010 : Quid me fugis?

「――放して! ねえ、放してってば!」

 動かした足が宙を舞う。ラトが懇願するように叫び続けていると、わざとらしいほど大きな舌打ちと同時に、そのうち地面へ叩きつけられた。

 息が詰まる。恐ろしさに、歯ががちがちと鳴るのがわかった。三つの瞳から涙がこぼれ出たが、それも雨に紛れて消えていく。

「このガキ、育ててもらった恩も忘れて、町にこんな災いを持ち込むなんて」

 背後では、黒いとぐろを巻いたタネット川が、恐ろしい音をさせて流れている。ラトは息を呑んで目を瞑り、懸命に首を横へ振った。先ほど殴られた、頭と頬が振動で疼く。傷は冷たい雨に打たれてもなお熱っぽい。触れて確認したわけではなかったが、かなり腫れているようだ。

「こいつが町へ紛れ込んでいたと、どうして誰も気づかなかったんだ。気づけば、未然に防げたかも知れないのに!」

「こいつはただのガキじゃない。お前だって見ただろう、何か怪しげな術を使って、自分の姿を変えていたんだ。気づけるはずがないじゃないか!」

「だから、先代の婆様が育てると言った時、俺は反対したんだ。こんな化け物を生かしておいて、一体何になるんだよ!」

「こんな時にタシャは、占い師はどこへ行ったんだ!」

 大人達の罵声を浴びながら、ラトはただ、目を閉じたまま首を振る。脳裏に、絶望に近い表情をした、ニナの顔がちらついた。

「――お兄ちゃん?」

 ニナはあの時そう言って、はっとしたように口をつぐんだ。ラトの愕然とした様子を前に何か感づくところがあったのか、かばうようにラトに背を向け、ニナもようやく気づいたようだった。

 その場に居合わせた大人、子供、誰彼構わず、全員の視線がラトへ、ラトの額へ向いていた。一人の大人が、まるでそれしか見えないかのようにニナを突き飛ばし、ラトの首元を捕らえると、雨で張り付いた前髪をかき分ける。

 三つ目が意図せず男の目と合う。それが合図のようだった。男が短く叫び声を上げ、後ずさる。

 ああ、いつもの――

(化け物を、見る目だ)

 先ほどまではこの大雨を、土砂崩れを、そして川の氾濫を恐れていた全ての瞳が、一斉にラトの方を向く。唐突に別の男の大腕が、ラトの視界の中を走った。鈍い音と同時に、頭が痛む。視界がくらくら揺れる。

「お兄ちゃん!」

 ニナの、叫ぶような声が聞こえた。

 殴られた。どうして、殴られなければならない? ラトは自問した。自分が何かしただろうか。問おうとして顔を上げても、すぐには言葉が浮かばなかった。

「そいつ、……そ、そいつ、この前も町の中をふらふら歩いてた!」

 近くで子供の声がする。向かなくても、誰の声かはすぐにわかった。――ホロだ。やはりあの時、顔を見られていたのだろう。

「そ、そうだ。あの時は頭に布を巻いていたけど、俺たちも前に、町で会ったことがある……」

「ニナが、行商人の息子だって言って連れてきた奴だ」

「確かに、ちょっと変わった奴だなって思ったけど……。おまえ、あの時俺たちの町で、一体何しようとしてたんだ?」

 意味がわからない。彼らは何を言っているのだろう。

 ラトは痛む頭を押さえながら、立ち上がろうと足を踏ん張った。それだけのことで何故か、悲鳴に似た声が聞こえる。ラトがその事に戸惑っていると、直後、大人が二人がかりで飛びついてきた。

「動くな、妙な真似をしたら、ただじゃすまさないぞ!」

「丘に閉じこめられたのが嫌で、こんな事をしたのか?」

「こんな、事……?」

 歯ががたがたと鳴った。それが恐れのためなのか、雨で体が冷えたためなのかは判じかねる。ただラトは、この時しっかと理解していた。

 先程まではこの雨風に向いていた住民達の恐れの対象が、今や完全に、ラトへ切り替わっているのだということを。

「見ただろう、何か紙切れが飛んだ瞬間、こいつの化けの皮がはがれたのを! あんな力を持っているんだ、この異様な雨も、こいつが何か仕組んだに違いない!」

 ラトは息を呑んだ。必死に首を横へ振って、叫ぶ。

「違う、僕じゃない!」

「化け物の力から、俺たちの町を守れ!」

「川へ連れて行け、あそこの被害が一番大きい」

「話を聞いて、僕は何もしていない!」

 ぱしんと頬をはたかれて、ラトは目を白黒させた。どうしてこんな事になるのだろう。一体、何故。

 頭の整理が付かないうちに、ラトは軽々と誰かの肩に担がれていた。ニナの必死な声が聞こえていたし、ラト自身も懸命にもがき、訴えたのだが、そのどれもが無駄な抵抗に終わった。

 恐ろしさに、鳥肌が立つ。

 これが『恐怖』。これが今まで向けられてきた、視線の本当の意味なのだ。

 川辺に打ち落とされて、ラトは言葉のでないまま、ただ、ただ、身を竦ませた。町の人間達の目は、いずれも狂気そのものだ。

「雨を止ませろ、川の氾濫を止めろ!」

 ラトは歯を食いしばり、首を横に振る。それを反抗の態度ととったのか、町の人間達は余計に声を荒げた。

 何を言われたって、出来ないものは出来ない。彼らにはどうして、その事が伝わらないのだろう。

(話を聞いて、誰か助けて……母さん、母さん……!)

