18. 必要なひと

「お父さん……?」


 うつ伏せで倒れている姿を見ても、私はすぐに動けなかった。


 何が起こったのか。

 頭から血の気が引いていく。

 体が冷える。

 騒がしいはずの周りの音が遠のく。

 世界が凍り付いたかのように静かだった。

 自分の鼓動の音がやけに大きく耳に届く。


 お父さんの元へ戻らなければ。

 それはわかっているはずなのに、まるで足が麻痺してしまったかのように動かない。

 頭と体がうまく機能しない。


「お父さん」


 何度呼びかけても、お父さんからの返事はない。倒れたままだ。


 私は悪い夢でも見ているのだろうか。

 今、見えているものは現実なんだろうか。

 足を動かさなきゃ。

 確認をしなくちゃ。


 覚束ない足取りで、お父さんのそばまでなんとか行った。

 近くで見たお父さんは、生きてるのか不安になるほど、顔が白かった。

 本当に夢であってほしい。

 お父さんまでいなくなるなんて、考えられない。


 そのとき、お父さんが「うう……」とうめき声をあげる。

 それが私を現実に引き戻す。

 そう、これは現実なんだ。お父さんが苦しんでいる。

 私はいっそう恐ろしくなった。

 心臓がバクンバクンと音を立てる。瞬きができない。

 その場に膝をついた。


「お父さん、お父さん!」


 お父さんに覆いかぶさり、肩を揺する。やはり返事がなく、何も考えられなくなって、さらに強く揺さぶった。

 すると、誰かの手が私の両手を掴んで、止めた。


 誰かが傍にいるということさえ、脳は理解できなくて、どうしてお父さんに触れることができないのかわからない。

 私はまともに声を発することもできない。


「ああああっ」


 どうして、どうして、お父さんが!


「茜、やめるんだ。揺すらない方がいい」

「……え?」


 名前を呼ばれて、ようやく気づく。

 聞き覚えのある声が、冷静さを少しだけ思い出させてくれる。

 信じられない気持ちで振り向くと、いつの間にか私の横に崇さんが膝をついて、私を真剣な目で見ていた。


 両手首を掴む手は崇さんの手だ。

 その温もりが、冷え切っていた心を微かではあるが温める。

 うまく働かない頭はかろうじて、そこに崇さんがいるということを認識した。


「なんで、崇さんがここに……?」

「偶然……というと嘘になるけど、通りかかってよかった。救急車を呼ぶから。落ち着いて」

「救急車。は、はい。お願いします」


 反射的にそう返したけど、頭は混乱したままだった。

 私は、携帯で119にかける崇さんと、倒れているお父さんを見ていることしかできなかった。

 そうこうするうちにサイレンの音が近づく。やってきた救急車に付き添いとして乗り込み病院へ向かった。



 救急車に同乗しなかった崇さんには、「病院に着いたら電話をするように」としつこく言われていたので、お父さんの治療が始まってすぐに連絡していた。

 崇さんはすぐに駆けつけてくれ、隣で私の手をぎゅっと握ってくれた。

 手と肩から感じる温もりが私に勇気をくれたのか、心は段々と落ち着いた。

 一人でいることが当たり前すぎて、誰かがそばにいてくれることが、こんなに心強いのだと初めて知った。


 一通り検査などを終え、お父さんは病室に移ることになった。

 ベッドで休めるように、病室で点滴を受けるということだった。

 病室にやってきた医師の説明を一人で受ける。

 崇さんは廊下で待ってくれている。


「過労ですね」

「過、労」


 その言葉に、呆然となる。


「あと、睡眠不足と栄養不足もあるかもしれません。不摂生ですね」


 お父さんは点滴を受けながら眠っていた。意識不明というより、睡眠だという話で、そこはホッとする。


「診断書を出しますので、しばらく仕事はお休みになった方がいいと思います。今日は目が覚めたら帰宅されて大丈夫ですが、家で安静にしてください」

「はい。ありがとうございます」


 病室を出る医師を見送ったあと、私はベッド横の丸椅子に座って、お父さんの顔を見た。

 頬に赤みが差していて、さっきよりは体調が回復していそうだ。


「……バカ」


 私は一人でつぶやいた。

 倒れるまで働くなんて、バカだ。

 お父さんが家に居着かないのは、私と顔を合わせたくないからだと思っていた。


 だけど、違った。もしかしたらそういう気持ちもあるかもしれないけど、本当に仕事が忙しかったんだ。

 こうやって倒れるほどまでに、お父さんは働いてくれていたんだ。

 それなのに、私は家に一人で取り残されたと、自分は不幸なんだと思い込んでいた。お父さんが誰のために働いているのかと考えたら、それは私のためなのに。


 もちろん、お父さん自身のためもあるだろう。だけど、お父さんは倒れるくらいの不摂生な生活をして、外食などで偏った食事をしている。

 そんな生活よりも、家政婦さんに身の回りの世話をしてもらっている私の方がお金はかかっているはずだ。

 外食は安いお店で済ますこともできるけど、家政婦さんを雇うことは決して安くない。


 そう考えたら、お父さんが誰のために、誰の生活を守るために働いているのか、答えは見えてくる。

 そんな簡単なことに、どうして気付けなかったんだろう。

 私は自分のことしか見えていない。

 周りの人が何を考え、何をしているのか、そんな想像すらできていなかった。

 私が一番のバカだ。大ばかものだ。

 私はお父さんの手を取って、両手で強く握りしめた。


「早く目を覚まして」


 すると、肩を叩かれた。


「大丈夫だから」


 後ろを仰ぎみると、いつの間に病室へ入ってきたのか、崇さんが優しい顔で私を見下ろしていた。


「崇さん……」

「働きすぎなのは親父さんと会社の問題だし、オレらにはどうしようもないかもしれない。けど、せめてちゃんと食事は作って、きちんとした食生活のサポートはする」

「食生活のサポート?」

「ああ。ちゃんと栄養のあるものを家で食べてもらう。今井さんにも、親父さんの食事も必要だと引き継いでおく。親父さんだって家にご飯があるとなれば、今ほどの無茶はせず、適当なところで帰宅するかもしれない。だから、きっと大丈夫だ」


 その言葉を聞いて、ポロリと涙がこぼれた。

 別に悲しいわけじゃない。優しい励ましにホッとしたら、涙が止まらなくなってしまった。


「崇さん、ありがとう」

 私にはお母さんがいないせいなのか。

 お母さんが亡くなったときの記憶なんてないにも関わらず、誰かを失うことが自分で思っていたよりも怖いのだと気付いた。


 怖くて、怖くて。どうしようもなくて。失わなかったことに深い安堵を覚える。

 私は視線をお父さんに戻した。

 お父さん、私にはあなたが必要なんだ。

 いなくならないで。

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