第7話【別行動】
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十月十九日(木)
しとしとと雨が降る朝だった。秋雨前線が来ていると天気予報は伝え、モスグリーンの傘をさして学校へ登校する隼斗を壮助と篤夫が見送ると、壮助は朝食の片付けを始める。
「おじいさん、良いですよ。僕がやりますから」
篤夫はようやく言いたかった一言が言えた。初日、そして昨日。作ってもらって、片付けてもらってということにはだいぶ辟易していたのだ。ましてや自分は食事を生業としていた身。何もせずにいるということにはだいぶ気が引けていた。
「いいんだよ、篤夫くんは座っておきなさい。今日も聞き込みに出るんじゃろ」
「ええ、でも、そのくらいは朝飯前ですよ」
そう篤夫が言うと、壮助は一瞬ポカンとした表情を見せた後、「とっくに朝飯は終わったと思ったのじゃがのう」と冗談を飛ばす。
「もう、おじいさんは上手だなぁ。でも、今日は僕がやりますよ。おじいさんはテレビでも見ていてください」
腰をあげそうになっていた壮助の両肩を優しく押し戻すと篤夫は腕まくりをして台所に立つ。なんだか懐かしい感じがした。
「じゃあ、今日は甘えようとするか」
壮助が諦めてくれたことをいいことに篤夫はどんどん洗い物を進めていく。洗剤が醸し出す柑橘系の爽やかな香りが瞬く間に泡立っていく。皿の外側から内側にかけ、鍋の取っ手から鍋底へと手際よく泡を滑らせは流水が排水口へと運んでいく。無駄のない動きはもはや美しくもあった。
「篤夫くんが家政婦で来てくれたらワシも楽になるかもしれんなぁ」と笑う壮助に送り出されて篤夫は夏目邸を後にして昨日も聞き込みをした穂長商店街へと向かう。時刻は午前十時を回ったあたり。依然、秋の長雨は同じ調子で飽きもせず降り続けていた。
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隼斗は校庭をゆっくりと大きな水溜りに変えていく雨をぼーっと眺めていた。
じっとりと梅雨の時期のような湿気は教室の中にも充満をし、不快指数は臨界点まで高まりつつあった。
授業で取り扱っている「竹取物語」の一節「蓬莱の玉の枝」が隼斗は好きだった。とはいえ、その他の節は好きではないのだ。かぐや姫と結婚したいが為に無理難題に挑み、あまつさえ不正までして娶ろうとする男たちはどこまでも無粋であり格好が悪かった。ただ、隼斗はそれ以上に初めから嫁に行く気も、翁が姫を嫁に出す気も露ほどもなかったと思った。難題に右往左往する男たちを見て嘲る性格の悪い人に見えた。だからこそ、この「つくりびとしらず」の物語が「良きもの」としてこうやって教科書に載っていることもなんだか不愉快な気がしていた。しかし、「蓬莱の玉の枝」主人公となる「くらもちの皇子」は不正こするものの、かぐや姫に「負けた」と思わせることに成功しているのである。そこが他の節に比べて清々しかった。
「さて、ここまでの口語語訳、よし、夏目読めるか?」
「はい。『いつか聞きけむ、「くらもちの皇子は優雲華の花持ちて上りたまへり」とののしりけり。これをかぐや姫聞きて、我はこの皇子に負けぬべしと、胸つぶれて思ひけり。』」
隼斗は急に指名されるもスラスラと淀みなく読んでいく。その姿にクラスの面々は感心をしたような様子を見せる。いわゆるできる子のポジションを得ているわけである。
程なくして授業は終わり、級友たちが弁当を広げる中、隼斗は一人、二学年のクラスへ足を運ぶ。階段を一つ下がり二階に降りるとその踊り場で待っていたのは小豆色のジャージに身を包んだ丸山真弘だった。どうやら前の時間が体育だったようだ。
「あぁ、夏目くん。僕、この後、吹奏楽の集まりがあるからあんまり時間がないんだ」
吹奏楽部は秋のコンクールに向けて昼休みを返上で練習をしていた。隼斗のクラスの吹奏楽部員たちもろくすっぽ噛みもせずに弁当を喉の奥に流し込んでは音楽室へと走り去っていくのを隼斗は何度も目撃していた。
