002 : Ad vesperum

 窓の外で、小鳥たちが軽やかに鳴く。薄いカーテンがかかっただけの窓から、暖かな朝日の光が差し込んでいた。

 そんな中でむくりと起き上がり、ラトはしばらくの間、自分の部屋をぼうっと眺めていた。頭が重い。思考が鈍る。なんだかひどく疲れたが、いつになくよく眠れたように思う。

 けれど何か、大切なことを忘れているような気がした。なんだろう。確か昨日は、いつもと何か違ったはずだ。そう、ニナと喧嘩をして――。

 ラトは手探りで窓のカーテンを開け、一瞬間をおいた後で、ベッドから飛び起きた。

「羊番――!」

 服は昨日のまま、髪も梳かさずに部屋を出ると、ラトは羊達のもとへと駆けた。日はもう随分高いところまであがっている。

(今日は確か、北の高原まで牧草を食べさせに行くはずだったのに)

 この時間からでは、とてもではないが間に合わないだろう。しかしラトの心配をよそに、駆けつけた羊達の囲いには既に一頭の羊も残ってはいなかった。

 ラトは驚いて息をのんだが、すぐに回れ右をして、今日行くはずだった高原へ向かう。途中で額に巻いた布がほどけたので、それをポケットへ押し込んだ。

 犬の吠える声がする。羊達の歩くペースはゆっくりだ。走ればすぐに追いつくだろう。

「母さん」

 人影を見つけ、大声で呼んだ。相手は風にはためくシャツを押さえて、ゆっくりと振り返る。ラトは走って、すぐにそこまで追いついた。

「今日は珍しくお寝坊ね」

 昨日のニナとのやりとりは知っているだろうに、母さん――タシャはいつもと変わらぬ口調でそう言って、ラトを迎えた。ラトがうん、と頷くと、彼女は持っていた羊飼いの棒を振る。

「昨日の昼からずっと眠っていたの? 随分疲れていたのね」

「そんなのじゃないよ。――でも」

「おでこ、何もつけてないなんて珍しい」

 ラトはそっと額に手をあて、目を伏せた。

「走ってくる途中でほどけたんだ」

「その方がいいわ。あんなものを巻いていたら、目が悪くなるもの」

「だけど……」

 その先は言わなくても良いと諭すかのように、タシャがふわりと微笑んだ。占い師然とした、どこか陰のある優しい笑みだ。ラトはその笑みが好きだった。

「……。今朝は羊番、ごめんなさい。後は僕がやるから、母さんは」

 タシャが腰を落とし、ラトの額、三つ目のまぶたに軽くキスをする。

「私がやるから、今日はお帰り。昨日の朝から何も食べていないんでしょう? 竈にスープの鍋があるから、暖めてお食べ」

「いいよ、大丈夫」

「嘘おっしゃい。ほら、今にお腹が鳴るわ」

 ラトの律義な腹の虫は、タシャの言葉に応えるように鳴る。ラトはくすぐったいような気分のままタシャに背を向け、逃げるように丘を下った。

「ラト」

 タシャが呼ぶ。一頭の羊がラトを見つけ、その体を擦り寄せてくる。

「今日の羊番はいいけれど、代わりにニナと一緒にご飯を食べなさい。気まずくても、兄妹がいつまでもそっぽを向き合っているのはよくないわ。それから、――」

 タシャは一瞬表情を曇らせ、言った。

「もしも母さんが帰るより前にお客さんが来たら、おまえではなくニナが出なさい。いいかい、おまえは絶対に出てはいけないよ。そして何を言われても、はやく去るように言いなさい」

「追い返すの?」

「そうよ。あまり良い客ではないわ。――今朝急に水鏡に映ったから、きっと夕刻ね。私もなるべく、間に合うように帰るつもりだけれど」

 ラトは頷いて、それからとぼとぼと、家への道を戻り始めた。客のことはよくわからないが、何よりまず、ニナと顔を合わせるのが心苦しい。ニナはもう怒っていないだろうか。

 ニナ達母娘と住み始めて四年間、ニナに泣かれることはあっても、あんなふうに怒鳴りつけたことはなかったのに。

 どんな顔をして会えばいいのだろう。自分から謝るべきなのだろうか。だが、ニナの意見は大きなお世話というやつだ。

(――友達なんか、できるわけない)

 想像してみる。同じ年頃の友人たちに囲まれて、楽しそうに遊ぶ自分の姿を。わからなかった。想像もできない。同じ年頃の友人というのがどういうものなのか、町の人間が、どんなふうに遊ぶのか。

