落とし物

T_K

選択は1度きり

「落としましたよ」


会社へと向かう電車を待つホームで突然声を掛けられて、私は戸惑った。


振り返って見ると、流行のブランドスーツをスマートに着こなした青年が


ニコッと笑って立っていた。


彼の手には、見覚えのある赤い定期入れが握られている。


はっとして鞄を覗くと、内ポケットにしまった筈の定期入れがない。


私のものだ。



「すいません。ありがとうございます」



受け取って、軽く会釈をし、私はホームの列に並び直した。


見て見ぬふりが当たり前の時代に親切な人がいるものだ。


私は彼の優しさと見た目の良さに感謝した。



その日一日、会社で面倒な事を押しつけられたり、


嫌な権藤課長にグチグチとお説教をされても、


彼の爽やかな笑顔を思い出すといい気分で過ごす事ができた。



次の日、いつもと同じ場所、同じ時間にホームで電車を待っていた。


するとまた、耳元で声がした。



「落としましたよ」



ビックリして振り返ると、昨日と同じ青年が、


ピンストライプのスーツに身を包み、私の財布を持って立っていた。


慌てて鞄を覗くと、やっぱり財布がない。私のものだ。



「すいません。ありがとうございます」



昨日と変わらず、軽くお辞儀をして、私は財布を受け取った。


二日続けて物を落とすなんて、少し疲れているのかもしれない。



それにしても、同じ人に拾ってもらうなんて、珍しい事があるものだ。

これって、出会い?

落し物から始まる恋?

なんて、ウキウキした気分で、一日を過ごした。

翌日、私は少し寝坊をしてしまった。嫌な夢を見たせいかもしれない。

急いだものの、いつもの電車には間に合わなかった。

仕方なく次の電車を待つ間、私は持ち物の点検をした。


「定期よ~し、お財布よ~し、もろもろOK。

よし、完璧。今日は何も落としていないぞ」

ガッツポーズをしたとたん、あの声が聞こえてきた。


「落としましたよ」


えっ?

これって新手のナンパ?

チケットでも差し出して、デートのお誘いとか?

私は飛びきりの笑顔で振り向いた。


「今日は、何も落としていないと思いますけど」


「拾い物」の彼の手には、私のハンカチがあった。

私は、笑顔をひきつらせてまま、バッグを探ると、

さっきはあったはずのハンカチがない。


「な、なんで?」


私はひったくるようにハンカチを受け取った。

お礼を言い忘れたと、顔を上げたが、もう彼はいなくなっていた。

なんだか気持ちの中にドンヨリとしものが張り付ているような、

気分で一日を過ごした私は、いつもの女子会にも参加せず、早々に家に引き返した。


お風呂に入って、カモミールティにちょっぴりウイスキーを垂らして飲んだら、

だいぶリラックスした気分になれた。

改めて、今朝の事を振り返ってみた。

あの時、確かに鞄の中にハンカチはあったはず。

そのハンカチがなぜ、彼の手元にあったのか?

もし彼がハンカチを盗んだとしたら、人間業とは思えない程、腕のいいスリだ。

あり得ない。背筋がゾクリとした。

明日は、JRではなく地下鉄で会社へ行こう。

そう心に決めて私は眠りに就いた。また嫌な夢を見た。


次の日。私は家を早く出て、

地下鉄の最寄り駅まで20分程歩いて、会社へと向かった。

かなりな遠回りになるけど、この際、かまっていられない。

いつもとは違う時間、違う電車。

これでもう「拾い物」の彼には出会わなくて済むはずだ。


バッグをしっかり胸に抱えて、改札口を通り抜けた。

通路に誰かの財布が落ちている事に気がついた。

落し物続きの私が今度は拾う番?

普通の状態なら、拾って駅員さんに届けるところだが、今は非常事態。

それどころではない。

余計な事をして私まで落し物をしたら、たまったもんじゃない。

心の中で落とし主に詫びながら、素通りをした。

私はただ、何も落とさず、誰にも声を掛けらず、

無事に電車に乗る事だけを考えていた。


勝手が違う駅、余り利用する事のない電車、

見知らぬ沢山の人達。知らずに肩に力が入る。

通勤とは大いなるマンネリと思っていたが、少しルートを変えるだけで、

こんなにも緊張感を伴うものとは思いもしなかった。


間もなく電車は到着し、何も落とす事もなく、会社へと着いた。

通勤で一日の労力の大半を使い果たした私は、もうヘトヘト。

自分のデスクに座ると安堵のため息が出た。

いつもように仕事をこなし、たわいないおしゃべりをしながら、

本日のスペシャルランチを食べ終える頃になると、

今朝のあの恐怖が嘘のように思えてきた。

私は何に怯えていたのか?

偶然の重なりか?

それとも、それが必然に思えた事なのか?

だんだんバカバカしくなってくる。

恐怖心に囚われた目で見ると、ススキも幽霊だ。


夕方、少し気が楽になっていた私は、いつものルートで家路についた。

せっかく定期があるのに、使わないのはもったいない。

第一、また駅から20分も歩くのは遠慮したい。

ホームで電車を待っていると、耳元であの声がした。

確かに彼の声だった。背筋が一瞬で凍りついた。

恐怖からか、金縛りにあったように体が動かない。

彼の声だけが鮮明に聞こえる。

耳を通してではなく、直接、心に響いてくるようだ。


「あなたは私が落としたものを拾ってくれませんでしたね」


あっ!今朝、落ちていた財布は彼のものだったの?


「残念です。財布を拾わなかったあなたは、

拾う事をしない落とすばかりの人になってしまったのですよ」


私は嫌な夢を思い出した。私は何かを落としながら歩き続ける。

持ち物を落とし、服を落とし、

最後には腕や頭を落とし、足を落としても歩き続ける・・・


「ご安心下さい。私は、あなたの最後の落し物をちゃんと拾って差し上げますよ」


気がつくと、私の身体は堅い線路の上、

電車が悲鳴のようなブレーキ音を立てながら、私の身体の上を・・・


聞きなれたあの声


「落としましたよ。命を」

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