第13話【懺悔】
★
十月二十一日(土)深夜
篤夫が隼斗と共に学校へ行った日の晩のことだった。夕食の片付けも終わり、例によって隼斗はもう自室へ戻っていた。
「篤夫くんは隼斗の両親のことについて聞かないんじゃな」
先に話を始めたのは壮助だった。
「え、ええ。海外に行かれているというのは隼斗くんからも聞いていたので」
「そのことなんじゃがな、知っておいてもらいたいことがあるんじゃ」
壮助の声のトーンからそれは誰にでも話せるような話題でないことは篤夫にもわかった。
「なんでしょうか」篤夫はできるだけ心のうちを悟られまいと平静を装って答える。
「あの子の両親のことなんじゃが、本当は海外になど行っとらんのですわ」
「え」と言ったつもりが篤夫の口からは音が発せられていなかった。
「驚くのも無理なかろう。あの子も知らない話じゃからな」
「では、隼斗くんは今もご両親が海外で健在だと思っているってことなんですか」
「そういうことになる」
その言葉の重さは何かで言い表すことができるような代物ではなかった。
「でも、どうしてそんな話をこの間来たばかりの僕に?」
篤夫にしてみれば当然の疑問だった。
「もちろん、助手で来てくれた者だから話しておるのではないんじゃ。篤夫くんはのう、隼斗に必要な人間じゃとわしの直感が言っておる。これから話す話は年寄りの冥土に行く前の懺悔だと思って聞いてほしくてのう。じゃから、この話を聞いたからといって篤夫くんが縛られる必要も義務もない。いわば業務外の範囲じゃ」
興味本位とは違った感覚を篤夫の全身を襲った。それはもう義務感に近いような感覚だった。そして、篤夫はゆっくりと頷く。そしてその姿を確認した壮助は口を開く。
「まず、あの子にも普通に両親おった。二人の馴れ初めはいわゆるデキ婚といわれるやつじゃな。親族の反対を押し切ってあの二人はそれぞれの家を飛び出したんじゃ。結婚式もお披露目もない書類上の結婚だったが、確かにあの子の、隼斗の両親じゃった。しかし、あの子がが一歳半の時じゃ、父親が死んだ。なに、ありふれた交通事故じゃよ。人の命というものは儚いものんじゃな。小説や映画のような劇的な死に方の一つでもできればもっと浮かばれるのかもしれんのにのう。じゃが、現実は違った。隼斗を抱えた母が横断歩道を渡っている最中に赤信号で突っ込んで来た軽自動車から二人を庇って父親であるワシの息子は死んだ。でも、悲劇はそれで済まなかった。あやつが死んだのが自分のせいだと攻め続けた母親は二ヶ月と経たないうちに隼斗遺して自ら命を絶った。前触れは誰もわからなかったと聞く。冷たい女だとか言われるも悲しみを表に出さない女性だったんじゃよ」
篤夫は今自分が聞いたことが現実のことであるということがどうしても認識できていなかった。正確に言えば頭ではわかっているものの、心がそれを理解するのを拒否しているようだった。
「そして、隼斗は天涯孤独の身となった」
「でも、どうしても壮助さんはそれを隼斗くんには秘密に?」
篤夫は壮助の答えはほとんどわかっていた。しかし、ここで壮助はそれを篤夫に聞いて欲しいんだと思った。それが壮助の言うところの懺悔であると。
「ワシだって何度も言おうと思った。でも、でも、お前の両親は交通事故と自殺で死んで、わがまま言って結婚した二人だから誰も助けてくれなくて、探偵業と謳っては流れ者のように全国を転々としていた同じく一族の鼻つまみ者のであるワシが半ば押し付けらるようにして引き取ったなんてどうして言えようか。ワシがどんな人間かも知らずにきゃっきゃと笑うあの子の顔……篤夫くんも見たじゃろ。成長した今でも変わらん。今にも崩れそうなガラス細工みたいな隼斗の顔を、目を……それを見てしまってはワシのには言うことができなんだよ、篤夫くん。だから、わしができるのは……こんなやり方でしか出来んが、隼斗に多くの人間と出会って多くのことに触れて経験ができるようにしてやることぐらいなんじゃ」
篤夫は何を言うべきか決めていた。目の前で顔をくしゃくしゃにして罪の告白をした老人にかけるべき言葉は一つしかなかった。
「僕も壮助さんと同じようにしたと思います」
