第4話 憧れの飛鳥井さま
部屋へ戻っても何もすることはないのだが、日が完全に落ちて回りが真っ暗になる前に夕餉を取らなくてはならない。
この時代はやはり火が貴重な贅沢品であるから、なるべくは太陽の光と、月の光を使い、火は余程の時以外は使わないようである。
本日の夕餉が運ばれてきた。
いつものお膳に昨夜と似たようなものが並んでいる。お菜を少しと牛のしぐれ煮のようなものとご飯と味噌汁と漬物。ご飯は私の体調を気遣ってか、おかゆになっている、ありがたい。
「おちよさん、お水をいただけますか。」
昨夜学習したことだ。
今日も塩味の効いたお料理と推測される。牛のしぐれ煮とは豪華なおかずである。この時代で牛はよく食されているのか分からないが、滅多に口にできないものだということは容易に想像がついた。
早速喜んで、牛のしぐれ煮から箸をつけて口に一口運ぶ。よく噛む。じっくりと味わおうとする。さらによく噛む。
何か違う。肉ではない。何だか嫌な予感がする。
牛肉のホロりと口の中で優しくほぐれない、少しシャクシャクとして何かが舌苔に不快なザラリ感が残る。
よくよく見るとピンと張った筋のようなものが出ているが、牛しぐれであれば生姜の繊維のはずである。
「これは何でしょうか。」
「あぁ、それはイナゴとおからをじっくりと煮込んでら炊いたものです。」
さらりと言ったが、イナゴとな。聞き違いか、今と違うものを指しているのだろう。
「あぁ、稲の穂にございますね。植物の。どうりで少し植物のような食感がいたします。」
少し青ざめつつ、かなこは自身の聞き間違いと信じて尋ねた。
「いえいえ、虫のイナゴにごじゃりますよ。稲穂にいっぱいつくので、この時期は良く獲れるのです。もっとお召し上がられますか、これお代わりを。」
外に控えていた下女にお代わりを求めるおちよを遮り、今後はイナゴは出さないようお願いする。この時代はイナゴも重要なタンパク源であり、普通に食べられていたのだ。であれば、イナゴを食べれない私はタンパク質が不足してしまうかもしれないが、慣れるまでには相当の時間と心の準備が必要になる。
それにそれまでには現代に戻れるはずだから、慣れる必要もないだろう。今後は怪しい食材は先に確認しておこうと心に誓う。油断禁物だ。
慣れないイナゴを食べてしまったからか、食後に体が少しムズムズする。
首あたりが痒い。虫が走っている感じがする。首が痒いと思っていたら、鎖骨や肩あたりも痒みを帯び出すから不思議だ。
掻いていたら、昨日からお風呂に入っていないことに気づいた。いくら、現代の夏からして5度以上低めで過ごしやすい夏だからといっても汗はかく。汗を落としていないから体に痒みを感じるのだと思い至り、おちよにすぐに風呂の手配を頼む。
「ふろにごじゃりまするか。」
明らかに動揺を隠しきれない顔でこちらを伺っている。そして心なしかおちよの顔が青ざめたような気がする。
「ふろにごじゃりまするか。何か物の怪でもとりついたのでごじゃりまするか。」
なぜお風呂に入るだけでいちいち物の怪が出てくるのだろうか。お風呂で物の怪を流すというのは非科学的すぎる。
「どうかしましたか。暑くて汗をかいたので、汗を流したいのです。」
「ふろでごじゃりまするか。」
何度もお風呂であることを確認して絶句している。それを下女へ指示するか迷っている様子だ。
「普段、皆様はお風呂に入らないのですか。」
おちよはまた動揺した様子で答えたところによると、この時代では基本的にお風呂には入らないそうなのである。庶民であれば沐浴をするが、高貴な身分の方は体の垢を落とすことは運気を下げることにつながり、忌むべきこととして、滅多に入浴をしないそうである。
だから物の怪がついている時や、よほどの念じごとがある時でなければお風呂に入らないそうなのである。もしくは病気にかかった時に治癒のために温泉のあるところ行って療養する時だそうだ。
