ケセランパサランみたいな犬

りう(こぶ)

ケセランパサランみたいな犬


「これは犬じゃない」


 母は、開口一番そう言った。と同時に、僕が見たこともないような、とても怪訝な顔をした(後にも先にも、母のあんな顔を見たのはその時だけだ)。


「これは犬じゃない」


 混乱する僕に、念を押すように、母は繰り返した。


               *  *  *


 僕がそれを見つけたのは、数日続いた春の小雨がようやく止んだ日のことだった。夜明け前、僕は晴れの予感をいち早く嗅ぎ付け、家の誰よりも早く目を覚ました。

 ふと軒下のそれが目に入った。というのも、僕の寝床から丁度見えるところに、それが落ちていたのだ。綿毛のように、白い毛玉である。僕は家族を起こさないように、そっと軒下を覗き込むと、それに触れてみた。ふわふわと柔らかく、ぬくい。多少の獣臭けものくささがあった。いつからそこにあったのか、それは、ほとんど濡れていなかった。僕がその毛玉に鼻をうずめようとすると、それからひょっこりと頭が突き出た。ピンと立つ二つの耳。黒く濡れた鼻。幼く、つるりと光る二つの黒い瞳の中に、不思議そうな顔で首を傾げる僕がくっきりと映る。首が据わっていないのか、はたまた眠たいのか、その頭はゆらゆらと揺れていた。

 毛玉は、鼻をスン!と鳴らした。

 (小さいが、これは犬かも知れない。いや、間違いなく犬だ。)

 弟分のような犬が欲しいと思っていた僕は、自分の寝床にそれをかくまうことにした。

 先々週、弟達がそれぞれ独立して行ってからというもの、母のヒステリーは日に日に酷くなるばかりで、見つかると何を言われるか分からなかったため、母にも秘密だ。



 それからというもの、甲斐甲斐しく、自分のご飯を残しては、毛玉にやった。毛玉は鼻をスンスンといわせてご飯を食べ、満足すると、時折小さく「ンー」と鳴いた。夜は毛玉を枕にして寝た。その柔らかな体に頬擦りすると、何ともいえない幸福な気持ちになった。



 しかしながら、僕の秘密はすぐにバレた。母は鼻がきくのだ。

「変な匂いがする」

 いぶかしんだ母が、僕の寝床を勝手に覗き、毛玉の存在が露呈した。どんなお叱りがあるか、と身構える僕に、母はこう言った。

「これは犬じゃない」

 母に、お前の鼻は馬鹿だと散々ののしられた。

 毛玉は犬じゃなかったらしい。しかし、

「それでも僕はこれを飼う」

「食べられもしない」

「それでも僕はこれを飼う」

 その正体がなんであれ、毛玉は既に僕の宝物に違いなかった。

 かたくなな僕に、いつしか母は呆れて何も言わなくなった。



 それからしばらく経った、ある月夜のことだった。

 その日も、僕は両の前足の間に毛玉を挟んで、枕にして寝ていた。

 獣の気配に、僕は目を覚ました。

 目の前に、僕と母のご主人でもない、家族でもない、知らない人間がいた。しゃがんで、僕らの小屋を覗き込んでいる。短めの銀髪を後ろにひとつでまとめた、痩せた和服姿の初老の男。小さな丸メガネの向こうで、つり目の一重が、僕を睨んでいた。

「犬コロ如きがオキツネさまを飼おうってか」

 そう吐き捨てると、男はぬっと小屋に手を入れて僕の鼻先をはたき、顎の下の毛玉をひったくった。未だ夢見心地だった僕は、突然の出来事に、毛玉を目で追うことしかできなかった。

 立ち上がった男に首根っこを掴まれ、寝ぼけ眼のままプラプラと揺れる毛玉。男は顔の高さまで毛玉を持ち上げると、

「二度目はないからな」

そう言って、毛玉から手を離した。

 危ない!

 僕は立ち上がった拍子に、小屋の天井に額を打ち付けた。

 しかし、毛玉が地面に叩き付けられる音はしなかった。

 そのかわり、そこには和服姿の幼い男の子が、むくれた顔で立っていた。

「帰るぞ」

 男は、雑木林の方に音も無く消えた。男の子もそれに続いて掛けていく。と、振り返り、僕に一礼した。そして、音も無く雑木林に消えた。



 僕は弟分の犬が欲しかったけれど、今はそれよりも、またあの毛玉に会いたいと思う。だから僕は今日も、夜明け前、軒下を覗く。



                (おわり)

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ケセランパサランみたいな犬 りう(こぶ) @kobu1442

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