「分かりました。すぐ終わるから、ちょっとだけ質問に答えて欲しいんです」
その言葉に安心したのか真弘は軽快に首を縦に振った。
「まずは、朝川先輩について。二階目の事件の第一発見者。先輩も知ってますよね」
「う、うん。もちろんだよ。それで、陽子ちゃんがどうしたの?」
「丸山先輩って朝川さんと仲良いんですよね?」
その質問をぶつけると真弘は複雑な表情を浮かべた。イエスとも、ノーともつかない表情そのものだった。
「まぁ、親同士が仲良いからね。幼稚園に入る前から家族ぐるみの付き合いなんだ。それに、うちは肉屋、陽子ちゃんちは養豚家だもん。そりゃあ普通の同級生以上の付き合いはあるさ。でも、それが今回の事件と何か関係があるの? まさか、陽子ちゃんを疑ってるのかい? そんなくだらないこと言うなら僕はもう行くよ。忙しいんだ」
真弘はそこまで一気にまくし立てると、いよいよ訝しげな表情を真弘が浮かべる。それを見た隼斗は質問をさらりと変える。
「それじゃあ、もうひとつだけ」真弘はどんな質問がくるものかと身構える。
「先輩は、なんで生肉なんだと思いますか?」
「え?」呆気にとられた様子の真弘に隼斗ははっきりした口ぶりでもう一度聞く。
「どうして、机に置かれたのは調理された肉でなくて生のままの肉だったと思いますか?」
「そ、そんな嫌がらせをしてくるやつの頭の中なんてわかんないよ。それが知りたくて君に依頼してるんじゃないか」
「それもそうでしたね」隼斗はすんなりと引き下がる。
「でも、犯人は何かメッセージを伝えようとしているのかもしれない。わざわざ、毎回違う部位の生肉を学校内まで運んでくるなんて面倒なことしてるわけだし」
「あれ、どうして先輩は肉の部位が違うって知ってるんですか? たしか、先輩が登校してくる前にそれって片付けられてたんですよね?」
「あぁ、そうそう。僕は直接見たわけじゃないんだけど、一回目は教頭先生が教えてくれて、二回目は陽子ちゃんから、そして三回目はホルモンだったってクラスのやつから聞いたから全部違うことは知ってるんだよ。さすがにモツとはいえホルモンを生で触るのはなかなか気持ち悪いだろうなぁ」
そう言うと、真弘はぶるっと身震いを一つ。そして、「もう行かないと」と一階への階段を下り始めてしまう。
「最後に一つだけ」隼斗は珍しく声を張って真弘を呼び止める。
「え?」
「朝川先輩とはどこに行ったら会えますか? クラスに行っても会えなくて」
「ああ、陽子ちゃん部長さんだから休み時間はしょっちゅう職員室に行ってるんだよ。だから部活終わった頃に部室に行くのが一番、間違い無いんじゃないかな」
「ありがとうございます」と隼斗が言い切る前に真弘は音楽室へと階段を急ぎ足で降りていった。
一人階段に取り残された隼斗はしばらく物思いに耽った後でまだ壮助の作ってくれた弁当を食べていないことを思い出し一段飛ばしで階段を駆け上がり自教室へと戻っていった。
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篤夫が到着したのは穂長商店街の丁度真ん中あたりに店を構える「森本茶房」。長年の月日のせいか、やけに凹凸が多いレンガ風の歩道は少し歩きにくい。昨日の聞き込みの際に八百屋の田島氏が生肉事件を知る人物の一人として名前を挙げていた「森本さん」のお宅である。
壮助の話だと、「森本茶房」はこの穂長商店街ができるよりも前からこの土地で茶屋を営み創業当初から築き上げた独自のルートで仕入れた様々な地域の茶葉を取り扱う。そのため、贈答用から普段使いの家庭用茶葉までが揃うという。
老舗ならではといった木造の年季が入った建物に「森本茶房」と達筆な行書体で書かれたえんじ色暖簾をくぐる。
「ごめんください」