それにお風呂自体をお屋敷には容易しておらず、普段は水洗い場で少し体を拭く程度とのこと。
「仕方ありませんね、手ぬぐいをお湯をおもちください。」
これでは体に垢がたまって痒くて不衛生なのだから、この際仕方ない。今日のところは体を拭くことで我慢しようではないか。
そして、熱射病でまだ体調が戻らないとかと言う口実でパパにお願いしてどこか近くの温泉へ療養に出かけさせてもらおう。そのうち現代に戻るだろうし、それまで湯治場でゆるりとしてこようではないか。
おちよが盥にお湯を入れたものと手ぬぐいとを持ってきてくれる。
早速重い着物を抜ぐ。
盥のお湯に手ぬぐいをさらっと通し、両手でしっかりと絞る。手ぬぐいが温かいうちにささっと首から鎖骨にかけて体を拭く。とても気持ちが良い。お風呂に入ったほどの効果はないが、体が清くほぐれた気がする。そして反対の手、体、足と丁寧にぬぐっていく。
だんだんと盥のお湯の温度が低くなり水に変わってきたところで、おちよが気を効かせて代えのお湯を注ぎ足してくれる。さすがは身の回りの世話役だけあって、そのあたりのサポートは抜かりなくしてくれる。
おちよが現代でも私の秘書役として働いてくれれば、雑務はうまくこなしてくれそうだ。言葉のゆっくりさだけ直してもらわなければいけないが。
今のかなこに最低限必要な衣食住の基本をこれで一通りこなせた気がする。慣れるまでにはまだまだ時間がかかりそうだが、この世界で生きて行くためには慣れるしかない。
そして一刻も早くこの不便で超絶ゆっくりとした生活から逃れて平成の現世へ戻る方法を考えなければ。
調べるのに必要なネット環境もスマホ環境もない。どうすれば情報を得ることができるのか。どうすれば現世へ帰れる手段を得ることができるのか。
太陽の日差しが細長くかなこの居室へ差し込んで、何かを諭すように静かに畳を明るく照らしている。
「太陽はこの時代でも平成の世でも同じく日を当ててくれるのに、人の世はこんなにも変わってしまうものなのか。いや、太陽は同じく見守ってくれている。であれば私もこの時代をもっと楽しむことができるのかもしれない。」
昨夜はいきなりの夜這いに襲われることもなくゆっくりと虫の音を聞きつつ睡眠をとることができた。着慣れぬ重い重い着物に肩が凝っている。朝起きてから体の筋肉痛が激しくなっている。
慣れない「いざる」という行為や正座で普段はあまり使わないからだの筋肉が緊張してしまっているのかもしれない。初日はほとんど寝て過ごしていたが、昨日は結構動いたなと反省する。
しかし16歳という設定であるため筋肉痛がくるのが早いようだ。下着もゴワゴワとして、胸当て平た目のかなこの胸にぎゅっと巻かれているが苦しい。現代の下着が恋しい。
「空気のようなふんわりとした肌触り、着けていることを忘れてしまう愛され下着。」
あのCMの製品がこの時代にあればと平成の世の製品の質の高さに、下着会社や研究者たちの苦労を感じ感謝する。朝から肩こりで偏頭痛になりそうだ。
肩から首にかけてモミモミと揉んでみる。それから首を左右に倒して肩とつながる筋を伸ばしつつ、こめかみも揉んでみる。
「うー。伸びるうー。」
とそこへ、
「おはようごじゃりまする。本日もお日柄が良いようにごじゃりまする。」
と言いながら、部屋に入ってきたおちよと目が合う。
「かなこさま、なんというお姿。はしたのうごじゃりまする。」
「でも肩が凝ってしまって。」
「肩こりでしたら、すぐに膏薬と貼薬のご準備をいたしまする。」
これっと下女に素早く指示を出す。この時代にもやはり肩こりがあったのだと安心するものの、どのような膏薬と貼薬が出されるのか恐ろしくもある。
