第9話【風呂吹き】
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篤夫より少し前に帰宅していたらしい隼斗は食卓に箸を並べながら「おかえり」と篤夫を迎えた。壮助も「おかえりなさい」と台所から顔を出す。
些細なやりとりすら篤夫にとっては温かかった。実家を離れて一人暮らしを始めて、何年か経ったところで年数を数えることもやめていた。久々に感じる誰かと共に生きる感覚は懐かしかった。
「今晩はふろふき大根ですか。いいですねぇ」
篤夫が皿に盛られた味が染みて薄茶色に染まった大根を見て声をあげた。
「そうだ、篤夫くん柚子、買ってきてもらえたかな」
「はい、これです」と篤夫が壮助に袋ごと柚子を渡す。薄い袋越しに少しゴツゴツした皮の感触が伝わる。
「ありがとう。ご苦労だでしたね。これがないと、仕上げができなかったんで助かりましたわ。ほら、そうしたら手を洗ってきなさいな。もう出来上がるからね」
篤夫は液体石鹸を手のひらから甲へと順繰り馴染ませたら、次は指の間。最後に爪の先をそれぞれの手のひらで擦るようにして泡立てたあとで、手首まで洗う。流水はあっという間に白い泡を流し去っていった。商品関係の仕事をしていたせいで染み付いた手洗い方はおそらく完璧だった。少なくとも保健所の検査をクリアできるぐらいには。
「おじさん、手洗うの長くない?」
ハッとして篤夫が顔を上げると正面の鏡に映る自分の顔の右隣には隼斗の姿があった。手洗いに集中するあまりその足音に気が付かなかったのだ。
「え、いや、普通じゃないかな」
まだ心臓がバクバクいっている篤夫は気の利いたことも言えずに返答する。
すると隼斗は「ふうん」と興味を無くしたように踵を返すと「料理冷えちゃうから早くね」と言い残し洗面所を後にした。篤夫は隼斗が去る前に口元が緩んでしまうのを我慢できなかった。「かわいいやつ」と篤夫がこぼした言葉は彼自身の鼓膜を揺らしただけで宙に消えた。
食卓に戻ると料理はすでに全て並べられ篤夫の着席を待つばかりとなっていた。
「お待たせしました」
「いんじゃよ、それでは」
「いただきます」
挨拶がしっかりできる子は育ちの良い子なのよ。篤夫は母の言葉を思い出しながら目の前で大根を頬張る少年を見ていた。こう見れば普通の中学一年生なのにと何度も思ってしまう。
「おじさん今、こいつ普通の中学生だなぁって思ったでしょ」
「どうしてバレたの」
「顔に書いてあるから」
こんなやりとりもここ数日でだいぶ増えた。隼斗が心を開いてくれている証拠なのかと篤夫は内心嬉しかった。擦り下ろされた柚子の皮が味噌と絡んでこの上なく冬の食卓の匂いがした。
「篤夫くんはどうして『ふろふき大根』という名前なのか知っておるかね」
不意に壮助が篤夫に投げかける。
「いえ、知らないです」
「隼斗はどうじゃ?」そう尋ねられて隼斗は少し悔しそうに「知らね」と答える。その姿を見て壮助は愉快そうに頷く。
「『ふろふき』というのは言葉の通りお風呂のことなのじゃが、そこで体に息を吹きかけて冷ます様が熱々の大根を食べる所に似ているということでそういう名前になったそうじゃよ。ま、豆知識じゃな」
「それなら、それなら熱いものはなんでも『ふろふき』でよくなっちゃうじゃん」
隼斗がよほど知らなかったことが悔しかったのか声をあげた。
「まぁ、その辺は江戸時代の人に聞くんじゃな」
「ずるー」と言って隼斗は頬を膨らます。
「そう言えば篤夫くん、今日は何か収穫はありましたかね」
壮助はわざとらしく話題を変えていく。消化不良の隼斗は自分の小皿に残った大根を一気に口に放り込んだ。
「ええと、今日はこの間八百屋さんで話を聞いた時に名前が出てきた森本さんのところに行ってきました。あの、お茶屋さんですね。そこでおばあさんと、奥さんから話を聞けました」
そうして篤夫は森本茶房で聞くことができた話を二人に説明をした。壮助と隼斗の二人は話を挟むことなく静かに頷きながら最後まで聞いた。
「おじさんも不倫の話にたどり着いたんだ」
最後まで話したところで隼斗が一言。
「え、隼斗がくんもなのかい」
「うん。俺は第二の事件の第一発見者の朝川先輩に話を聞いてきたんだ。あ、丸山先輩にもまた話を聞いたけど新しい情報は無しね。で、朝川先輩も不倫の話をしてた。しかも、自分の母親と幼馴染の父親が不倫だときたら真偽はともかく気が気がじゃなさそうだった。先輩はポーカーフェイスだからあんまり表情には出してなかったけどね」
壮助はいつの間にか腕組みをして目を伏していた。
「どう思うかね、篤夫くん」
依然、壮助の目は閉じられている。しかし、間違いなく篤夫は意見を求められていた。
「そうですね、あくまでも僕個人の意見でいけば生肉事件と不倫問題が直接関係あるか、わからないです。あまりにも毛色の違う問題なので」
「ふむ、隼斗はどうじゃ」
すると隼斗は右手を軽くあげると、「俺もおじさんに賛成」と肩をすくめた。
