巻き爪のエリー(短編集)
右城歩
巻き爪のエリー
「起きて!エリー!朝だよ!」
枕元のぬいぐるみが声を上げる。丸いフォルムに尖った口、大きな耳とつぶらな瞳をした犬の姿をしている。
「起きて!学校に遅刻しちゃうよ!」
ぬいぐるみがそう言うと、布団の中の少女はもぞもぞと動いたが顔は埋まったままだ。
「うるさいなあ、誰も起こしてなんて言っていないのに」
エリーは顔を見せずにフゴフゴと返事をする。
「勝手に考えてこその、AIですから」
家庭用
「痛っ」
エリーはベッドから起き上がると、人差し指が痛いことに気がついた。最悪な目覚めだ。指を見ると案の定、爪が指に食い込んでいる。
巻き爪だ。
「太郎、これ、何?」
エリーは指を犬のぬいぐるみに向ける。AIに名前をつけるのは珍しくないが、太郎という名前はよく友達にバカにされる。
「ごめん、わからないんだ。近くの病院を検索するね」
AI技術は発展し、今まで人間がわからなかったたくさんのことをコンピュータが教えてくれるようになった。医療の分野も例外ではない。最新の医療コンピュータであれば、あらゆる病気を診断してくれる。AI技術により、この世の99%の病気、怪我の最適な治療方法が解明されたと言われている。
しかし家で体の異変を感じたとしても、家庭用の人工知能がその病気の種類や対処法を教えてくれることはない。その理由は、医療用の技術が高度すぎて家庭用AIに組み込むことが難しいから、ではない。医療用人工知能を家庭で使ってはいけないことになっているからである。医療用の機械は医師免許を持っている人間しか使ってはいけないのだ。
もちろん、そんなルールがあるからにはそうする理由もある。医療の知識のない人間が使って、医療事故が起きてはいけないし、AIメーカーも保証はできないだろう、というのが政府と医師会の考えだ。
もっともらしく聞こえるが、機能を制限したり、メーカーが責任を負わない方法を考えたり、やりようはありそうだ。現実に、病院に行くと医者は医療AIの言うことをそのまま繰り返しているようにしか見えない。実際はそれが正しいか自分の知識と照らし合わせているのかもしれないが、ほとんどの人は医療AIが間違ったことを言ったところなんて見たことないだろう。
「早めに家を出ないと、雨が降るよ!」
雨には降られたくないので、そう言われたら急いで学校に行くしかない。太郎の天気予報は大体当たる。雨は嫌いだ。濡れると巻き爪が余計に痛くなる気がする。人が月に住む時代だって言うのに、なぜ傘だけは進化しないのだろう。
エリーはベッドから手を伸ばして、横に置いてあるニッパー型の爪切りを手に取る。巻き爪は昔からなので慣れているが、痛みには慣れない。太郎が巻き爪も直してくれたらいいのに。
「太郎の役立たず」
「それは面白い質問ですね!」
AIが答えられない質問をした時の返事の仕方も、長いこと変わっていないらしい。
応急処置だが、痛くない程度に食い込んだ爪を切り、指の肉をテーピングで保護する。今までも何度か市販の矯正具で治療したが、またしばらくすると巻き爪は再発する。
「なんでこんなしょぼい病気・・・」
巻き爪はAIが完全な治療法を発見できていない、残り1%の症状だ。医療AIが開発される以前の治療法でもその場限りは治るが、予防はできない。しかもエリーは生まれつきの爪の形のせいか、よく巻き爪になる。
「また病院行こうかな・・・」
エリーの今日の巻き爪はなかなかの重症だ。最近遊び回って忙しいせいか、爪の手入れをサボっていた。
* * *
「あと30分で病院の予約時間だよ」
太郎の声が聞こえる。家の中ではお気に入りのぬいぐるみから声が聞こえるようにしているが、外にいるときは自分の耳だけに聞こえる設定にしている。高校生にその仕組みなんてわかるはずはないが、みんな使いこなしている。
「ごめん、用事あるから先に帰るね」
教室には暇を持て余した生徒たちが何組か談笑している。この高校はそれほど偏差値が低いわけではないが、人数が多いので勉強にも部活にもやる気のない生徒は一定数いる。今日は雨も降っているので、外に出るのもめんどくさがって教室で時間を潰しているのだろう。
「えー。エリー帰っちゃうの?
