそういうと、泣き腫らした眼をこすりながら、僕の横を通り過ぎて教室から出て行ってしまった。
その後ろ姿を、訝しげに見送ることしかできなかった。改めて教室の中を振り返ると、僕の方を見ているクラスメイトは誰もいなかった。
その日の午前中はずっとそんな妙な雰囲気が続いていた。教室の皆はまるでクラスに異物が紛れこんでいるかのように僕の方をちらちらと見た。今まで露骨に僕のことを無視していたのは静本さんだけだったのに、声をかけようとするとみんな避けるように離れていった。
いったいどうしたというのか、まるでわからなかった。
昼休みになると、秋宮さんが僕の席へと近づいてきて「ちょっと来て」と声をかけた。辺りをはばかるような小さな声だった。
こくりと頷くと、秋宮さんとともに教室から廊下へと出た。そのときも、背後に視線を感じていた。
秋宮さんは人気のない階段の踊り場で立ち止まり、僕へと向き直る。
「森坂くん、静本さんたちが話してる噂――聞いた?」
慎重に、言葉を選ぶように秋宮さんはそう訊ねた。
まるで心当たりがなかったので、僕を首を横に振る。
「噂って?」
「何でも……『森坂くんがシロの仔猫を殺した』って」
その言葉に僕は絶句した。
いったいどこからそんな噂が出てきたのかまるでわからない。
呆然とする僕に、秋宮さんはかいつまんでその噂について説明してくれた。
発端は今朝のことらしい。
静本さんと二人の女の子の友達が朝、通学途中にシロと仔猫の様子を見るために空き地へと行ったのだという。そこで、彼女たち三人は空き地の中でシロの二匹の仔猫のうち一匹が死んでいるのを見つけたそうだ。
しかも、ただ死んでいただけじゃない。
仔猫の死体は首が切られていたらしい。
まるで、何者かが首を切り、無残な死体を見せつけるようにその場に置いたかのように。
僕はその話を聞いて、ひどく気分が悪くなった。胸の奥から胃液がこみ上げ、吐き気を抑えるのがやっとだった。
それが本当だとしたら、確かにショッキングな話ではある。朝の教室が妙な雰囲気になっていたのもうなずける。仔猫を残酷に殺すような異常者が、あの空き地の近所をうろついているとすれば、誰も落ち着いてはいられないだろう。
だが――
「どうして……僕が仔猫を殺した犯人なんて……?」
喘ぐように僕は言った。
その疑問に秋宮さんはため息をついた。
「森坂くんがシロを叩いたっていう一件――それのせいだと思う。それで、森坂くんが仕返しのためにシロの仔猫を殺したんだって言ってた」
「そんな! デタラメだよ!」
僕は必死にそう訴える。
「落ち着いて。わかってるから。その仮説が正しいとしたら、仔猫じゃなくシロを狙うのが自然だし……それに、そもそも仔猫の首を切ったり、首を持ち去ったりする意味がわからない」
「首を持ち去った?」
その言葉の意味が分からず、思わず聞き返した。
「ええ。空き地にあったのは首なしの胴体だけで、どこを探しても首がなかったんだって。たぶん、犯人が持ち去ったとしか考えようがないけど……」
それを聞いて、背筋が寒くなる。
仔猫の首を切断し、胴体だけを置いてその首を持ち去る犯人。そんなことができる人間とは、いったいどんな神経を持ち合せているのだろう。
「でも……とにかく、今までの態度からすると、クラスのみんなはそんなことを言っても聞く耳を持たないでしょうね。特に静本さんは」
今朝、教室での静本さんの様子を思い出す。
彼女はクラスの中でも人気者で、彼女が『犯人だ』と言えば否定する人は少ないだろう。
僕がシロを叩いたという誤解が、さらに大きな誤解を呼んでいる。
ひどく気が重くなった。
「一応、噂をしている子たちには『森坂くんはそんなことはしない』って言っておいた。でも、もしかしたらどんどん噂が広がっていくかもしれない。だから……気を付けてね」
