第16話 伊坂の秘書

 伊坂はいつものように、カードキーで執務エリアのドアを開けた。執務エリアは、窓際に弁護士の個室が並んでいて、その前にパーテーションで区切られた秘書のデスクが並んでいる。自室に入るには、必ず秘書のそばを通る配置だ。


 伊坂の気配に気づき、秘書の沙耶がパーテーションの中からこちらを見た。彼女はちょうど、両手で持ったシナモンロールを頬張ろうとしていたところだった。


 沙耶は、秘書の見本のような外見をしている。長い髪をアップにまとめ、細身の体に合うスーツを着こなし、足元は華奢なヒール。だが本人が言うには、「無理をして秘書らしく振舞っている」とのことで、確かに、大口を開けてシナモンロールにかぶりつこうとする姿は、沙耶本来の、明るく飾り気のない性格をよく表している。


「お帰りなさい。瀬尾先生からの差し入れです。召し上がります? キッチンにまだありますけど」


 沙耶が取りに立とうとしたが、いい、と伊坂は制した。


「不在中に何かあった?」


「佐伯市長からお電話が。来月の出張の件でお話ししたいと。それで、話の流れで、ご結婚と友里ちゃんのことお伝えしてしまったのですけど……まずかったですか?」


 沙耶が心配そうな顔で訊いた。


「いや、大丈夫。伝えてくれてありがとう」


「おめでとうございます、とおっしゃっていました」


「そう……それ、どこのだっけ」


 瀬尾先生がたまに差し入れるシナモンロールは、どこの店だったか、美味しいと評判のものだ。いつだったか、仕事で事務所に来た理世に、瀬尾先生がお土産に渡したことがあった。その時、理世がとても喜んでいたのを伊坂は思い出した。


「2nd Coffeeのです。向かいのビルの一階の。奥様にお土産ですか?」


「なんでわかるの」


「何となくです。伊坂先生とはもう十年も一緒にお仕事させて頂いておりますので。予約のお電話、おかけしましょうか?」


「いい、自分でする」


 答えながら伊坂は、そうかもう十年も経ったのか、と思った。


 沙耶は新卒で入所した時からずっと、伊坂の秘書だ。学生結婚をしていて、夫はフレンチのシェフ。バイト先で知り合ったと言っていた。七年前に産休を取り、その時生まれた男の子は今年六歳になる。


 沙耶が休職中の一年間は、散々だった。沙耶が当たり前にこなす業務が代わりの秘書には難しく、処理に時間がかかったり、ミスが多発したりした。一年間で秘書を三人変える羽目になった。それでもだめで、沙耶のような秘書を探すのは難しいのだと痛感した。

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