Ein Stein und ein Nebel
懐中時計
Prolog ─幕開け─
第1話
今宵は一段と、霧と蒸気が濃い夜だ。
ごみごみした街中から空を見上げれば、両脇の建物の屋根で切り取られた月夜も霞んで見える。前を見据えれば白い闇ばかりが口を広げ、視界もきかない。こんな夜に外を出歩くなんて、よほどの馬鹿だ。
だとしても、彼は立ち止まるわけにはいかなかった。
「はぁ、はぁ………!」
背後からバラバラと靴底で乱雑に石畳を叩く音がする。それと同時に飛んでくる怒号が恐怖心をかき立て、彼はいっそう走る脚に力を込めた。もう息ができないと肺が軋む感覚がするが、そんなのに構ってはいられない。
ふと、小さなフラスコ型のネックレスが服の下から飛び出した。彼はそれを決して落とさぬようにぐっと握りしめて先を急ぐ。
「はぁ………はぁっ……!」
生きねば。彼を突き動かすのは、ただそれだけの感情だけだ。自分がこれだけ生に執着できるのだとは思わなかった。
不意に、ぱぁんと銃弾が弾き出される音がした。それは数メートル後ろの壁を抉った。次に放たれた銃弾は、彼の肩を抉った。
「………っ!!」
叫び声を上げなかったのは、最後の矜恃だった。けれども肌を焼いたにおいと流れ落ちていく血の感覚が生々しくて、彼の目からは涙が溢れた。ただでさえ悪い視界が、よりいっそう悪くなった。
そして、運命はその隙を見逃さなかった。
いきなり足元の地面が消えた。しまった、と思ったときには遅かった。もう、階層の外縁に来てしまっていた。
空中に身を躍らせる。開放感というよりは、何も受け止めてくれるものがない不安感しかなかった。ここまでどうにか逃げ切れてきたというのに、こんな最期、あまりにも滑稽すぎる。視界の隅で見たこともない死神が腹を抱えてケタケタと笑っているのが見えた気すらしてくる。それとも、死の間際というのは、得てしてこういうものなのだろうか。
いずれにせよ、ひどく残念であまりにも惨めな死に方であることは間違いなかった。
(父さん、ごめん……────)
風を切って落ちていく。急速に閉じる視界の隅に、
彼は意識を失った。
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