「そうじゃな。今はまだその二つを関係があると決めてしまうのは早計じゃろう。どうかね、いったん生肉事件から離れて不倫話の方を二人で調べてみるのは。篤夫くんの話だと二人は中高の同級生だったんじゃろ。学校の図書館といえば、卒業アルバムがあるのが相場じゃ。見に行ってくるといい」
「あ、え、学校にですか。僕みたいな部外者はは入れるんでしょうか」
篤夫は少し焦って壮助に尋ねる。しかし、答えたのは隼斗だった。
「図書館は市民向けに土曜日は開放してるの。俺だけでもいいんだけど、おじさんが行きたいんだったら一緒に行ってあげてもいいけど」
「隼斗もこう言ってることじゃし、篤夫くんどうだね」
そこまで言われてあくまでも雇われ者の篤夫に首を横に振るという選択肢はなかった。
「じゃあ決まり。朝十時から開くからその時間に間に合うようにね。でないと、テスト勉強しにくる人で混んじゃうから」
「分かったよ。って、あれ、隼斗くんたちテスト近いんだ。勉強しなくて平気なのかい?」
「おじさんは余計な心配しなくていいから。じいじ、おかわり」
隼斗がご飯茶碗を壮助に渡すと山盛りになって戻ってくる。
「それじゃ決まりじゃのう。ほれ、篤夫くんももう一杯」
壮助は満足そうに話をまとめると、お酒を進めるように篤夫にご飯を勧めると、ご飯の釜
空になった事を喜んだ。
その後は他愛のないやりとりと共におかずをつつき、例によって隼斗が先にお風呂に向かうと篤夫と壮助は夕食の片付けを始めるのだった。篤夫は食卓を拭きながら壮助に話しかける。
「僕、事件解決のために役に立てているんですかね?なんだかあまり前に進めているような気がしなくて正直少し不安なんです」
篤夫の正直な気持ちだった。商店街で数人の人への聞き込みを経て情報は多少手にはいったものの、事件解決には程遠いような気がしてならなかった。そして、依頼人のあの少年には申し訳ないが、何よりも自分がちゃんと仕事を全うできているのか不安だった。
「ホッホッホ」と壮助は絵本に出てくるおじいさんのような笑い方をすると、篤夫に問いかける。
「篤夫くん現実の事件が小説や映画のようにさらりと解決できてしまうと思っているのですかな?」
「あ、いえ……そういうことではなくて」
「意地悪な聞き方をしてしまったかな。いいんじゃ、篤夫くんがそんな底の浅い人間でないことはわかっとる。だからこそ採用したんじゃからな。だから、自信を持っておくれ。これはわしの勘じゃが、事件は近いうちに解決する気がするんじゃ。根拠は恥ずかしながらないが、元探偵の勘だと思って信じてほしい。それと――」
そこで、壮助は洗い物の水を止める。篤夫は壮助の次の句を静かに待った。
「孫を頼みます」
「ええ、助手ですのでもちろんです。まぁ、僕がお世話になってしまっている位なんですが。隼斗くんはしっかりした探偵さんですよ。あ、そうだ、僕からもひとつお願いがあるんですけどいいですか?」
篤夫は壮助にひとつ願いをすると今日商店街で聞いた話と隼斗がもたらした学校での話をまとめるべく自室へ引き上げると、ちょうどお風呂上がりの隼斗と一緒になる。隼斗は温かそうな厚手のパジャマに身を包み濡れたままの髪の毛をバスタオルで拭きながら廊下を歩いてきた。
「おふろ上がったからどーぞー」
「ありがとう。もう少ししたら入らせてもらうよ」
「おじさん、ひとつ聞いてもいい」
隼斗が珍しく篤夫に質問をする。
「大人って結構簡単に不倫とかしちゃうもんなの?そこの価値観ばっかりは俺にはわからないから教えてほしいんだけど」
「難しい事を聞くなぁ。おじさんは結婚したことがないから、参考になるかわからないんだけど不倫はそう簡単にできることじゃないよ。ましてや今回はどちらも家族がいるんだ。家族を養ったり、守ったりするのってすごく大変だけど誇らしいことのはずなんだ。だから、それを失うリスクを冒してまでする不倫ってそんなに簡単じゃないと思うんだよなぁ。ん、こんな感じでいいかな。参考にならなかったらごめんね」
隼斗はしばらく顎に親指を当てるようにして考え込んだのち、「大丈夫。ありがと。それじゃ、おやすみ」とそこまで一息で言って自室へ消えた。
壮助にはしっかりした子だといったものの、篤夫の隼斗への印象は初めから変わらず「不思議な子」だった。子供らしい一面も、変に大人びた一面もパッチワークのような、どこか屈折したような、ちぐはぐな少年。もしかすると、両親と離れて暮らしていることも影響しているのだろうかなど、余計なもの思いまでしてしまっていた。篤夫は事件に集中すべく一番の事件から順にまとめていたノートを開いて新しい情報を付け足していく。助手としてできること、すべきことをいまは全てやっていきたい思いもまた真実だった。
詳細をまとめていくうちに夜はどんどん更けていった。
篤夫の部屋か見える透き通った空には、はっきりと傾いたオリオン座が浮かんでいた。冬が深まっていた。
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