035 : SIGN -3-

「絵を調べたら、すぐ合流するよう言ってあったはずだ。おまえ達は、私の計画を不意にするつもりか?」

 かつん、かつんと堅い靴の音が響く。トルヴェールはアルトのことになど気づいていないかのように、まっすぐフェイサルと黒服の男へ歩みよりながら、冷たい口調でそう言った。

 礼拝室から流れ込んでくる煙は、徐々にその濃さを増してきている。そんな中でまっすぐ肖像画に向かっていく男を見て、アルトは少し、目を細めた。いまだ礼拝室にいるはずの、仲間達はどうしただろう。そんな思いが脳裏をよぎるが、体のあちこちに走る痛みに、首を回すのが精一杯だ。

 トルヴェールの出現は、他の二人にとっても想定外のことであるようだ。黒服の男は困ったように肩を竦めるにとどまったが、フェイサルに至っては目に見て取れる慌てぶりでアルトと肖像画を見比べ、訴えるようにこう叫ぶ。

「だって、だって父上。みんな滅茶苦茶なんです。こいつらは考えなしにさっさと火を点けてしまうし、肖像画には印なんて見つからなくて――」

(……シルシ?)

 ぼうっとする頭をもたげながら、アルトはなんとかフェイサルの言葉へ耳を傾けた。

 そしてふと、気づく。たった今までの記憶が不明瞭で、一瞬前のことがどうにも思い出せない。黒服の男に頭を押さえ付けられて、――そう、刃を向けられたはずだ。確実に、このままでは殺されると思った。それなのに、なぜ今こうしているのだろう。アルト自身は壁にもたれて座した姿勢のままでいるのに、黒服の男はいつのまにやら、離れた所に立っている。アルトは心中首を傾げたが、いくら考えたところで答えは得られそうにない。

 そうこうしている間にも、フェイサルの言い訳は続いている。トルヴェールはそれに対して何を言うこともしなかったが、しまいにフェイサルがこう言った時にだけ、ようやく反応を示した。

「そのうえ、あいつらまで邪魔をしてきて……!」

 フェイサルがアルトを指さして、声を荒げてそう言ったのだ。

 アルトははっと息をのみ、慌てて視線を巡らせた。腰の辺りを手探りで探してみるが、帯びていたはずの剣がない。どうやら始めの一撃を受けた時に取り落としたらしく、見ると礼拝室への扉近くに落ちたままになっている。

(あそこまで取りに行って、戦うんじゃ遅すぎる)

 考えて、奥歯を噛み締める。そうしているうちに、すっと静かにトルヴェールが振り返った。その瞳には何の感慨もなく、彼はただアルトを一瞥して、短く言葉を下す。

「構うな。時間がない」

「で、ですが父上! 今、皇位継承権を持っているのはあいつ――」

「ここで殺すと、予定が崩れる」

 フェイサルが言うのを遮るように、トルヴェールはそう言い捨てた。怒るでも、詰るでもない冷静な声。それはただ自らがたてた計画に忠実にあらんとする、感情のない声だった。アルトはその言葉にひやりとして、思わず喉を詰まらせる。しかし、いつまでもそうしていられないことだけは確かであった。

 トルヴェールが母、モノディアの肖像画に手をかけたのを見て、よろよろとその場へ立ち上がる。黒服の男は笑みのひいた顔で口の端を吊り上げたが、トルヴェールはアルトのそんな様子になど、少しも注意を払う様子はない。フェイサルが驚き慌てて、自分の父とアルトとを見比べているのがやけに滑稽に、視線の端に映っていた。

「それに、触れるな」

 呟くように、そう唸る。トルヴェールはそれを聞いても、ふんと鼻で笑っただけだ。

「運び出せ。万一のこともある。傷はつけるなよ」

「やめろ。それを、どうするつもりだ!」

 一歩前へと踏み出すだけで、頭の中がぐらりと揺れる。何とか踏みとどまって頭に手をやると、不意になにか尖ったものが、アルトの耳元を掠めて飛んで行った。恐らくは、他の黒服達が使っていたのと同じ楔型の武器だろう。それをフェイサルの隣にいる、あの男が投げたのだ。

「先にお戻りください。ここは、私が足止めしますので」

 気持ちの悪い笑みを浮かべ、黒服の男がそう言った。トルヴェールはそんな必要もないだろうと言ったが、男は首を横に振っただけだ。

「あなたがたの国の第三王子殿下は、意外と骨のある人間のようだ」

 短くそう言って、抜き身のまま手に提げていた剣を放り投げる。それは何故かひび割れて、使いものにはならなそうだった。

 男を見据えたままじりじりと移動して、先程取り落とした自らの剣を拾い上げる。その間にも、トルヴェールと肖像画を抱えたフェイサルが外へ出て行こうとしているのが見えていた。

 せめてデュオ達がこちらへたどり着くまで、足止めすることができたなら。

(そうすれば、母上の肖像画を守れるのに――!)