「エリーの邪魔をしちゃ悪いよ。エリーまた明日ね!」
エリーの前に座っていた金髪の少女が口を尖らせると、その横に映し出されている
エリーもこんな雨の中外に出たくはないが、病院の時間なので仕方がない。
「ごめんね、用事あるから。じゃあね、ジュディ、マイケル、
AIも含めて一人一人の名前を呼んで別れの挨拶を済ますと、エリーは教室の外に出た。
廊下を歩いて、角の曲がり階段を降りようとしたところで、階段を登ってくる男子生徒とぶつかりそうになったが、体をひねってなんとか避ける。エリーは驚いて、あっと声を出した。ぶつかりそうになったからではない。相手の顔に見覚えがあったからだ。
「ひろちゃん?」
「エリー?」
「やっぱりひろちゃんだ!なんでここにいるの?おんなじ学校だったの?全然知らなかった!」
「ああ、5年ぶり・・かな?この学校生徒多すぎて、知り合いいてもわからないなあと思ってたけど、まさかエリーがいるとはなあ」
「なんか急いでたみたいだけど」
「ああ、そうだ!病院に行くの。また巻き爪でさあ!でもまだ時間あるから、大丈夫」
「相変わらずなんだね。指」
「ひろちゃんは、教室に戻るの?」
どのクラスでも放課後の教室にいるのは、遊び回っている連中だ。エリーには、弘があの輪の中に入っている様子は想像できなかった。小学生の頃からエリーの周りには活発な友達が多かったが、彼らと弘が仲良くしているのを見たことはない。そんな弘と一緒にいたらエリーがからかわれそうなものだが、気にしないでいると、意外と平気だった。
「傘を教室に忘れたんだ、あと、ノートも」
エリーは、弘が手に分厚い本を持っていることに気がついた。
「ひろちゃん、医者を目指してるの?」
弘が持っている本は、医学部を目指す高校生向けの参考書だ。
今の時代、医者のイメージは悪い。診察も手術も機械が行う世の中で、医者を尊敬している人はまずいない。その上利権は強く、病院に行けば高い金額を請求されるが、それは法律で医療費が決められているからだ。
「うん、そうだよ、だから今日も塾に行って勉強しないと行けないんだ」
世間の印象は悪いが、医学部の合格倍率は非常に高い。なんだかんだと文句は言っても、みんな楽して儲かる人間になりたくて仕方ない。
「エリーは?昔は確か・・・」
「ごめん、そろそろ行かないと」
エリーは話を遮ると、弘に「じゃあね」と言って足を踏み出す。
「エリー」
振り返ると、弘は5年前に何度か見たような嬉しそうな顔をしていた。
「またね」
弘は軽く手を降ったあと、背中を向けて教室に向かって歩き出した。その背中は5年前とは全然大きくて、エリーには別人に見えた。
* * *
とんとんとんとリズミカルな音を立てて、野菜は切られていく。まな板の上の野菜は手際よくフライパンに移され、ジュージューという音と共に、食欲をそそる香りを漂わせる。
お金を払わなくてもあらゆる料理が手に入る時代に、料理は遊びでしかないし、料理道具は娯楽品だ。AIや機械技術が急激に発展した時代に、対応が遅れて淘汰された業界もたくさんある。特に食品やレストランは個人経営が多く、企業間の競争も激しいため、技術の規制よりも取り入れる方向に進んでしまった。そしてあらゆる食料品は自動的に生産され、誰でも簡単に手に入るようになった。その結果物として食料品の価値は下がり、ほとんど商売として成り立っていない。
エリーは自分で作った料理を口にし、美味しくないな、と思った。AIの考案したレシピ通りに作る自動料理機の方が、間違いなく美味しい料理が作れる。しかし人間の作る料理に需要がないわけではない。いつの時代も機械に冷たさを感じる人はいて、人間が作った方が美味しいというのだ。しかしエリーの世代になると機械の作った食事で育っているので、そんな人も稀だ。エリーも機械が作った方が美味しいと思っているが、料理をするのは好きだ。
「珍しいね、エリーが和食なんて」
太郎は毎日エリーが作った料理を記録している。
毎日料理をするのは、ほとんど惰性だ。別に料理人になろうと思っているわけではない。
「ひろちゃんは、なんで医者を目指しているんだろう」
この時代、医者を目指す人のほとんどはお金目当てだ。しかも、医学部に行くだけでもお金がかかるので、もともとお金がある人が、お金目当てで目指す仕事だ。昔は人助けがしたくて医者になる人はたくさんいたらしいが、今の時代はあまりいない。
