星降る瞳

糸吉 紬

星の破片の少女

 つい数週間前まで夜は寝苦しくて仕方なかったというのに、今では程よく冷えた海風が吹いて頬を撫で、薄手のワンピース一枚では少々肌寒く感じる。クロックスもそろそろ卒業かと惜しみながら海辺を歩く、なんてことはないただのコンビニ帰り。

 この時期の夜の海というのは人もほとんど見受けられず、肌をしっとりと濡らす海辺の湿度が全ての音を吸い込んだように静か。その中で響き渡る波の音だけが鼓膜を心地よく震わす。

 心を休めたい人間がYouTubeで波の音を聴くのと同じように、この女も日々の疲れを癒すために海辺に来ていた。

 月明かりが辺りを照らす中、コンビニで買った缶ビールを開け、喉に流しこみながら歩き続ける。あてはない。既に住んでいるアパートは通り過ぎていて、女はただ歩いているだけだった。


 進む方を真っ直ぐに見据えると、違和感があった。月明かりに照らされている浜辺の上、ずっと先に何か別の光源があるのだ。小さく、青白く、か弱い光。打ち上げられた海月が発光しているのだろうか。歩みを緩めずに近づいていくとどうやら光源の近くには人が一人いるらしい。こちらに背を向けてしゃがみこみ、光源を覗き込んでいるのはとても小さな……女の子?

 その少女の真後ろまで近づく。少女はこちらを気にすることもなく、海風に黒髪をなびかせ光源に顔を照らされながら何かを拾い集めていた。

「なに、してるの?」

 女が声をかけると少女は動きを止め、ゆっくりと顔をこちらに向けた。

 こちらに向けられた大きなガラス玉のような瞳は彼女の手元の青白い光をキラキラと反射し、瞬きをするとまつげの隙間から反射した光が漏れて頰に細やかな光を落としていた。

「夢じ……や……ってる?」

 少女と光源が織りなす美しい様相に見惚れていた私は少女の声を聞きとることが出来なかった。

「えっ?」

「夢十夜、知ってる?」

「知ってる、けど……」

 夢十夜といえばかの文豪、夏目漱石の作品の一つだ。題名のとおり夢のような不思議で奇妙な物語を十遍集めたものだ。もちろん知ってはいるのだが、少女の行動となんの関係があるのだろうか。そんな私の疑問をよそにして少女は手元に視線を戻し、闇夜に溶けそうな程に透明な声で言葉を続ける。

「第一夜、死んだ女の人を海辺の真珠貝で掘った穴に埋めて、墓標に星の破片かけを置くの。男の人が墓の側で百年待ち続けると、墓から百合の花が咲き始める。私は、星の破片を集めているの」

「星の……破片かけ……」

「そう。星の破片かけ

 なんとも信じがたい話だった。しかし、子供の戯言と流すには少女の瞳は美しすぎた。私はもう、吸い込まれてしまったのだ。少女は不意にすっくと立ち上がり、瞳に囚われて言葉から逃げることが出来なくなっていた私の方に向き直した。

「見てみる?触ってもいいけど、気をつけてね……」

 差し出された両手の上には青白い光を放つ鉱石のようなものが五つ、乗っていた。どうやらこの鉱石が星の破片かけで、光源の正体のようだ。それは夜空のように深い藍色で断面は崩したコーヒーゼリーの断面の様につやつやと照り映えていて、星の破片かけと言うよりはむしろ夜空の破片かけだったが、鉱石の放つ青白くやわらかい光がその鉱石を星の破片かけたらしめていた。私の手は自然と星の破片かけを手に取ろうとしていた。手が、星の破片かけに、触れる……。

 ーーパチンッ

 思わず手を引っ込める。指にヒリヒリとした痺れが残った。星の破片かけに指が触れた瞬間、火花が散ったのだ。指が離れた今もまだ、星の破片かけは線香花火のような細かな火花をパチパチと弾けさせていた。

