岩魚
氷川白丸
第1話
目を瞑りながら、ゆっらり、とてん、たっぽん、てん。山あいの単線を進む列車に揺られていた。早起きして来たのだ。ぬる温かく、しずかな車内。窓外は薄曇り。川の流れに漂い、水底の岩かげにまどろんでいるようだった。
ふと、到着を予告するアナウンスに意識が醒める。
物置きか公園のトイレのような無人駅の小さな駅舎を出ると、すこし湿った風が吹いていた。空は相変わらずの薄曇りで、気温はあまり上がりそうにない。
どう進むべきかわかっているのは心地よい、と流は思う。自分を知っている人間がいないのが、いや、そもそも人間が少ないのが良い、とも。つまり、一人で歩くのが好きなのだ。
登山口には駐車場も案内板もなかった。それは林道わきから薄暗い植林帯の中へと伸びる踏み跡で、門柱のように立つ二本の杉の木に山道を示す赤テープが巻かれているだけであった。結界の印か何かのようだなと思いつつ、地図を確認する。山道は湿った杉落葉で踏んでも柔らかく、ここを歩く人は少ないようだった。
流は、山に入っていった。
*
「あー、おい、鳥谷」
聞き間違えようのない、
(ん)と声にならないような何かを飲みこんで、流はふり向いた。
「あんさ、ちょい提案つーか、頼みあんだけど……」
「……」
梅雨入り前の六月、新緑と呼ぶにはもうだいぶ濃くなったソメイヨシノの緑をとおして、気持ちのいい陽光が教室にこぼれ落ちていた。暑がりな昇陽は、もうワイシャツの腕をめくっている。流は、とくに返事をしない。そういう口数の少なさを昇陽は知っているので、かまわず言葉を続ける。
「夏休みにさ、川釣り行こうと思ってて、渓流釣りな」
昇陽は空いている席の机に腰をかける。
「そんで、山ん中なんだけど、俺あんま行ったことないからさ、そーいうの。ちょっと相談したくて。県北の
「
「そうそう、それ! たぶんそれ!」
顔を見上げると、昇陽はおおげさに喜んでいる。少しくせのある短い髪を強引にワックスで立たせたシルエットの向こうに、緑と日光がちらついた。
「電車はともかくさ、バスがよくわかんねーんだ。あとさ、いろいろアドバイスもらいたいっつーか」
「……」
「日曜あいてる? 淳八堂行ってガイドブックとか見て、そんでメシ食って作戦会議」
「……いいけど」
その作戦とやらに自分も参加する前提みたいだな、と流は思うが、特に口に出さない。
「ったーサンキュ! じゃあ土曜メールすっから。たぶん十一時くらいに改札な」
「ん。少し調べておくから」
「おぉ! 頼んます」
おどけた調子で両手をあわせ、さっさと行ってしまった。自然とその後ろ姿を目で追いそうになり、流はふっと視線を戻す。そんなことをしては、いけないのだ。
教室の反対側で、昇陽がバスケ部の仲間と話しているのが聞こえる。昇陽の声は、体格のわりに低くて、耳で聞くというより頭に直接届く感触がする。目を閉じ、ざわめきの中からその声を探し出す。見ないかわりに、聴く。教室では、いつもそうしていた。
自分でもわかるくらい、喜んでいた。日曜に、昇陽に会う。鷲ノ巣山のあたりは二回ほど行ったことがある。バスは乗り継ぎがあってわかりにくいのだ。自宅に地図があるから、持っていこう。六日市までの電車は、週末に使えるフリー乗車券なら往復運賃より安くなるはずだ。それも教えたら、喜んでくれるだろうか。
自分の名が聞こえた気がして、思わず見上げる。
昇陽が気づく。目が合うと、彼はふふっと相好をくずして、すぐ会話に戻っていった。
腹が硬直すると同時に、肺から頭へ熱の塊がひゅっと急上昇する感覚を覚えて、流はぎゅっと目をつむる。五秒待って、いちど息を吸って吐くと、席を立ち、教室を出た。