店内に入るとふわっと煎茶の香りが一番に鼻腔を刺激した。「いらっしゃいませ」と迎えてくれたのは例の森本さんのお母さんだろうか、七〇代はゆうに越していそうな老婆だった。顔に刻まれた皺の深さはその経験の深さを物語っていた。茶葉に囲まれたカウンターの一角に座布団を敷いて鎮座しているその姿はしばらく動かなければ像を見間違ってしまいそうなほどであった。
「何かお探しですかね」
老婆がゆったりと篤夫に視線を向けながら声をかける。
「あの、失礼ですが奥様に少しお話を伺いたくて。壮助さんのところの助手をしている茂森といいます」
篤夫の言葉を聞き届けた老婆は少しその言葉を咀嚼するのに少しばかり時間を有した後で答えた。
「あらあら、壮助さんのところの方でしたか。ごめんなさいねぇ、いまみどりさんは出ていましてね。よかったら、ばあさんの話でも聞きながらお待ちいただけますかな」
「有希さん」と呼ぶ以上、森本家のお嫁さんなのだろう、と篤夫は脳内にメモを取ると、早速お茶を注ぎ出している老婆の好意に甘えることにする。
「すみません、突然押し掛けてしまって」
「いいんですよ、お客さんなんていつも突然ですから」
「息子も今日は静岡の方まで買い付けに出てしまっていてねぇ。どうぞ」と差し出された淡い白色の湯のみには美しい花柄があしらわれ、黄色味が強いお茶が注がれていた。ひとくち口に含むと煎茶特有の甘い香りと追いかけるように渋みがやってくる。鼻に抜けていった後味が次のひとくちを誘う。
「あぁ、美味しい。ありがとうございます。おばあさんはもうこちらで長いのですか」
「お口にあいましたか。よかった。あなたはこの茶葉が合うような気がしたんです。私は生まれてこのかたずっとここに住んでいます。もう八十五年になりましたかね。息子がいいお嫁さんを連れてきてくれて、可愛い孫にも恵まれて、今はこうして一日のほとんどを店番をしながら街の皆さんとお話をして、と。いい生活をさせてもらってます」
「息子さんに感謝ですね」
「ええ、本当に」という彼女は心の底からそう思っているようだった。篤夫は自分の年齢を一瞬省みたせいで、少し複雑な心持ちだった。脳裏を実家に残してきている老いた母の顔がよぎる。
「ところで、少しお話をお伺いしたいのですがよろしいですか」
湯のみを両手で握って温度を確かめながら篤夫は老婆に問う。
「どうぞ、あなたまだこちらにきたばかりでしょうから、わかることならなんでもお話ししましょう」
「え、どうして僕がまだ来たばかりだと」
老婆は目を細めると「お召し物が大変暖かそうだったので」と笑う。
「よそから来られる方は大概私たちよりも厚着の方が多いんです。まぁ、雪国ですからそれはそれはみなさんお寒いのでしょうね。だから一目見ればこの辺りの方かどうかはわかってしまいますよ」
篤夫は自身のダウンジャケットを見て納得する。たしかに街を行く人々はもう少し軽装だったような気がする。そんなこと考えもしなかった。
「なるほど。おばあさん探偵さんに向いてますよきっと」
「またまたお上手なこと。それで、私は何をお話ししたら良いでしょうか」
「あぁ、すみません。お話が逸れてしまいました。奥様にもお伺いしようと思っていたのですが、実は星の杜一中で少し嫌な事件が起きていまして。その調査をしているんです。ちなみに失礼ですがお孫さんはおいくつですか」
「中学校で――佳子よしこさんが何か言っていたような気がしますね。あぁ、孫は今年一九と一六になりました。上の孫はもう街を出て都会へ行ってしまいました」
「そうですか。少し寂しいですね」
「ええ、でも時々電話をよこしてくれるんですよ。優しい子です。あらあら、また私のお話ばかり」
老婆は少し恥ずかしそうに口元に手をやる。もともとお喋りでお茶目な方だったのではと篤夫は思いを巡らせる。
「いえいえ、それで、その佳子さんって」
「あぁ、ごめんなさいね。佳子さんはウチのお得意様で旦那さんが中学校にお勤めなんです。あと、私のお茶飲み友だちなんですよ。それで聞いたのが、ちょっと学校で問題があって大変なんだというお話でね」
