消費増税と英国紳士

@tsurai

第1話

 青年はコンビニで昼食を何にしようか迷っていた。

 おにぎりかサンドウィッチか、食欲はそんなになかったので軽くですませようとしていた。仕事は膨大に残っており、その処理を考えるだけで、胃袋と舌をぎゅっとしめあげるようなストレスが高まり、空腹の腹を撫でるしかなかった。

 買い物をすませて外に出ると曇天が厚く立ち込めていた。六月下旬、梅雨入りを迎えた都心では雷様が予定通り、遅くも早くもなく出勤して、そのでかい尻で空を埋めていた。

 青年はふと気になることがあって、会社とは反対方向に向かった。その先の駅前通りではテッシュやビラ配り、またストリートミュージシャン、宣伝の看板を掲げる者などで賑わっていた。その中に、青年の目当てである、大きな看板を挟むように抱える少年はいた。

 いわゆるサンドウィッチマンである。体をはさむように看板を前後に着込んだその少年は、自分の背丈近くほど大きな看板を今日も重そうに抱えていた。

 青年は一度コンビニに戻り、サンドウィッチを買ってきた。精神的な負荷のせいだろうか、物事がうまくいかないことが続くと、自分の判断力に自信が持てなくなり、しまいには昼食さえ決められず無意味に頭を抱えてしまう。つまり青年はおにぎりを選んだことを半ば後悔していた。彼は今、サンドウィッチも選択できる僥倖をかみ締めながら、一番高いカツサンドを少年に渡した。

 サンドウィッチマンの少年は数週間前にこつぜんとあらわれ、一人で宣伝活動を開始した。その年齢と、看板に書かれた衝撃的な内容によって、一時マスコミにもてはやされ、全国にその存在と宣伝文句があまねく喧伝された。

 重い看板を汗を光らせながら必死に抱えるいたいけな少年に視聴者は同情し、応援し、あるいはその報道自体について、少年への侮辱だとマスコミを批判する声も多くあった。少年の元には連日多数の人たちが押しかけ、カンパをあげたり声援を送ったりしていた。

 報道から数日後の盛り上がりが最高潮に達したころ、スーツ姿の恰幅のいい男が、輝く頭をつるりとなでながら少年に声をかけた。つまり彼は野党の人間であり、少年を現政権への反対の象徴として使いたいというねらいがあった。看板に書かれた内容は、まさにうってつけだった。

『消費増税のせいで、ほしいものが買えなかった』

 いかにも少年らしいつたない毛筆で、その一句がしかしでかでかと、一見して誰の目にも明瞭に看板には書かれてあった。

 20××年、消費税が20パーセントへの増税する法律が施行されて、世間では政府に対する根強い不満がはびこっていた。

 少年は看板を抱えながらせつせつと語った。自分には欲しいものがあって、必死にお金をためていた。何年も、おこづかいをすこしずつ、親の手伝いやアルバイトをしたりして、血の滲むような思いをしてようやく溜まったお金を握り締めて買いにいったところ、消費税分足りなくて買えなかった。

 奈落に突き落とされた気分だった。必死に向かっていた目標に、後一歩というところですべてを踏みにじられた絶望を味わった。どうして一生懸命お金をためたのに、こんなことであきらめなければいけないんだろう。お金を使うのは、悪いことなのか。どうして必死にがんばる子供を大人は邪魔をするのか。

 少年は野党の剥げ頭とともに取材を受け、そういった自身の心境をより詳細に語った。その語りぶりは政治のプロパガンダに利用されたという印象は薄く、少年自身の、定まらない与野党の政治主張よりもよほど気高く堅牢な信念を圧倒的に披露され、結局は逆に利用されるだけで野党の支持率は伸び悩むという、彼の毛根をより死滅させるに十分な結果となった。

 少年が宣伝活動を行って数週間もたつと、さすがに幾分かトレンドは沈静化したようで、彼の周囲に人はまばらである。駅近くに置かれたブルーシートに、カンパの資金や差し入れの食料やお菓子、ゲーム機やおもちゃ、マンガなどがいくつかあるのは、少年の欲しいものを推測した結果だった。

 いくつか疑問を抱くべき点はあった。まず少年は何を買いたかったのかを決して話さなかった。また平日にもかかわらず毎日、学校にも行かず朝から日暮れまでずっとこの広告活動を続けていた。学校はどうしているのか、両親はこのことを知っているのかなど、少年自体はそれらについて話さなかったので、一時は憶測が憶測を呼び、根も葉もないうわさが飛び交う状況となっていた。