見ることは、自ら視線を向けることだ。かれの美しい姿を、自分だけの知覚として手に入れることだ。見られる者の意図とは関係なく。自分にそんなことをする資格はない。
*
杉の植林帯はすぐに終わり、ブナやカエデの明るい林になった。モミジイチゴの黄色っぽい実をひとつ採って、口に入れる。
ジグザグの急坂を登りきると、細い尾根の上に出る。小さなピークをいくつも越えて、最後の登りをこなすと、視界が開けた。ダケカンバやナナカマドの中を、歩きやすい道が続く。
やがて唐突に頂上が現れた。ちいさな広場であった。古ぼけた三角点がひとつ。それから、山名と標高を記した小さな板切れが、枯木にくくりつけられていた。
本来、展望はいいのであろう。しかし、霧と曇天で何も見えない。絶え間ない風が、にじんだ汗から熱を奪う。これといった感慨も達成感もなく、流はそこを通り過ぎた。
斜面を下ってゆくと、下りきったところで小さな尾根が北に分岐していた。道を外れて、その尾根をたどる。倒木をいくつか越えて五十メートルほど進むと、木々の中に身長をゆうに超える大きな岩があった。
流はザックを下ろして岩に立てかけ、ふぅ、と息をついた。岩かげに腰をおろし、昼食をとることにした。
遠くでヤマガラが鳴いている。ドロロロ……とキツツキが木を叩く音がする。
あたりを見る。誰もいない。
*
流が昇陽と出会ったのは淳八堂の二階、フロアのやや奥まったところにある、アウトドアスポーツの本が並ぶ棚の前だった。
いや、正確には始業式の日に出会ったのだが、それはただのクラスメートという意味においてである。あまりしゃべらず、部活にも入っていない流には、友人らしい友人はいなかった。山歩きとそのためのアルバイトで学校をサボることも多く(担任には折にふれて注意されたが)、クラスメートからは敬遠されがちであった。しかしそれは流の苦にするところではなく、それどころか気楽でいいとすら思っていたから、まともに話したことのあるクラスメートは数えるほどしかいなかった。
高校の最寄り駅から鈍行電車で十五分ほどのターミナル駅に隣接する淳八堂は、このあたりではいちばん大きな本屋で、売場は地下一階から二階まである。
流は登山地図を開いて見ていた。赤い線で示されたコースにはおおよその所要時間が書かれており、登ろうと思っている山が日帰りで歩ける距離かどうか調べに来たのだった。
「あ、鳥谷?」
突然の声に、流は驚いた。それはまぎれもなく、いつも聞いているあの声で、驚いて反射的に昇陽の顔を直視してしまった。マンガのように、地図を落としてしまう。
「やっぱり鳥谷。そんなびっくりすんなよ」
ごめんなー、と言いながら地図を拾い、渡してくれる。
「あ……いや、ごめん」
「いやいや、何で謝んの」
「……」
流は下を向いたまま、受け取った地図の表紙を見ていた。
「やー、ちょっと立ち読みしに来たんだけど。おれ、釣りが好きでさ。知ってた?」
中年の店員がちらり、とこちらを見て通り過ぎていった。思わず声をひそめる。
「……知らない」
「あんまり周りに釣りするヤツいなくてなー。おっさんくさいとか言われるし」
「そんなことは、ないんじゃないか」
「だろぉ?」
「そういえば、何でバスケ部なのに日焼けすごいのかなって思ってた」
「……」
しまった。
昇陽は少しけげんそうな顔でこちらを見ると、らしくないだろ? と言った。
「タッパもないし、日焼けしてると、バスケ部とはまず思われねーよなぁ」
「……見た目どおりの人間なんて、そんなにいないよ」
「だよなぁ。お前、よく見てんなぁ……」
「別に……見てない」
「観察眼っつーの? そういうの。うん、いつも静かに観察してそうだよな、お前」
「へ、いや……」
