038 : The night of Shallya

 この町に夜は無いのだろうか。そんなことを考えながら、アルトは部屋を抜け出した。

 ほんの少し、辺りを見て歩くだけだ。そうきつく咎められることは無いだろうと思いながらも、ゾーラの部屋の前を忍び足で通り過ぎる。ふと廊下の窓から外を覗いてみると、町はアルト達が到着したときと同じに、月夜の下で賑わっていた。

 ヴァルスが一晩の宿として選んだのは、シャリーアの町でも一般の商人達が利用する並程度の宿屋だった。勿論この交易の町には貴族や大商人の為の高級宿も多く存在するのだが、この雑多な路地に面した宿の方が、より身を隠しやすいと判断したのである。

 宿は一階が酒場兼食堂になっており、二階、三階に個室がいくつか設けてある。さして珍しい造りではないそうだが、アルトにとっては何もかもが新鮮だ。廊下を通り過ぎ、階段を降りると、段々と近づく喧噪に心が弾むのがわかった。

 石造りの室内は、あちこちに灯された炎で煌々と照らし出されている。木製の机や椅子が所狭しと並べられ、人々はひしめきあって談笑していた。その目の前におかれた机の上には、商売道具だろうか、アルトの見たことも無いような道具や、華美な品々が並べられている。

 酔い潰れて床に寝そべる者、配膳に来た女性を口説く者、どれもマラキアでは目にすることのなかった光景だ。その上、一度部屋中から匂って来るむせ返るような酒の香りをかげば、それだけでも十分ほろ酔い気分に浸れそうだ。

 そんなことを考えながら、アルトは室内を見回し歩いていた。すると一角から、唐突にわっと声が上がる。

「おいあんた、いけるクチだな! ほら、これも飲め。商品だが構いやしねぇ、こんなに楽しい晩は久しぶりだ!」

 豪快に笑う、男たちの声。目を向けてみて閉口した。見知った顔が二つほど、その集団の中に交ざっていたのだ。

「おお、アルト! おまえも来たのか」

 顔色は少しも変わっていないが、普段よりもいくらか大きな声でそう話しかけて来たのは、デュオだ。そのすぐ隣にヴァルスもいる。こちらは既に真っ赤になっているから、恐らく相当飲んだのだろう。二人の前にはマラキアから持ち出した品がいくつか並んでおり、周りの男たちがそれぞれの商売品を持ちよっているところから見ても、どうやら商いの真っ最中だったようだ。

「坊主もこいつらの隊商の人間かい? さぁさ、座んな。飲むだろう。こいつぁ美味いぜ」

 しわだらけの手でアルトを招き寄せ、商人のうちの一人が言った。アルトは差し出された杯を笑顔で受け取ったが、口をつける前にさりげなく、それをデュオへ奪われてしまう。

(よっぽど、良い味なんだな)

 ならば尚更、取られたままにはしておけない。アルトはむっとした表情で手を伸ばし、どうにかそれを取り返した。しかし一口舐めてみて、すぐにデュオの手へ押し戻す。何の酒かは知らないが、味と言い喉越しの甘ったるさと言い、宮殿で飲んでいたものとは大違いだ。

「休まなくて、大丈夫か?」

 例の杯を一気に傾けて、デュオがそう問うてくる。アルトはうん、と頷くと、デュオの前にあった別のゴブレットに手をやった。エールだろう。表面がやけに泡立っているが、匂いもそうきつくない。先程のものよりはあっさりと飲めそうだ。

「大丈夫さ。まだ夕飯を食べたばかりじゃないか」

「クロトゥラ達は、もう休むって言ってたぜ」

「……。あいつらは、野宿の時にずっと見張りをしてくれてたから」

 そう口に出すと、こんなところで油を売っているのが少し、申し訳ないように思えてくる。アルトがばつの悪そうな顔をしたのに気づいたのか、デュオは何げなく立ち上がり、他の男たちと商売の話を続けているヴァルスに声をかけた。

「ちょいと、夜の散歩でもしてくらぁ。あとは任せたぜ」

「おう、気をつけてな」

 そう軽く請け負って、アルトに向かってウィンクする。アルトも小さく頷くと、デュオの後について酒場を出た。

 ヴァルス達の笑い声が、店の外まで聞こえてきていた。外はいまだに多くの明かりに照らし出され、空には竈の煙が漂っている。アルトは背後を振り返りながら、溜息交じりにこう言った。

「置いてきて平気だったかな。ヴァルス、相当酔ってたみたいだけど」

「顔色のことか? 平気さ。あいつの場合、すぐ赤くなるのも手の内だからな」

「……手の内?」

 アルトが聞き返すと、デュオはなんでもないかのようにこう言った。

「その方が、相手を油断させられるだろう。商売がやりやすくなる。俺はだめだな。赤くなるより酔い潰れる方がはやいんだ」

 平然と言い切った、その得体の知れない男を見て、アルトは呆れの溜息をつく。何故そんなに手慣れているのか、今この状況下でそうまで真面目に商いをする必要があるのか、どうにも黙っていられない。