(だけどニナだって……ここにくるまでは、町の普通の子供だったはずなんだ)

 家が見えて来た。ニナが学校から戻るまで、一体何をして時間をつぶそう――。そんなことを考える。すると、ふと、背後から低い声がした。

「おまえは、思い込んでいるだけさ」

 ぞっとする、しかし猫なで声のような甘い声だった。聞いたことのない男の声。誰か町の人間だろうか。しかしそう思うと、ラトは振り返ることができなくなってしまった。額に何も巻いていない。このまま振り返れば、相手はどんな顔をするだろう。

 しかし声は、こう続けた。

「友達になんてなれないと、思い込んでいるだけなのさ」

 まるで心の声を呼んだかのようなその言葉に、ラトは自分でも気づかないまま、その場に棒立ちになっていた。「でも」と絞り出すように言ったが、男は何も答えない。

 この時になってラトは、自分が『額を見られたくなくて振り返らない』のではなく、何か得体の知れない圧力のために『振り返れない』のだとようやく気づいた。

 なぜだろう、体がちっとも動かない。けれど、答えなければ。そんな思いが心を急かす。

「でも、……みんな、僕の目を見ると怯えるじゃないか」

「見せなければ良い。その目さえなければ、おまえと町の子供とどこが違う? その目さえうまく隠せれば、他の子供と全く同じ。簡単さ」

 低い声が高らかに笑う。ラトは金縛りにでもあったかのように立ち竦み、しかし心のどこかで、恐怖以外の何かを感じ始めているのに気づいていた。

 ラトはいつの間にか、言葉の続きを待っていた。

「良い方法を知っているよ。町の人間からはその目が見えないようにする、秘密のおまじないだ」

 そんなまじないがあるのなら、喉から手が出るほど欲しい。しかしラトがそのことを聞き返そうとすると、また別の方向から、ラトを呼ぶ声が聞こえて来た。

「――ラト! ラト、どこにいるの!」

 母さんの声だ。ラトは瞬きをして、その時になってようやく自分が瞬きをするのすら忘れていたことに気がついた。汗をびっしょりかいていた。

「邪魔が入ったな」

 男の声がそう言って、笑った。ラトは慌てて振り返ったが、そこには既に、鳥の影形すら無い。

 ラトはぽかんとして、誰もいない草原を眺めていた。母さんの声が近くなる。

「ラト! おまえ、今ここで何をしていたの!」

 タシャが怒ったように、そしてどこか緊張気味にそう尋ねた。ラトはしばらく答えられずに立ち尽くしていたが、しまいに一言、「声が」と言う。それ以上は口にすることすらタブーのように思えて、ラトは口をつぐんだが、タシャにはそれで十分のようだった。

「……羊を置いて来てしまったから、すぐに戻らなくては」

「母さん、僕……」

「おまえも一緒においで」

 タシャはそう言って微笑むと、ラトの頭を優しく撫でる。羊の元へ戻る間、タシャは静かにこう話した。

「ラト、よくお聞き。さっきおまえが聞いたあれはね、禍人の声というの」

「禍人?」

「そう。邪まな心が風に乗って、都合の良いことばかりを言いふらす。ラト、おまえは小さいころから精霊の声が聞こえたでしょう。あれは一見精霊の声と似ているから、おまえも聞こえてしまったのね。風の精霊が私に伝えてくれたから、助かったけれど」

 聞いてラトは、目を伏せた。「そう」と、それだけ返事をする。

(都合の良いことばかりを言い触らす……『禍人』)

 ラトは一度タシャの顔を見上げると、言いかけた言葉を飲み込んだ。

(それじゃ、あの言葉は嘘だったのか。……禍人の言葉だったにしても、もしあれが本当だったら、どんなに嬉しかっただろう……)

 ――友達になんてなれないと、思い込んでいるだけなのさ。

 ――その目さえなければ、おまえと町の子供とどこが違う?

(違う。禍人が言ったことが全て嘘だなんて、そんなことはないんだ)

 ラトはタシャと一緒に羊の元へ戻り、小さなお弁当を半分にして食べた。陽が落ちる前に帰ると、先に戻っていたニナが迎える。この妹はラトの予想に反して、昨日の喧嘩のことなどすっかり忘れてしまったかのように、一言も口に出さなかった。

 そうしてあまりに何事もなかったかのように話すので、ラトはかえって、謝る機会を逃してしまった。

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