思わぬところから出て来た話に篤夫は少し身を乗り出す。
「ちなみに、どんな問題だったんですか」
「そうお焦せりなさらずに。ほら、お茶がなくなってしまってますよ」
老婆は篤夫の湯のみにお茶を注ぎ話しをはじめる。
「佳子さんのお話ではね、なんでも旦那さんが留守の日に限って学校で問題が起きるって旦那さんがいつもボヤいているんですって。それで、大変だ、大変だ。と、そんな話ばかり聞かせられちゃうと佳子さんも疲れちゃってるのよねぇ。男ってそういうものなんですよね、自分が大変だというお話をなさりたい方が本当に多いんです。あらあら、聞きたいのはこんなお話ではないですよね」
「いえいえ、僕の周りでも多かったですよ。自分はこんなに大変なんだっていうことを自慢して回っているような人。聞いてくれている人のことを考えずにそんなことばかり言ってしまっては味方がいなくなってしまいます」
「世の中があなたみたいな人ばかりだったらいいのにねぇ」そう言って老婆はお茶を啜った。篤夫にはそれは年季の入った願いの様にも聞こえた。
「あら、お義母さん、お客様ですか」
篤夫が不意に後ろを向くとそこには買い物袋を抱えた五〇代ぐらいの女性が立っていた。このまとめ髪を古風なかんざしで結い上げた女性がお目当の「森本さん」であろうことを篤夫は予想する。
「えぇ、こちららは壮助さんのところの助手の――」
老婆はそこで詰まる。どうやら篤夫の名前を失念してしまった様だ。
「茂森です。突然押し掛けてしまいすみません、奥様にお話を伺いたくて待たせていただいていました」
そう言って篤夫は頭を軽く下げる。
「あらあら、壮助さんのところの。すみませんね、お待たせしてしまったみたいで。ちょっとこれ、置いてくるので少しお待ちくださいね」
そう言って彼女は買い物袋を持ち上げると一旦、店の奥に消えていった。
「みどりさんはよく気がつく良いお嫁さんなんですよ。息子はみどりさんに嫁いでもらえて幸せ者です」
老婆はたいそう嬉しそうに目を細める。
「そうでしたか。次の代も安心ですね」
「ええ、本当です」
「あらあら、お義母さんにはまだまだ頑張っていただかないと。どうぞ、今買った来た物ですが」
みどりが奥からお茶菓子を抱えて戻ってくる。
「ところで、私に何か聞きたいって話でしたよね」菓子を盛った器を老婆の座る縁台に置くとうぐいす色のエプロンを身に付けながらみどりが問う。
「ああ、そうなんです。八百屋の田島さん、ご存知ですよね」
「ええ、さっきも寄って来たところです
「いま、一中で起きている事件について調査をしていましてその時に田島さんの所で森本さんが事件についてご存知だったと伺ったもので」
みどりは少し苦い様な表情を見せる。
「あぁ、あの生肉の、ですよね」
そうですね、と返す篤夫に対してみどりは君の悪い事件ですと感想を漏らす。
とはいえ、そのあと篤夫がみどりから聞き出せた話は田島氏から聞けた話と別段違いはなく新しい発見とはならなかった。
「ちなみに――丸山さんのお家に関しては何かご存知ないですか。その、何かしらの噂とか」
篤夫は例の不倫疑惑についても切り込む。しかし、みどりが知っているかどうかわからない上で余計なことも言えず、曖昧な聞き方になってしまう。篤夫はみどりの表情が気になる。
「あの……こんな話をしてしまって良いのかわからないのですが」
みどりの口ぶりから恐らくそれを知っていることは間違いなさそうだった。
「ご存知でしたか。今回の事件と関係があるかはわからないのですが、一応調べておきたくて。お話ししたくないのであれば無理にとは――」
「いえ、大丈夫です。結構、奥様方の間では噂になっているんでいずれ分かることだと思いますし」
みどりは一呼吸おくと丸山家に関する噂を語り出すのだった。
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