「マラキアの物をはやいうちに換金して、出来る限り違う品に変えた方が良いっていうのはわかるけど……。なりきりすぎじゃないか?」

 言うと、デュオは豪気に笑ってアルトに背を向け、さっさと夜道を行ってしまう。完全に酔っ払いだ。そんなことを思いながらもついて行くと、デュオが唐突にこんなことを呟いた。

「ジルウェットは昔、俺の商人ぶりを見て褒めてくれたもんだったがな。ここまで来ると、もはや才能だ、ってさ」

 聞いてアルトは、一瞬足を止めかけた。デュオが構わず人気のない脇道へ入ってしまうのを見て慌てて追いかけたが、胸の鼓動が、緊張に少し高鳴るのがわかった。

 デュオの歩調がはやくなった。いつの間にやら、酔っ払いの足取りではなくなっている。

 少しずつ、周りの人通りが減ってきた。アルトは視線だけでさっと辺りを見回すと、デュオの隣につき、囁く声でこう告げる。

「ジルウェット・ティル・アドラティオ・ダ・ラ・クラヴィーア。……父上のことか」

 視線を上げると、デュオもアルトを見下ろしていた。その顔にはいつか見たような苦笑が浮かび、目尻には疲労感さえうかがえる。

 いつの間にか、二人は港を見渡す高台まで歩いてきていた。そこはちょっとした広場になっており、中心には噴水がおかれ、何脚かのベンチも設置されている。昼間は市民の憩いの場になっているのであろうその場所は、しかし大通りとは異なって薄暗く、今は陰鬱な雰囲気を醸し出していた。

 潮騒が聞こえる。生まれて初めて目にする海は、慣れない潮の香りと相まって、なんだか息苦しいもののように思われた。

「昔は仲が良かったんだ」

 海側の手すりに寄りかかって、デュオが言った。

「昔って、デュオがバラムの城主だった頃か? それとも――」

「もっと前さ。まあ、いつ頃話すようになったかは忘れちまったが。……少なくとも、俺が首都に住んでいた頃の話だ。俺は家も手を焼く風来坊、あいつは礼を尊ぶ優等生だったんだが、まあ、それがお互い物珍しかったんだろう」

 アルトは二人が並ぶ姿を思い浮かべて、思わず首を傾げてしまった。

 どうにも想像し難かった。あの物静かな父と、目の前にいる無骨な男。『物珍しい』という言葉だけでは説明がつかないほどの壁が、二人の間にはあるように思えたのだ。

 そんなアルトの心情を察したのだろうか。デュオが短く笑った。

「俺は貴族とは言え五男、それも妾の子として生まれたんで、地位はそれ程高くなくてね。周りにいい顔はされなかったが、それでもちょくちょく連んでた。当時のジルウェットは、既にトルヴェール――今は、ソーリヌイ侯だな。あいつと次期皇王の座を巡って対立していたから、護衛の真似事なんかをしたこともある」

「デュオは、近衛だったのか?」

 聞くと、デュオは首を横へ振り、「まさか。そんな柄じゃない」と真顔で言った。

「軍に属しちゃいたがね。一兵士さ」

「貴族だったのに?」

「妾の子だった上に、俺は性格も貴族向きじゃなかったからな。お坊ちゃま集団は肌に合わなかった。カンシオンの双子みたいなやつがいれば、それはそれで遊びようもあったんだが」

「……。いや。確かにデュオは、近衛向きじゃなさそうだ」

「おまえだって、人のことを言えた義理じゃないだろう」

 そう言って、デュオがまた豪気に笑った。今度はアルトも一緒に笑った。

 ふと港を見てみると、黒々とした海に向かっていくつもの荷が積み上げられているのがわかった。昼間のうちに運び込まれたものだろうか。今はその周りに数人の見張りらしき人間がいるだけだが、日中はきっとこの辺りにも、活気が満ちていたはずだ。まるでその喧噪が聞こえてくるかのようで、アルトは一度目を閉じ、耳をすませる。

(町が、生きてる)

 ふと、そんなことを思う。マラキアで風に意志のようなものを感じたのと同じに、今はこの高台にも、黒々とした海にも、なにがしかの命のようなものを感じるのだ。

 そんな中で、こうしてデュオの昔語りに耳を傾ける。数日前までは思いもしなかったこの状況下に、アルトは不思議と、自分の居場所を見いだしていた。

 海に視線を向け、目を細めて、デュオがこう続ける。

「当時のクラヴィーアは、周辺国家との小競り合いが多くてな。俺もしょっちゅう戦争に駆り出されていた。腕っ節にだけは自信があったもんで、その中でも功績は着実に残して――。それでついに、北のサンダルマとの戦いの時に、武勲を認められバラム城を任されたんだ」

 どこかの灯りが消えたのだろうか。辺りがまた一段と暗くなった。

「出立の前日、ジルウェットは俺に向かってこんな事を言った。『内から国を守るのが私なら、おまえはどうあっても外を守り抜け』ってさ。――こいつがこれからのクラヴィーアを背負う人間なんだなって、その時思ったよ。ジルウェットはその時点で、既にアドラティオ四世という皇王になった未来を見ていたんだ」

 そういってデュオは、くっくと笑った。

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