 少年は差し入れのカツサンドを、まずパンと中身のカツにそれぞれわけて目の前に並べた。そしてパンをたべてから、カツのほうに手をつけた。

「でもむしろ今は、このほうがよかったとも思うんです」

 少年はそう言った。周囲のビラ配りや看板持ち、パフォーマーたちは一瞬足を止めて、少年の言葉に聞き入っていた。

「欲しいものは簡単には手に入らないという厳しい教えであり、いや、手に入れるべきではなかった気もします」

 税金の役割という観点から言えば、少年の言葉は正しいとは言えないのだろう。増税で購入を見送る事態が起きれば消費が停滞する。少年は自身の無念を多数の人たちにしっかりと伝えることで、ひとつの大きな渦を巻き起こした。彼が手にいれたものは、本来のそれよりはるかに大きく、ゆえにひとつの達成感に満たされてしまったのかもしれなかった。

 政策はこの不景気と労働人口減少が問題視される状況で、言わば労働へと向かう原動力を奪ったと言えよう。消費税は富裕層へ多く負担を強いるというエコノミストたちの正論を、弱者への弾圧とするまでに世論は加速していった。そのころには同情と賛嘆の渦は批判の嵐となり、少年の中心から次第にはなれていった。現在は選挙も近い状況で、消費増税の是非についての議論が少年のあずかり知らないところで紛糾していた。少年はゆっくりとした挙止で、かすかに目元をふるわせながら、集まったカンパを丁寧に数え、さしいれ品の買取価格をこまめにしらべていた。


 夜、家に帰るかと思った少年は、人里離れた山奥に来ていた。都心から電車で数十分ほど、駅からタクシーで住宅街を離れ、さらに数十分、少年は街灯もほとんどない山林の入り口で、一人降りた。

 周囲を闇深い森林に囲まれた場所に、世間の喧騒を嫌った貴族がひっそりと住んでいそうな屋敷がある。人の気配は一見してないが、庭園の通路部分は昼間のようにライトアップされており、庭園内から建物まで、細かいところも手入れが行き届いているようだった。大きなろうそくを邸宅の中心にひとつ灯し、輪郭を温かみで丸めたような明かりが窓から漏れていた。そんな邸宅からはずれ、敷地の隅の照明も届かない場所に、物置のような粗末な小屋があった。こちらはいっさいの手入れもされておらず、小さな窓ガラスにはくもの巣状のヒビが入っており、樹の板を無造作に貼り付けたような外壁も穴や腐食が散見された。

 少年はその小屋に入っていった。後をつけていた青年は窓の外から聞き耳をたてた。少年の買いたかったものここにあるのか。それとも別の目的があるのか。青年はおにぎりをかじりながら様子を伺っていた。部屋にはもう一人の気配があった。

 小屋の中心にある黒ずんだテーブルに古めかしいランプが置いてある。それから、小さな、輪郭をぼやかした光の円がにじり寄るように広がり、二人はその半身をうす赤い光に晒し、長い影をバケモノの尾のように伸ばしていた。挨拶がてらの談笑をこぼす、そのゆがんだ口元に集まる影が、若々しい彼の声までをねっとりと包んでいた。

「おじいさま、お体の具合はいかがですか」

 少年に対面するおじいさまと言われた男は、ばらばらとした白髪を肩までのばしており、ひげも濃くたくわえていた。彼は身をのりだして、ランプの明かりの輪郭を犯すようにぐっと顔を少年に近づけた。口元がべっとりと赤い舌に舐められたように染まっていた。

「薬を買う金もないんだ。よくなるはずがない」

 唇を唾にしめらせて、親指をそこに乗せる。そのまま、少年の持ってきた紙幣を数え始めた。

 初老の男と少年はその後もしばらく言葉をかわしていた。一部しか聞き取れなかったが、彼はイギリス人らしく、ときおり国名や地名が昔話に織り込まれるよう青年の耳に届いていた。そして現在を嘆くような言葉もよくあった。経済政策は一部の資産家たちが優位にすすむようにしか行われず、貧困者たちを追い詰めるだけである。しかし貧困者はそれを批難するだけで、結局は彼らも軟弱にすぎない、とかなんとか。それは他国の悪質な模倣に過ぎず、我が国民は軟弱な他国と歩みを供にすべきでなく、一国独立し、誇りを糧に貧困に耐えなければならない、と。聴衆がたった独りの演説は、むなしく小さな小屋のじとりとした空気に揺らしただけだった。少年はそれを熱心な様子で、うんうんとうなずきながら聞いていた。しかしどこか、新入社員のようにうわべをとりつくろっただけという様子にも見えた。