肌は荒れないだろうか、着物にべっとりと何か得体の知れない薬草がつくのではないか、それに効能がないのではないだろうか。淡々と朝の支度の手順を踏んでいるおちよの横で、かなこは気が気でなく頭の中に謎の膏薬がずっとひしめいており、恥ずかしい御手水も気がついたら終わっていた。
「お持ちいたしました。」
下女の持っている盆の上に置かれていたものは、灰緑色のクリーム状の器に、10cm四方の麻布である。それを受けとっったおちよの目がキラリと光ったように見えたのは気のせいだろうか。何だか嫌な予感がする。
「かなこさま、では髪を片側に寄せ、首から肩をお出しくだしゃりませ。」
おちよは灰緑色のクリームを木の刷毛で麻布に塗っている。クリームは思ったよりもねっとりとしていて、よく見る葉のかけらが見られ、いかにも葉を擦り潰したというのが分かる。麻布は目が少し粗いが、クリームが滴りおちるようなこともなく葉も網目をちょうど埋めて湿布に近いような形状になっていく。
「うっ。まさかそれを体につけませんよね。」
にたりと不敵な笑みがおちよの唇に漏れる。やはり嫌な予感がする。
「これをそのまま体に貼ると体にクリームがべっとりとつくのではないですか。しかもお肌が荒れてしまいそうだし、着物にクリームがつかないようにして緊張して肩こりが治るどころか余計に凝ってしまうわ。」
そうこう不平不満を申しているかなこの声は聞こえぬかのようにおちよはクリームのたっぷりとのった麻布をべたりとかなこの肩に貼り付ける。
「うっ。冷たい。」
昔の湿布はこのようであったかと思うような、湿布と似たようなじんわりと冷えてくる感じがある。
病は気からではないが、良く効く貼薬を貼ったのだと自分自身に言い聞かせることでなんだか肩こりが和らいできたような気がするから不思議だ。
もう片方の肩にも貼薬をつけられ、その上からサラシを巻かれる。そして着物を着付けていくので、着物にクリームもつかないよう配慮がなされた。
「ところでこの貼薬は何からできているのですか。」
「よもぎを乾燥させたものやら、酒粕やらが入っておりまする。」
どうりでお酒も含んでいる複雑な香りがしていると納得する。
「本日は朝よりかなこさまにお目通しを願っております殿方さまがおじゃります。」
「お越しに成られる殿方とはどのような方なのでしょうか。」
「それが…。」
と言いかけておちよは躊躇う。
いつも非常にゆっくりではあるがハッキリと話しをするおちよにしては珍しい。そんなにも変わった人なのだろうか。
「実は、飛鳥井さまのご子息でごじゃりまする。」
「なんと、飛鳥井さま!!!」
夢にまで見た飛鳥井さま、あのテレビドラマでこれだけは倍速で見ていなかったロミオとジュリエット平安時代絵巻版に出てきた飛鳥井さま。
「リアル飛鳥井さまに会えるなんて。」
とルンルンしながら、早速化粧の厚塗りをして着物選びを始める。謁見の時はもちろん御簾越しになるのだから、相手から顔も姿もほとんどシルエットしか見えないのだから気にすることはないが、でもそこはうら若き女の子として念を入れて選定しておきたい。
「おちよ、どのようなお香だと殿方に好まれるのかしら。」
と聞いたところで、おちよの暗い顔が目に入る。
「おちよ、どうしたの、具合でも悪いのかしら。」
「いえ、それが、実は。」
おちよがたどたどしく話すには、なんと飛鳥井さまの父君とかなこの父の中納言さまは仲が非常にお悪いとのこと。父も何かにつけて飛鳥井さまの父君を疎ましく思われ、政敵として常にライバル視しているらしく、その息子と会うなどもっての他だと。
ただ飛鳥井さまのご母堂はかなこの母の姉の嫁ぎ先のいとこというところらしく、実はその面会を申し出ている息子は実は遠い縁戚であるため、ちょうど避暑に奈良に来ていたためお見舞いに寄りたいと申し出てこられたとのことだった。例によらず遠縁と言っても他人の域である。