「あ……ごめんね、お姉さんは待たせた方なんだね。触るまで、私も分からないの。ここは忘れた人、が来る、けど、どっちなのか」

 眉尻を下げ、申し訳なさそうに少女は言った。

「あ、いや、大丈夫だよ。気をつけてって言われてたしね、こっちこそごめんね」

 問題はそんなことではない。

 パチ……パチン

「それより……待たせる方って?」

「あ、えっと、夢十夜の第一夜……お姉さんは待たせた方。先に死んで、百合に生まれ変わる女の人ってこと……」

「先に、死ぬ」

 パチン……パチ、パチパチ

「お姉さんの最期は看取られた最期。星の破片に触れることのない方。相手を待たせて先に逝く、百年を誓う、百合の花」

「……そう、なの」

 パチ、パチン……パチンッパチンッ

 ショックなわけではなかった。女は疲れていたし、送られる死は悪くないだろうと思った。それはとても心地良かったと、記憶している。……記憶している?

「大丈夫ですか?きっと、忘れてる。思い出せ、ますか?今、何年目ですか?おそらくもうすぐ、です。思い浮かべて、ください。待っています、人がいます。私はあなたを、迎えに来ました。約束、は、守るもの、です。はやく、行って、はやく、」

 ーーパチンッ

 だんだんと勢いを増していた火花がひときわ大きく光った。火花が放つ白い光が目の前を覆う。

 白い世界に浮かぶ、人の顔。

 ーーああ、待つよ。きっと会いに来てくれ。

 そうだ、私は、あなたに、あなたに、


 * * * *


 僕は、待つ。ただ、待っている。

「百年、待っていて。きっと会いに行く」

 最期の時、あなたが言った言葉を、いつもいつも反芻している。ろうそくを燃やすように、ずっと。ろうが溶けきってもまだ、自分の体に火を灯し、燃やし続ける。百年、待っていて、きっと、会いに、行く、百年待って、いて、きっと会い、に行く、百、年待ってい、て、きっと会、いに、行く……

 あの時あなたはどんな顔で、どんな声色で、言ったのだったか、もう忘れてしまった。覚えているのは言葉だけ。百年。あとどれだけだ。いつだ。待ち遠しいよ、でも待ち続けるこの時間さえ愛しい、僕の、あなた。会いに来て、きっと。

 ーーパチンッ

 なにかが弾けるような音に僕は思わず身を固くした。なんだ……?

 パチ……パチン

 傍らの墓標、あなたのための星の破片かけが火花を弾けさせて小さく跳ねている。

 予感が、胸を騒がせる。あなたの言葉を反芻する、いつものように。百年、待っていて、きっと、会いに、行く。

 パチン……パチ、パチパチ

 待っていたよ、あなたを、日が昇り、沈み、昇る、その繰り返しの運動の間、ずっと。僕は、あなたの言葉を燃やし続けていたんだ。

 百年待って、いて、きっと会い、に、行く

 パチ、パチン……パチンッパチンッ

 待っていたんだ、僕は。また、会えるのを、あなたが、あなたの、声が、表情が、ごめん、ごめんね、忘れて、それでも、言葉だけは、大事にもっていたよ、だから、許してね、待っていたんだ。

 ーーパチンッ

 ひときわ大きな火花が散って、星の破片かけは細かく砕けた。白い煙が上がって、星の粒がキラキラと月光を反射して砂浜に落ちる。

 火花の煙の中に小さな陰がある。煙が空気に溶けて、そこに現れたのは、一輪の、百合。

 ああ、僕はあなたを、

「待っていました。百年」

 百合の陶器のような白い花弁を一雫の露がつたい、ぽたりと砂浜に落ちる。

 そうだ、彼女は最期の言葉を言った時、薄い微笑みをたたえていたんだ。瞳からは雫が溢れて。「愛しています」と言うように、縋るように、あの言葉を言ったんだ。僕に、何度も、何度も。「百年、百年待って、待って、いて、待っていて、百年待っていて、きっと、会いに、きっと、きっと、きっと、会いに行く」


「信じていました、あなたを。愛しています、あなたを。僕は百合にはなれないけれど、いつまでも、あなたの、側に」

 共にあろう、あなたの傍らで、これまでの百年と同じように。

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