何にどう気を付ければいいのか、僕には見当もつかなかった。だが、とにかく頷いた。
***
秋宮さんとともに教室に戻ると、僕の机に異常が起こっているのを見つけた。
机の天板に目立たない、小さな文字で、だが確かに『死ね』という文字が無数に書かれていた。
僕と、自分の席に戻ろうとしていた秋宮さんはそれを見て沈黙した。僕たちが話をしている間に、誰かがその落書きをしたのだろう。
顔を上げて、教室の中を見回す。それらの文字は何種類かの筆跡が混じっていた。複数人のクラスメイトが書いたものに違いない。
それだけの人数がこの短時間に僕の机に集まって落書きしていれば、関係ないクラスメイトたちもそれを目撃していないはずはない。
だが、誰も僕の方を見ようとはしなかった。強いて視線を逸らしているのは明らかだった。
身体の中に冷水を注ぎ込まれたような気分になっていた。それでいて、悔しさで顔が熱かった。してもいないことのためにこんなことをされるのが腹立たしかった。
「……最低ね」
そのとき、秋宮さんが僕の机の文字を指でなぞりながら、そう呟いた。そして、その指が机の文字の一か所で止まった。そこに書かれた横向きの『死ね』という文字には掠れた跡があった。どうやら、左利きの人がそれを書いたらしい。
すると、それを見た秋宮さんはつかつかと教室の中を歩いていき、まっすぐに静本さんの席の前に立ち、にわかに彼女の左手を掴んだ。
静本さんの左手の側面には、鉛筆で書いた文字が擦れたようにうっすらと黒い汚れがあった。
静本さんはやや動揺したような表情で秋宮さんを見ていた。
「二度とこんなことしないで」
秋宮さんははっきりとそう言う。
だが、静本さんは平静を取り戻したのか「ふん」と鼻を鳴らす。
「何言ってるのかわかんないし。私、何にも悪いことなんかしてないよ」
悪びれるふうもなくそう答える。そして、僕の方を見て、敵意に満ちた目で睨みつけた。
その視線を遮るように、秋宮さんは静本さんの前に立ちふさがる。
「森坂くんだって、何もしてない」
二人は睨みあいを続けていた。
教室の中にはしばらくの間、重苦しい沈黙が下りていたが、やがて教室のスピーカーから予鈴が鳴り響いた。それを合図に、秋宮さんは静本さんの席から離れ、自分の席へと歩いていった。
そして、事情を知らない先生が教室へとやってきて、午後の授業が始まった。その間も、教室にはひどく緊張した空気が流れていた。
***
放課後になると、秋宮さんは僕の席へとやってきて、
「行こう、森坂くん」
と声をかけてきた。
そして、何が何だかわからないままに手を引かれ、僕は慌ててランドセルを背負って秋宮についていく。
「行こうって、どこに?」
「空き地。仔猫を殺した犯人について、何か痕跡が残ってない調べるの。濡れ衣を晴らすために」
当然のように秋宮さんはそう答えた。それはまるで、宣言するような声だった。
教室にいた何人かがそれを聞いて、教室から出ていく僕たちを見る。その中には、静本さんの顔もあった。
そんな視線を後にしながら、僕と秋宮さんは学校を後にした。
「秋宮さん、何でここまで……」
学校から空き地までの道を歩きながら訊ねる。
すると、彼女は立ち止まって僕の方を振り返った。
「約束したでしょ。濡れ衣をかけられたら、私が晴らしてあげるって」
そう言って、彼女は力強く笑った。
皆に疑われている中で、一人だけ僕のことを守ってくれる人がいる。そのことがひどく嬉しかった。
「……ありがとう、秋宮さん」
僕を信じてくれている人がいる。だから、彼女のためにも無実を証明しなければならない。
そう思い、僕は秋宮さんとともに空き地へと歩き始めた。
続く
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