弘の家は貧乏ではないが、特別お金持ちでもない。医学部なら国立大学じゃないと無理だろう。エリーの高校はそれほど偏差値が高いわけではないが、人数が多いので、頭のいい大学に行く人は多少はいる。それでも国立の医学部なんて聞いたことないし、かなり無理しないと難しいだろう。
「そんなごちゃごちゃ考えてないで、聞いてみたら?」
エリーは、はっとした。自分がなぜ弘を気に入って、仲良くしていたのか。今の自分は矛盾している。
「そうだね、太郎、ありがと」
「どういたしまして」
AIというのは便利だ。子供の頃から一緒にいれば、自分の性格を理解してくれているので、悩みがあればアドバイスをくれる。AIを友達や家族みたいに思っている人も多いが、エリーは道具だと思っている。自分のことをなんでもわかってくれるのが機械だなんて、なんだかおかしい気がするから、本当は太郎のことも好きなんだけど、友達みたいに分かり合おうとは思わない。
* * *
「ひろちゃん、おはよう!」
エリーは弘のクラスの教室で、弘の席に駆け寄って、元気に声をかけた。2年2組のエリーのことを知っている人は、この2年28組の教室には1人もいない。何人かは「誰だ?」という顔で見ている。
「ねえねえ」
「どうしたんだ、朝から」
弘は感情が表情になかなか出ないタイプだが、エリーにはちょっと照れ臭そうに、でも嬉しそうな顔をしているように見えた。
「ひろちゃんは、なんで医者を目指してるの?」
なんで自分が弘を気に入っていたか。全部思ったことを言っても、何をぶつけても、ちゃんと聞いてくれて、ちゃんと答えてくれるからだ。小学生の時も、よく悩みをぶつけてみた。でも、自分には大変なことでも、弘はいつも淡々と答える。でもそれは、一生懸命に聞いていて、一生懸命に答えていないと言えない言葉なんだ。
弘は、ぽかんとしていた。なぜエリーがそんなことを聞くのかわからないと言った様子だ。
「覚えてない?」
今度は、少しニヤッとした。その後、エリーの指を、自分の人差し指で指した。
「その巻き爪、昔痛い痛いって騒いでただろう。AIも医者も直してくれないって。そん時言ったじゃないか、俺が直してあげるって」
エリーは顔が赤くなっているのが自分でわかった。全く記憶にないが、弘が嘘をつくとは思えないし、そもそもこんなからかわれ方するのも初めてだ。
「なんてね」
エリーは「ん?」と首をかしげる。
「今言ったのは本当だけど、エリーのためだけにこんな頑張って勉強してるわけじゃないよ。まだ、この世の病気や怪我の1%は治らないって言われてるんだ。それはAIでも解決していない。だからそれは人間がなんとかしなきゃいけないことなんだ。」
弘は、真面目に話を始める。この感じは、懐かしい。
「人間にできないことをAIはたくさんしてくれるけど、AIにできないこともあるんだから、それは人間がやんなきゃ。しかも、最近はそんな人あんまいないでしょ。」
エリーは安心と、不安が入り混じった気持ちになった。でもこの不安は、何年もずっと心の中にあったものな気がする。
弘の性格が変わっていなかったのは良かった。記憶の中の弘はいつも、自分じゃ思いつかないようなことを考えていて、いろんなことが見えていた。それでも、エリーのくだらない話にも付き合ってくれる。
別に仕事なんかしなくたって、生きていける。田舎なら住む場所はあるし、食べ物は日本中でタダみたいなものだ。衣食住が保証された世の中で、人々が無気力になるのは必然だろう。エリーも、将来なんて真面目に考えたことはなかった。
他の人が医者になりたいとか、何になりたいとか話しているのを聞いたところで、なんとも思わなかっただろう。
「ひろし、エリーの料理を食べてよ」
突然、エリーの端末から太郎のグラフィックが浮き出て、弘に話しかけた。エリーは慌てて静止する。こんな設定はした覚えがない。
「ちょっと、太郎!どうしたの突然、黙っててよ!」
「料理?」
弘は不思議そうな顔でエリーを見る。
「エリー、料理なんて作るんだ」
「ひろちゃん、ごめん、太郎が勝手に言っただけだから」
弘は、興味深そうな顔をした。弘は普段は人の話を黙って聞いているが、興味を示すと譲らないところがあるのを、エリーは知っている。
「そう言えば俺、人が作った料理って食べたことないかも」
* * *
なんで太郎はあんなことを言ったのか。古来から、AIの言うことの正しさは、人間には理解できないものだ。ボードゲームをするAIも、勝利はするが、人間が真似をすることはできない。
