第1話 大災害

 それを見て、まず最初に浮かんだのは「まるで獣みたいだな」という感想だった。


 暴れまわる獲物を力づくで抑え、涎を垂らして喰らいつこうとしている——。

 だから、その現実に対して何かを考えるよりも先に部屋に上がり込んだ「害獣」をどうにかしなきゃって思えたし、不思議と椅子を振り上げた腕はしっかりとしていて、ただ、ひたすらに、「それに」集中できた。


 骨が砕け、怒声が呻き声に変わろうともそれはなんの意味も持たなかったし、特に何も感じなかった。

 ただ、「いつまで続くんだろう」と言う素朴な疑問と、殴る方の腕も痛いっていうのは嘘だったんだなっていう当たり前の感想だった。


 殴るより殴られる方が痛いに決まってる。


 見慣れた我が家は味気なくて、灰色に削ぎ落とされた音の中でただ、足の折れてしまった椅子を振り下ろし、途中、胸倉を掴まれて食器棚にぶつけられたり、反射的に蹴り飛ばしたり、……まぁ、落ち着いて辺りを見回してみれば悲惨な状態だった。


 そこまで綺麗に片付けていたわけでもないけれど、収まるべきところに収まっていたものたちは辺り一面に散乱し、足の踏み場もないというのはこの事だった。これだけ散らかしたら片付けるの大変だなーとか、燃えるゴミ、燃えないゴミ、どっちだろうとか。そんなふざけた考えもよぎって、だんだん冷静になって来たのを実感したら、



 ふと、ベランダの向こう側が明るくなったように感じた。



 眩しい夕陽だなってなんとなくそっちを見上げて、紅く染まった部屋の中が急に、鮮明に浮かび上がって。

 床に転がる鏡と目があった——、


「あーぁ……、どうすんだよこれぇ……?」


 半ば泣き出しそうにも聞こえた自分の声に鼻の奥が震えて、ぐっとそれを堪えたら鏡の俺は急に泣き出した。

 止めどなく溢れる涙。抑えることのできない嗚咽をなんとか押し込めようと躍起になって膝から崩れ落ちた。


 いつかはこうなってもおかしくなかった。いつか限界が来ることはわかっていた。


 けれど、それが今日訪れるとは思っていなかったんだ。


 学校へ行って、帰ってきて、どうせクソみたいな生活がそうやって続いていく。そんな風に諦めてた。


 なのに、


 だけど、


 それが今日、終わった。


 膝に力が入らない。

 喉が震えて言葉にならない。


 だけど、


 けれど、


 世界はそんなこと待ってくれなくて。


「————、ぁ……?」


 一瞬、それは俺の錯覚なんじゃないかと思った。


 精神的なバランスの縺れがドミノ倒し式にどんどん広がって行って——、ほら、いうじゃないか。「足元から世界が崩れたように感じました」とか。「そのとき、僕の世界は終わったんです」とか。詩的に言えばそんな感じで。だから多分、人は皆、ショッキングな出来事に出くわせば其れ相応の精神的ダメージを受け、精神は肉体に、感覚となってフィードバックして返ってくる。人の心というものは繊細で、未知の部分がまだ多いのだ。だからこの揺れも、音も、崩れていく世界も、俺の心が見せている幻想なんだと思った。


 けど、


 そんな風に冷静に判断できるほどにまで落ち着いてきていた俺は、


「地震だろうこれはッ……!!!」


 現実を受け止め、家から飛び出した。


 まるで映画の世界にでも迷い込んだかのように曖昧だった世界の輪郭は急にハッキリと描き出されていて、ピシピシと音を立てて崩れそうになっている柱も、踏み出すたびに亀裂が走り、悲鳴を上げていく床も、何処からどう見てもこっちの方が夢(フィクション)のようなのに毛の先一本一本まで逆立ちそうな焦燥感が俺の体を突き動かしていた。


 転びそうになりながらもマンションの階段を飛び降り、それでもまだフラつく足元に崩れ落ちながら見上げた空は、——割れていた。

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