壮助は「ありがとう」となんとか一言零し、自室へと引き揚げていった。
一人でリビングに残された篤夫は、毎年毎年、既にこの世にいない息子のフリをして孫にミニカーを贈る壮助の心中を想像した。罪悪感、同情、悲しみ、心配、到底今の自分に耐えられるような重さではなかった。
★
十月二十四日(火)夜
「篤夫くん、お疲れ様。初仕事、うまく行ったようで何よりじゃわい。ワシの目は曇っておらんかったな。人選は完璧じゃったじゃろ、隼斗?」
朝川陽子の一連の凶行を詳らかにした日、篤夫は隼斗が学校から帰ってくるのを待って夕食の時間を終えると、壮助への報告をした。とはいえ、基本は毎晩情報共有をしていたのでほとんどは結末を報告するだけの簡単なものであった。そう、丸山真弘が何を「真実」とする事を求めたのかということを。
「ん、まぁ、これまでの助手の中ではマシな方だったんじゃない」
「最後までお前はなぁ……篤夫くん気を悪くしないでくれよ、これでもこやつなりにお礼を言っているつもんなんじゃ」
壮助は恥ずかしそうに頭をかいた。そこにはどこか嬉しそうな笑顔があった。
「大丈夫ですよ。もう慣れっこなんで」と言う篤夫に対して隼斗は「勝手に慣れんなよー」とリラックスした様子で事務所の隅にあるロッキングチェアを揺らした。
「それじゃあ、篤夫くん。これが、今回のお給料じゃ。交通費も込み込みなので悪しからずじゃよ」
そう言われ篤夫は壮助から茶封筒を受け取る。
「ありがとうございます」
「ちゃんと中身、確認しなくていいの」と隼斗の声が飛んでくる。
「いいんだ、なんだかお金はどっちでもよくなっちゃったんだ。それ以上に、いい体験をさせてもらえて感謝してるんです。壮助さんにも、もちろん隼斗くんにも。こんな形で誰かの人生に関わることができる仕事ができることがとても新鮮でした。なんだか、社会人になりたての頃、誰かの人生を変えられる仕事をしようと意気込んで仕事をしていた青いけど充実してた頃の気持ちを思い出した気がしました」
「そうか、そうか」とにこにこと頷く壮助。隼斗は黙ってそれを聞いていた。
「さて、明日は篤夫くん何時の電車かね。駅まで送るから決まったら教えておくれよ。なんだか、今日が最後の晩になると思うと少し寂しいのう」
「明日は九時の電車で発つ予定です。最後の最後までありがとうございます」
「ほうほう、それじゃあ隼斗とは朝学校に行く前に少し会えるぐらいですな」
「そっかぁ、じゃあ隼斗くんには見送ってもらえないね。残念だなぁ」篤夫はわざとらしく肩を落とす。「おじさん、子供かよ」と言う隼斗が楽しそうな表情になって篤夫は安心したのと同時に、こんな軽妙なやりとりも今日が最後になるのかと思うと篤夫がきゅっと胃のあたりが疼いた。とはいえ、時間は無情にも過ぎていき明日は寸分の狂いもなく近づいていく。いつも通り、隼斗、篤夫、壮助の順でお風呂に入りそれぞれの寝室に引き揚げる。これ以上特別なことがない夜の方が明日旅立つ篤夫にとっては気が楽だった。でないと、別れにくくなってしまうから。
寝巻きに着替えて、明日の着替えだけを枕元に出し、それ以外の荷物は全てボストンバッグにしまい込んだ。机の上に広げていたノートも、商店街で買ったお茶のセットも何もかもバッグの中で部屋の中は初めて来た日と同じ状態に戻っていた。感じまいと意識すればするほど、篤夫はこの部屋が恋しくて仕方なくなってしまって寝付けなかった。すると、その時だった。コンコン、と篤夫の部屋のドアがノックされる。
「はい」
「おじさん、起きてる?」隼斗だった。
「起きてるよ、どうしたの?」
「ちょっと、話があるんだけど入ってもいい?」
そう言う隼斗を部屋に招き入れ、布団の上に二人で向かい合って座る。隼斗は何やら言いにくそうな様子で一向に話を始めようとしなかった。
「それで、話って?」
「あ、いや、そのさ、おじさんに――残ってもらえないかなぁと思って、さ」
隼斗はよほど恥ずかしかったのか篤夫に目を合わせられないままそれを言った。
篤夫は驚きを隠せず「え」と声に出して一瞬固まる。
「どうしたんだい、急に。だって、次の事件が起きたら次の助手が来るんだろう。そうしたら、僕がここにいる必要はなくなる。部屋だって足りなくなっちゃうし」