 ふと青年は背後に人の気配を感じた。振り返ると知らない女性がいた。思わず目があったが、女性は気にした様子もなく青年とすれ違い、小屋の中に入っていった。二人に飲み物を運んできたようで、それをテーブルに置くと、青年のことを告げる様子もなく小屋を後にした。

 女性は立ち去る直前、青年のほうを一瞬振り返ったが、その目には涙が溜まっていた。青年にはまるで助けてと、言っているように聞こえ、一瞬ためらった後呼び止めようとしたが、すでに姿は消えていた。

「金よりも何よりも、優先されるべきは誇りだ。この経済社会の中で生きるということは、たとえ今は貧困にあえでいようとも、その誇りを経済の奴隷に売り渡したということだ。女を抱き、いい家に住み、うまいものを食う、ただひたすら欲にまみれた生活をするのと同じだ」

 青年はこのやりとりを見て、ひとつの結論を抱く。

 祖父は富裕層の家庭が出自とするが、いつからか徹底的な経済主義の否定者となり、お金のある生活を固辞して、離れでひっそりと暮らしていた。しかし病を得て、その治療費と衰弱した体を支えるための生活費が必要になった。それがあのサンドウィッチマンでの宣伝活動の、資金あつめの理由だったのだ。

 帰路、青年は気配を殺して内側から敷地内の門に近づいていた。来るときは少年が開かせたが、いまはしっかりと、その背丈をはるかに越えてそびえる鈍色の門扉がどっしりと眼前に立ちふさがっている。どうやってくぐろうかと思案していると、門は鈍い音をたててゆっくりと開いた。あの女性があけてくれたのだろうか、それとも、はじめから侵入がばれていたのか。しかし青年はすぐにその門をくぐれなかった。罠のような気も確かにしたが、何よりその門扉と門構えは、目を逸らすたびに姿を変貌させており、そのことに恐怖を感じた、というのが事実だった。

 すなわち門扉は人生を構成する、出入り可能な壁のひとつだった。内側と外側では別世界が形成され、例えば少年は消費増税の門の前後に、ほしいものを手に入れた世界と手に入れられなかった世界を置いた。普通の人は、進学や就職、結婚や死別、成功の門を構えて、その前後に、栄光と挫折、失望と歓喜の世界を創っていくのだろう。少年の構えた門とその前後に伸びる道は、頑丈な門扉を象徴するほどに重要なものなのか。

 門が開いているのは僥倖である。普通はかすかに隙間ができた一瞬を縫って、その先の別世界に旅立たなければならない。

 そのとき青年は、開けっ放しの門を前に二の足を踏む理由に気づいた。あの女だった。あの女の顔が目に焼きついて離れなかった。あのすべてをあきらめたような、それでいてコワク的な香りに陶酔したような顔は、どこかで見たことがあった。彼女の目に溜まる涙が光る瞬間、自身の眼球がその光線に串刺しとなり、彼女と自分の唾と血がまざり、全身の血流が沸騰したように、いてもたってもいられなかった。青年はその記憶を門の外に置き去りにするように切捨て、ようやく門の外に出た。

 面倒な仕事を辞めた青年は今日あったことをSNSで拡散して、ジャーナリストとしていくらか著名になった。その後に仕事で知り合った女と結婚した。彼女の胸元に、針を通したような不自然な痕があったのが気になったが、すぐに忘れた。



 宮殿のような一室で、少年は宝石をちりばめた荘厳な椅子で足をくんで、頬杖をついている。

 自分のことを報道するニュースが映っているテレビを消し、やれやれ、と思わずつぶやいた。

「おとうさまは本当に厳しいお方だ、自分で欲しいものはどうやっても、自分で稼がせようとする」

 そう一人愚痴ると、ドアの前でひざまづく初老の男にあごを向けた。

 初老の男は頷いてドアを開けると、裸の女が何人か、おびえたような表情をしながら入ってきた。胸元には素肌に針を通したピンがささっており、痛々しく血が滴っていた。つまり品定めのための名札であった。少年はその血を、乳房ごとぺろりと舐めた。

「消費増税分、確かにいただきました」

 初老の男はやはり具合が悪そうに咳をしながらそう言った。

 少年は決めていたようにすぐ、そのうち一人を指名した。飲み物を運んできた女だった。彼女の実家は、少年の会社の下請け企業のひとつで、借金の肩代わりをしていた。

 ずっと欲しかったものはようやく買えた。女は少年の通っていた学校の、担任の女教師だった。これはお父さまからの、つつがない当主後継の祝いだと、少年は口元をゆがませて思うことにした。

 ただ、買ったら買ったで急に熱が冷めて、一度唇を重ねだけで、すぐに離してしまった。

 父親の会社は倒産した。女の行方はもう知れない。

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