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 その日から音楽室が私の常駐場になった。私は入学当初から授業をサボってばかりいたので、「音楽」という授業を受ける学年は、一年生だけであることを、芹野に聞くまで知らなかった。しかも、進学クラスは音楽や家庭科などの技能教科は免除される。そしてさらに、冬季期間は音楽室が冷えるので、特別音楽的な授業をする日以外は、教師が各教室に出向いて、歌を歌ったり安いスピーカーでつまらない音楽を聞かせているらしい。

 音楽室は、実質私たちの貸し切りだった。

 確かに寒かったけれど、気になるほどでもなかったし、教室に戻る方が嫌だった。就職先も決まったから、あとは留年しない程度に、定期テストで点を取りづらそうな科目だけ出席していればいい。芹野たちのクラスは、もう授業と言うものがないという事も聞いた。各個人、大学入試に向けて、図書室や進路指導室で勉強に励んでいるみたいで、芹野は、あいつらみんな馬鹿だからね、と吐き捨てていた。

 飲食禁止と張り紙がされている音楽室に、私たちは購買で買ったパンをたくさん持ち込んだ。棟が違う芹野の教室より、私の教室の方が購買に近いから、限定二十個しか販売していないチョコチップメロンパンを、頑張って走れば買う事が出来る。それを渡せば、芹野は喜んで私を音楽室に入れてくれた。全体的に甘党なのか、それともメロンパンが好きなのか、芹野はクリームパンやジャムパンを全部私に回して、メロンパンばかりを食べていた。

 私たちの間に、会話は数えるほどしかなかった。芹野は自分の機嫌のいい時しか声を発してくれなかったからだ。私は私で、気まぐれに彼に話しかけた。どこの大学へ行くのか、彼女はいるのか、まず好きな女の子はいるのか、初体験の年齢は、とか、いろいろと冗談交じりに聞いたけど、返事が返ってきた問いは、今のところ「好きな子のタイプは?」だけである。「ワタラセみたいにデリカシーのないブスが嫌い」と切り捨てて、机の上に転がっていたイヤホンを耳に押し込む芹野を見て、「私は好きなタイプの話をしてるのに」と負け惜しみのようなことを言っては、グランドピアノの鍵盤を見つめていた。ちなみに、最初の日以来ピアノは弾いていない。どうせノクターンしか覚えていないし、芹野が褒めてくれるわけでもないし、私の気が乗らないからだ。私は時折定位置であるピアノの椅子を降りては、大きな窓から、グラウンドを走っている後輩を見たり、音楽室に置いてある楽譜を眺めたりした。今日もそうしていた。担任に、「真面目に授業に出ろ」とこっぴどく叱られたにもかかわらず、音楽室に来る私の事を、芹野は「すごく馬鹿」と評したが、追い出しもしなかった。ワタラセにもなんか、事情があるんだろうし、邪魔してくるわけじゃないからいいよと、その何も細工がされていない綺麗な黒髪を、細い指で弄りながら言うのだ。

 芹野の事は、少し好きだった。もちろん恋愛感情ではない。顔が綺麗だから眺めていて飽きないし、(私の話を聞いてくれるわけではないけれど)私を否定しない。「好きにすれば」と、どうでもよさそうに彼は言う。そうやって放ってくれるところが好きだった。


 「もうすぐ卒業だよ? 私達、どんな大人になるんだろうね」

 「少なくとも僕は、ワタラセよりはまともな大人になるよ」


 あ、反応した。今までの経験上、芹野は四回に一回の確率で私の独り言に返事をしてくれる。私は少しうれしくなって、勝手に二つくっつけた机に沢山あがっているパンを一つ、手に取った。ゆっくり時間が流れる音楽室の事が、そんなに嫌いでは無かった。



 私は、愛されることに疲れていた。

 放課後になると、芹野はすぐに下校してしまう。だから私は、ひとりで音楽準備室に身を潜めている。ついさっきまで私と芹野が居て、時折私が何かを言って無視されるということを六時間繰り返していた音楽室では、吹奏楽部員がきゃっきゃと楽しそうに雑談をしている。うちの学校は基本的に不真面目だから、部活だって不真面目てある。実績があると言えば、野球部がまぐれで四十二年前に甲子園に出ただけだし、真面目な女子が集っている印象のある吹奏楽部だって、うちの学校にかかれば底抜けにやる気が無いのだ。楽器など触らずに、ずっとずっと、下校時間までくだらない雑談を楽しむらしい。


 「ワタラセ、帰んないの? 僕もう帰るから、職員室に鍵返しといてね」


 音楽準備室の狭いドアを開けて、帰り支度を終えた芹野がこっちを見ている。芹野から話しかけられることは珍しかったが、そういうこともたまにはあるのだ。

 私が今朝担任に怒られて職員室に行きたくないの知ってるくせに、この鬼畜、って、頭の中では思うけれど、私は「わかった」といつものヘラヘラな笑顔を浮かべた。鍵なんて吹奏楽部員に適当に任せておけばいい。

 じゃあねも言わずに、芹野はぱたぱたと、軽い足音を静かな廊下に響かせていく。後ろ姿を見ていると、かなり華奢だな、と思う。身長は決して低くないが、とにかく線が細くて、あんなにメロンパン食べてるのに、なんでだろ。私だって、好きなものを好きなだけ食べても細いままでいたい。ダイエットは二週間以上続いたことがないし、本気でする気もないけれど、努力もしていないのに綺麗な体形を保てている人には、どうしても羨望の気持ちを持ってしまう。

 ……芹野以外で例えるならば、みれいとか。


 「わっ、お姉ちゃん、こんなところにいたの? 私の教室まで来てくれてもよかったのに」


 ひっ、と思わず声が出る。芹野の姿がもう見えなくなったころ、突然ドアが開いて、上から甘くて舌っ足らずの声が降ってきた。

 私の妹と言うにはあまりにも姿が可愛すぎる少女と、その恋人にふさわしい美形の男子が立っている。私も慌てて立ち上がり、準備室に長い間住んでいた埃を叩き落とした。なんでここがわかったんだろう。みれいは、私にGPSでもつけているのだろうか。まだ高鳴っている心臓のあたりをきゅっと押さえて、私は私の事を純真無垢な瞳で見つめているみれいに言った。


 「……お姉ちゃんって呼ぶの、やめてよね。私とみれいは、赤の他人でしょ」


 何千回この言葉を言っただろうか。そして、みれいのこの仕草を何千回見ただろうか。ゆっくりと、その漫画みたいに大きな瞳を細めて笑う。穏やかで、可憐で、私が男だったらすぐに好きになってしまうであろうその微笑と、その後のお決まりの台詞。


 「そんなことないよ。みれいとお姉ちゃんは、姉妹でしょ?」


 ぴたりと、時の止まったような感覚。何度経験しても、みれいの本気のまなざしには慣れない。隣の男が、またか、と言いたそうに、とても邪魔そうに私の事を見る。

 あぁもういいよ、帰ろ。私はそう言って荷物を持ち上げた。お姉ちゃん、今日はケーキ屋さんに行こうね。みれいの楽しそうな声が聞こえる。茜色に染まる廊下を、三人並んで歩きだした。

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