――母親の方は、お前に裏切られたと思っているし。

 禍人の声が頭に響いて、ラトは思わず、目を見開いた。

(助けに来てくれる、……はずが、ない)

 手の中に残っていた札の切れ端を、ぐしゃりと強く握りしめる。そうすると、その瞳に涙を浮かべ、口を真一文字に結んだタシャの顔がありありと思い起こすことが出来た。

(僕が、母さんを、裏切ったから……)

 大きな手が、ラトの頭を掴んで川の方へと向ける。下手に逆らっては、今にもこの、うねる川へと突き落とされそうだ。

――私はお前には不思議な力が備わっているんじゃないかと思っているよ。村の者達が勘違いしているような恐ろしい力ではなくて、誰かを助けることのできる優しい力がね。

 ばあさまは昔、そう言った。

 恐ろしさに、少しも震えが止まらない。荒れ狂う川へ押しやろうとする手に逆らって、ラトはようやく、こう叫んだ。

「やめて! 川の流れを止めるなんて、できっこないじゃないか!」

 学校の扉を開けるだけだって、あんなに苦労をしたのだ。雨やら洪水やらをどうにかするような力など、ラトにあろうはずがなかった。

――気づいていないだけさ。

 ふと思い出す。ラトが力など持っていないと言った時、禍人が確かにそう言った。そうだ。もしラトにそんな力があったとして、それは既にあの札と、交換してしまった後なのだ。

「無理だよ、僕に出来るはず無い! さっきの変身だって、禍人にもらった札を使っただけだ、僕の力なんかじゃない! 僕は、ただ、ただの……」

「ただの人間だ、とでも言うつもりか? 今まで、何人もの町人が、お前が精霊と話す姿を見ているんだ。ただの人間のはずがないだろう!」

「精霊と話すなんて、その程度のこと、母さんやばあさまだってやってたじゃないか!」

「その程度のこと、だって?」

 その言葉が、余計に町の人間達の神経を逆撫でしたかのようだった。力任せに肩をつかまれて、ラトは思わず息を呑む。ただでさえ休まるところのなかった鼓動の音が、どくどくと高鳴って行くのがわかった。

 町の安否を確かめたかっただけなのに。ニナを助けたかっただけなのに。

 手に追い立てられて、ラトは川へと対面した。もはや日頃の穏やかなタネット川など、思い浮かべることもできないほどに荒れはてている。

「おまえが何もできないなら」

 冷たい声が、背後に聞こえた。

「このまま川へ落としちまうっていうのも良いかもしれねえな」

 その言葉が冗談でもなんでもないことは、考えるまでもなくわかっていた。肩に触れているこの手が少しでも力を加えれば、ラトなどあっと言う間に死んでしまうだろう。濁流へ飲み込まれ、何が起こったかも理解できないままに。

(――殺される)

 死にたくない。冷や汗が浮かび、ラトは静かに生唾を飲み込んだ。

「そりゃ、確かに良い考えだ」

「こいつが災いの種なら、殺しちまえばこの雨もおさまるかもしれねえ」

「ずっと嫌でたまらなかったんだ。こんな化け物が、目と鼻の先に住んでいるなんて」

「今なら、あの占い師にだって何も言われないさ」

「やっちまえよ。ためらうこともないじゃねえか」

 ずっと感じていた視線の意味が、全て言葉になって向かってくる。

――あいつらは恐ろしいだけなのさ。

 そうだ。彼らは、恐れているのだ。

 こんな状態であるにもかかわらず、ラトは思わず苦笑した。それは、絶望に近い苦笑だった。

 どこか近くで雷が鳴る。再び、ラトの瞼の裏へ幻影が映った。ラトが肩にある男の手を握って、川へ引き落とす幻影だ。他の人々が男を助けようとしている隙に、ラトは無言で走り去る。

 もう一度雷鳴がすると、また違った幻影が浮かび上がる。ラトが突然、大声を上げて威嚇する。人々はラトが不思議な力をもっていると信じて、脅えるのだ。後は武器になる物を探して、それから――

 三度目の雷鳴。ラトが手を振り上げると、何か真っ黒で得体の知れないものがやってくる。それがどんな災いを運ぶものなのか、ラトは直観的に気づいていた。それでもラトにためらいはない。脅える人々を睨み付けて、黒いものに向かって声をかける。それは禍人がラトに向かってしたような、甘ったるい猫撫で声だ。「――あいつらみんな、おまえにあげるよ」

 それらは皆、あっと言う間の幻影だった。現れては刹那に消える、現実味を帯びた幻。だが。

(ばあさまの言っていた、『走馬灯』のようなものなのかな)

 ラトの心は穏やかだった。死に面して、ふと気づいたのだ。ここにいる人は皆、ラトにとっては取るに足らない力しか持っていないこと。逃げようとするなら、すぐに適うだろうことに。

(僕には死に面したからといって、思い出そうとするような、良い思い出は無かったっていうことか)

 考えながら、ラトは自分の肩へと手をやった。

 上手くやらなくては。自分まで川に落ちてしまっては、元も子も無い。

 この男は、川へ落ちたら死ぬだろうか。いや、この男だけでなく、それを助けようとした町の人間も死ぬかもしれない。

 そう考えても、ラトには罪悪感など微塵も無かった。やらなければ、自分が死ぬのだ。

(生きるために、足の立たなくなった羊を食用にするのと、少しも違わないよ)

 心が、そう語りかける。

 ラトの手が、肩に乗った男の手に触れた。男が怪訝な声を上げる。

 一気に引っ張って、振り返れ。殺してしまえ。そうすれば、立場は逆転だ――!

 雷鳴が轟く。

 そして、それとほぼ同時のことだ。

「――やめなさい!」

 悲痛なまでに張りつめた叫び声が、ラトの耳を突いたのは。

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