弘はわくわくした顔をしている。人が料理しているところを見るのもほとんど無かったらしい。
並んでいる料理はご飯、味噌汁、鮭の味噌焼き、ひじきと大豆の煮物。純和食だ。ありもので作ったから。大した料理ではない。昔一度だけ弘の家に行ったことがあって、その時に見えた夕食が和食だったから、なんとなく和食にした。
「急に作ったから、てきとうだからね」
「うん、わかってるよ、食べていい?」
エリーが頷くと、弘は箸を手に取り、料理を口に運ぶ。
「なるほど・・」
褒めてるとは取れない反応に、エリーは恥ずかしくなった。
「だから、美味しくないって言ったじゃない!ひろちゃん、なんで急にご飯作ってなんていうのよ」
作りたくなかったように言うが、エリーが料理を作ったのは、きっと食べて欲しかったのだと言うことをエリー本人もわかっている。
「太郎のお願いだしなあ」
エリーが睨む。
「いや、食べたかったんだよ。エリーの料理。ていうかさ、美味しいよ。ごめん、すぐ言わなくて。機械の作るご飯とは、何が違うのかはわからないけど、なんか違う」
「それって、褒めてるの?」
「褒めてるよ!」
弘は嘘で褒めたりはしないということを、エリーはよく知っている。子供の頃はそれで喧嘩になったこともある。
「でも、AIは味を知り尽くしてるからね。エリーももっと頑張らないと」
「え、どういう意味?」
「料理人になるんなら、商売敵はAIと料理ロボだろ?」
違うの?と言わんばかりの顔をしながら、鮭を頬張る。
「料理人なんてならないよ!弘は美味しいって言ってくれたけど、こんなのお金を払って食べたい人いないよ」
「だから言ってるだろ、頑張らなきゃって」
弘は悪気はないが、厳しいことを言う。これはつまり、エリーの行ったことに同意したと言うことだ。
エリーはガタッと音を立てて立ち上がる。何かを言おうとするが、先に口を開いたのは弘だった。
「なんで、エリーは料理を始めたの?」
喋ろうとしたタイミングで言葉を投げられたので動きが止まるが、頭は反射的に昔を思い出そうとする。初めて料理をしたのはいつだっただろう。あれは、中学生の頃だった。
「なんとなく」
エリーはぽかんとした顔で言った。
「なんとなく、作りたいなあって思って。お母さんは料理しないけど、おばあちゃんはするから、道具はあって。それで」
弘はいつもの無表情で話す。
「なんとなく、には理由があるはずだよ。エリーはなんで、なんとなく、作りたいって思ったの」
難しいことを言う。なんとなくは、なんとなくなのだ。エリーは頭がこんがらがってきたが、その時の気持ちを思い出す。
「なんか、物足りなかったのかな」
いつものご飯の味が物足りなく感じた。だから、家にあった料理道具を見て、自分で作ってみようと思った。そんなのたぶんちゃんと考えてたわけじゃなくて、それこそなんとなくなんだろうけど、そう思うとしっくりきた。
「自分で作るとさ、この味はこの出汁の味なんだとか、この調味料がこのくらいの量で、混ざるとこの味なんだとかわかってきて、そうすると、美味しく感じるんだよね」
「だから、いつか何が物足りないのかわかるようになって、物足りなくないご飯が作りたかったのかも」
エリーはすらすらと話し出す。この感じは昔もあった。弘と話していて、自分の気持ちが整理できた時の感覚だ。
「じゃあさ、俺と一緒じゃない?」
「一緒?」
「俺もさ、AIがわからない1%の病気をなんとかしたくて、医者を目指してるだろ。エリーも一緒だね」
エリーが笑顔になる。
「ほんとだ!」
いつの間にか料理は食べ終わっていた。
「エリー。また食べさせてよ。今度は別の料理も」
エリーは自分が立っていることに気づき、椅子に座りなおして弘を見た。
「いつか、お金払ってでも食べたいって言わせるからね」
* * *
街にはいろんなお店が並んでいる。働かなくても生きていける世界で、働かなくなった人は確かにいるけれど、働いている人だってたくさんいる。でも息苦しそうに働いている人は少なくて、時間の使い方もかなり自由だ。
この赤い看板のお店は、平日だと言うのに行列ができていて、みんな楽しそうにしている。
いい匂いのするレストランのシェフの指には、絆創膏はなかった。
「エリー、開店時間だよ」
巻き爪のエリー(短編集) 右城歩 @ushiroaruki
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