 まだ体のバランスは安定しなかったが、先程よりは幾分マシだ。そう思い、剣を構える。その時だ。

 ――急いで。シルシを守らなくては。

 不意にそれを思い出し、アルトはいつの間にか、絵を失った貧相な壁へと視線をやっていた。ここへ向かう途中で聞いた、人ならぬ者の幻のような声。そういえば先程、フェイサルも印がどうとかと言っていたように思う。それが何であるのかがわかれば、――彼らのこの、奇妙な行動の意味も知れるのだろうか。

 しかし思考を遮るように、黒服の男が手に短剣を持って向かってくる。辛うじてそれを受け止めはするが、切っ先を逸らすことまではかなわない。圧するように攻めてくる黒服の向こう側に、ちらりと、茶化すようにアルトを見るフェイサルの姿があった。彼はにやにやとしながらやっとの様子で肖像画を持ち、扉の向こうへ消えて行く。

「待て! 絵を――」

 キン、と再び金属音。どうやら黒服の男が、あえて剣を鳴らしたようだ。

「よそ見をしている、余裕がお在りか?」

 続いて、男の右腕が俊敏に動く。その手がアルトの肩口を、鋭く強く、一突きした。

「……っ!」

 呻く間もなく突き飛ばされ、その場へ強かに尻餅をつく。直後、飛んできた短剣が音をたててアルトの足元の床に突き刺さった。

 そう、見事に突き刺さっている。大理石造りの床には厚い絨毯が敷かれていたが、剣先は恐らくそれを突き抜け、下の床にまで届いているのだろう。もしかすると石と石の間にちょうど刺さったのかも知れなかったが、男はどうやら、元から突き立てるつもりで投げたようだった。

 ぞっとする。黒服の男たちが何やら得体の知れない攻撃を仕掛けてくるのは見ていたが、今目の前にいる男の脅威はその中でも圧倒的だ。

「本気を出してくださいよ、アーエール殿下。それとも、さっきのはまぐれだったんですかねえ?」

 男の体が、ゆらりと揺れる。

(さっきの、って……)

 覚えがない。しかしそう言葉にする間もなく、座り込んだままのアルトに向かって、男が両手に楔型の武器を構えた。

「手加減は苦手なんですよねえ。殺すなとは言われてるけど、うまく避けてくれないなら、足の一本や二本はもらっちゃうかも知れませんよ?」

 男の腕がゆっくりと上がっていく。逃げなくては。しかしどこに逃げたらいいだろう。アルトにはそれら全てを剣で受け流すような真似はできないし、どこへ避けてもまた飛び道具を使われてしまえば意味がない。

 男の顔が、狂喜にゆがんだ。

 無数の、風を切り裂く音。目を閉じたわけでもないのに、迫りくる楔を目で見ることはできなかった。

 息をのむ間も、ない。

 それなのにアルトには、その瞬間がやけに長く感じられた。掛かっていた絵を失い、空虚になった壁の空間。視界を奪いつつある煙。礼拝室の方からは、なにやら激しい剣戟の音が響いている。それらの全てが歯痒く、悔しくて仕方がない。だがそのどれにも増して、 アルトをじらせるものがあった。

(母上の肖像画も守れずに)

 こうしてただ、座り込んだまま動けずにいる自分がいる。「役立たずだな」と、自嘲気味に呟く声を聞いたように思った。実際には、そんな時間があったはずはないのだけれど。

 しかし、そう感じた次の瞬間のことだ。

 目が眩むような強い光を見たのと同時に、焦りを含んだ声が聞こえた。それがあの黒服の声だということはすぐにわかったが、その理由がわからない。

「どこだ、どこに消えた!」

 声は耳に響いてくるのに、視界は光に包まれ真っ白だ。黒服の男の姿などどこにも見あたらないし、いつの間にやら辺りを取り囲むようにくすぶっていた炎の煙すら、跡も残さず消え去っている。そんな中でただ一つわかるのは――その中で誰かが、アルトのことを手招きしているということだけだ。

 手招きされているのはわかるのに、その場に人の影はない。これもまた、幻なのだろうか。だがそれが何であるにしろ、アルトに抗う術はなかった。

 光の中を、手招きされるままただ素直に進んでいく。そうしてしばらくすると、唐突に手招きがやみ、アルトの背後から声がした。

「あなたはシルシから、切り離されていたのね」

 その言葉に、振り返る。アルトは目の前に佇む少女の姿を見て、思わず声をあげた。

「――サイメイ?」

 恐る恐る、口をついた問いだった。少女はただ微笑んで、アルトの方へと歩み寄ってみせる。

 流れるような黒髪に、ぱっちりと開いた小豆色の瞳。背は低く雰囲気もアルトよりは随分と幼げだが、どこか高貴な様子さえ見て取れる。若草色の上着を羽織った彼女は、しゃんとして、しっかりした口調でこう言った。

「確かにあなたに、そう名乗りました」

 芯のある返答に、アルトは些か面食らう。これが本当に、いつも暗闇の中で泣いていたあの少女なのだろうか。そう思ったからだ。彼女もそんな心の問いに気づいたようで、アルトよりいくらか手前で立ち止まると、こう言葉を続けた。

「普段の私は、記憶を失っているから。――今の私の名は、彩溟。藍天梁という国の人間です」

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