流は本当にどうしたらいいかわからなくなって、間抜けな声を出すのが精いっぱいだった。
「で、お前は山登りなの?」
「あ……うん、そうです」
「へー! すげぇ」
「でも、山登りも……おっさんくさいかもしれない」
「ハハッ、いんやぁ、そーでもねぇだろ。あー、でもそれでお前も日焼けしてんだ、割と。部活やってなかったよな?」
頭は混乱したままだったが、しかしいつの間にか緊張は解け、本屋の片隅で話は続いた。昇陽は本を探しながら、器用に話を続ける。やがて棚の下の方に目的の本を見つけ、
地図で顔を隠すようにして、流は立っていた。四十分、二十五分、と登山道の区間ごとに書かれた所要時間を頭の中で合計しようとするが、足元にいる昇陽が気になって、何度も計算を間違える。
流は地図をそぅっと下げ、紙の端ごしに昇陽を見た。
私服姿が、新鮮だった。
濃いネイビーのスタジャンの下に、くったりとした風合いのダンガリーシャツ。ブラウンに近いオリーブ色の、何の変哲もないチノパンをゆったりめにはいている。白いスニーカーがさわやかだ。
つ、と右足を引いたかと思うと、昇陽がこちらを見上げる。
「何、お前も興味ある?」
ほとんどのクラスメートは、流のことをちょっとグレた変わり者か、関わり合いになりたくないし関わる必要もない問題児くらいに思っていたから、昇陽の友人は意外に思ったらしい。しかし、当の昇陽は気にしていないようだった。
流はとまどっていた。嬉しいのだ。しかし、どうしていいかわからない。わからないまま、話す機会は増えていった。
ときどき、昼食に誘わるようになった。
高校には学生食堂があり、弁当やパンを持ち込んで食べるのも自由だったから、教室を離れて食べたいときに使う学生も多かった。二人はたいてい奥の方、安っぽいビニールがかけられたテーブルをはさんで座った。
昇陽はなぜか、食事前に学ランの上着を脱いだり、ワイシャツの腕をまくったりする。続いて、水をひと口。それから箸を持ち、今にも襲いかかろうと言わんばかりに構えてから、独り言のように小さく「いただきます」と言って食べ始める。それはスポーツ選手が行う一種のルーティンのようでもあった。
昇陽はとりとめもない話をし、それは本当にとりとめもない話なのだが、流はそれをいつまでも聞いていたいと思った。流は食べるのが遅い方だったが、さかんにしゃべる昇陽は自然と食べ終えるのに時間がかかったので、ちょうどよいバランスだった。
流は、昇陽の話を聞きながら下を向いて食べる。昇陽が話を止めて定食に向かっている間、流は少しだけ、昇陽を見る。
食べている昇陽を見るのが好きだった。
彼が食べるのだと思うと、油のにおいがきつい魚のフライも、湿っぽいヤキソバパンも、とても美しいものに見えた。
去年、マラソン大会の日のことだった。大会が終わって着替え、帰路についたものの、どうにも温かいものが飲みたくなってコンビニに立ち寄ると、ちょうど昇陽が店を出てきたところだった。
日は暮れて、だいぶ冷えこんでいた。
昇陽は一人でコンビニの軒先に立ち、中華まんを食べはじめた。湯気とも息ともつかぬ白い気体が、彼の口元をおおう。
ああ、彼はいま、幸せなのだな、と思った。
流は下を見ながら店に入り、缶コーヒーをひとつ買った。店を出ると、昇陽はまだそこにいて、目が合う。
「よ、お疲れ」
予想外だった。
「……お疲れ」
反射的に目をそらして答えると、いやー、腹減るよな、と独り言のような声が聞こえた。
それが、淳八堂で出会う前に彼と言葉を交わしたほんの数回のうちの、ひとつ。
その日の夜、流は己の想いをはっきりと自覚した。
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