隼斗は押し黙って少しばかり顔が赤くなる。そして、
「おじさんとが、今までで一番やりやすかったんだ。―――そう、そうだよ、依頼人にもその方がいいでしょ。調査の成功確率が上がるんだし、誰も損しないじゃん。だから、残って欲しいの」
「素直じゃないなぁ」と思ったものの言葉に出さなかった篤夫だが、隼斗からの言葉は小躍りしたいほど嬉しいものだった。ただ、壮助との契約は今晩まで。篤夫は断腸の思いで言葉を返す。
「それでも、僕は帰らなくちゃ。壮助さんとはそう約束だからね」
隼斗は意外とあっさりと諦めたように「そっか」とだけ言った。
「そうだ、あと一つだけいい」すでにドアのところまで行きかけた隼斗が振り返ると篤夫に向き替える。
「もちろん」
「俺さ、おじさんに嘘ついてたんだ。それだけもちょっとモヤモヤしてたから別れる前に一個訂正。最初の日、俺、お父さんとお母さんが海外にいるって言ったでしょ。でも、あれ嘘なんだ。たぶん、死んじゃってる。あ、でもじいじにはこのこと言わないでよ。じいじは俺がまだそれを信じてると思ってるから」
篤夫は声が出せなかった。声よりも先に涙が溢れていたからだ。隼斗は知っていた、それでいて知らないふりをしていた。その事実が、彼の壮助への優しさが篤夫を全身を震わせた。
「な、なんで、そんなに泣くのさ。両親が死んじゃってる子供なんて世の中探せばいっぱいいる。そんなに珍しい話じゃないって。それに俺は、二人のことほとんど覚えてないからさ」
それでも篤夫の涙は止まらなかった。
「隼斗くん」
「なに?」
「君はやっぱり優しすぎる。もっと、やりたいようになっていいよ。僕にあたったみたいにもっとワガママに生きていいはずなんだ」
篤夫がようやっと絞り出した言葉だった。よくよく考えたら、隼斗とか変わったこの期間で、壮助以外に一番彼が素を出してくれていた相手が篤夫だったような気がした。
「ワガママにとか、やりたいようにとかよく分かんないんだよね、俺。でも、おじさんとがやりやすかったのはなんか気が楽だったからかもしれない。それが『やりたいようにする』ってことなのなら悪くないかもしれないけど」
全くこんな時まで話の持っていきかたが上手な隼斗に篤夫は心が痛む。残りたい気持ちは篤夫だって十二分にあるんだ。隼斗とは仕事をしたこの数日がどれだけかけがえのないものだったかはもう言い表せないほど自分が感じていた。でも、壮助はこの助手入れ替え型の探偵業を隼斗の人生経験のためと思って続けている。それを自分のエゴだけで止めるわけにはいかない。
「じゃあ一つだけワガママ聞いてくれない? 一日だけ帰るの送らせて欲しいんだ。おじさんともっかい『待夢』に行きたい。そして、ミルクティーをご馳走して。お給料入ったんだしいでしょ?」
篤夫はその可愛らしい、精一杯の譲歩のワガママを叶えてやりたくなってしまった。半分は彼のため、そしてもう半分は自分のために。
「わかったよ、でも、それは壮助さんが了承してくれたらの話だよ。流石に無断でもう一晩お世話になるわけにはいかないからね」
「わかった、じいじに頼んでくる」そう言って部屋を飛び出しそうと、ドアを開けるとそこには壮助が立ち尽くしていた。
「あ、じいじ……」
「隼斗おまえ……」
壮助の表情を見る限り少なくとも今の一連の会話が聞こえてしまっていたのはほとんど明らかだった。
「聞こえちゃったか。でも、いっか。じいじ、今年はじいじからクリスマスプレゼントちょうだいよ。あと、おじさん明日一日だけ残ってもいい?」
「いや、あぁ、篤夫くんがよければ構わんが……その、いつから」
「それは、いいの。なんとなくわかってたんだ。だって誰の孫だと思ってるの。俺はこれで良かったの。だから、俺を思ってくれるならじいじは何も言わないで」
壮助はもう言葉も発することができていなかった。いつの間にか自分を追い越すように成長していた孫に彼が救われた瞬間だった。
温かく、ゆったりと夜は更けていき、そして着実に朝を連れてくるのであった。
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