「中納言さまが良い顔をしないと思われまするので、お会いにならない方がよろしいのではないでしょうか。」
とおちよは止めようとするが、
「いや、わざわざ父がライバルの娘にも関わらず、遠縁にあたるからお見舞いに来てくれるなんてなんて素敵な殿方なのかしら。そんな方を追い返すなんて私にはできない。しかもライバル同士の家柄の子ども同士が結ばれるなんて、まさにロミオとジュリエット平安時代絵巻版ではないか。」
「ろめんとおじゅりとおっしゃりましたか。はぁ、お会いにならない方がよろしいかと思いましたが、かなこさまがそこまで殿方に肩入れなさってらっしゃるので、ここはご対面をする旨を先さまへお伝えするようにいたしまする。」
そうして、昼ごはんを食べてちょうど暖かい日差しが心地よく眠気を誘う頃になり、そのリアル飛鳥井さまがお越しになられる段取りとなった。
昼ごはんを食べた後はのんびりとはしていられない、お香を焚いて、お化粧も少し厚めにしなくては。そうだ歯に昼ごはんの菜物が挟まっていては幻滅されてしまうので、歯磨きもどきも丁寧に時間をかけてしなくては。
この時代には歯を磨くという習慣はないが、似たような習慣はある。竹でできた、というより竹がささくれ立ったようなものを歯の隙間に挟んでゴミを取り除くという感じに近い。
慣れないので痛いが、爪楊枝だと割り切れば何とかなりそうだ。ウキウキとしているかなことは対照的におちよは胡散臭そうな顔をこちらに向けてくる。
「何故にそのように嬉しそうなのでごじゃりまするか。御体もまだ障りがございましょうに、ご無理なさらずにいただきたく存じまする。」
言葉ではツンケンとしているが、御簾を準備したり、手元は着物にお香を焚き染めたりと手早く進めてくれている。
香炉の上に着物を乗せて薫りを着物へつけているが、そのうち部屋全体が良い薫りに包まれてゆく。
「あぁ、良い薫りですね。」
「秋が近づいてきておりますので、本日は侍従を主に用い、少し花の香を混ぜてみました。ものの憐れさを表わす薫りと言われておりまするが、まだ暑さが残る頃に用いることで涼しさも出てまいりましょう。そこに少し花の薫りを忍ばすことで、殿方へのお気持ちを華やかなものにしてくださりましょう。」
さすがおちよである。私の心持ちを読んだ上で、最適な香をチョイスしている。侍従が何の植物から作られているのかは分からないが、確かに秋のひぐらしが鳴く頃に田畑から香ってくるような、風に透明感が出てきた時に嗅ぐような爽やかさがある。
もう少し分かりやすく、平成の世の薫りに例えていうなれば、発泡入浴剤の’森林の薫り’に高級御線香の薫りを混ぜ合わせたような、高貴な爽やかさを持った薫りである。だいぶ近い表現だと自負するが、チープさが出てしまい平安のお香職人に申し訳ない。
だが果たして今までこのように薫りをゆったりと分析しながら味わったことはあっただろうか。
鼻腔に入る前にするふわりとした香りを鼻の奥まで伝えて吸い込む、鼻腔も鼻毛も面膜も全てが敏感に香りを感じる体制になっているのだ。そして鼻の奥へ入り込んだ薫りは、脳を刺激し、体全体が包み込まれている空気感に浸るのである。
「これは殿方もイチコロになる薫りですわ。本当に心がすっきりとする良い薫り。」
おちよが手にしている着物も、私の若い肌色にぴったりと合う薄い淡紅梅を準備してくれている。
襟から見える単には中青という深緑色を合わせ、可愛らしい中にも上品なレディを表現できる合わせ方だ。平安の世でも、淡いピンクのカットソーに深緑のスカートを合わせるのは上級者の熟せる技と心得るので、手が出しにくいが、おちよのセンスに任せておけば安心のコーディネートになる。平成の時代でもおちよはコーディネーターをさせるとピカイチであろう。
「かなこさまは本当に肌が白く美しくおられるので、なんとまぁ淡い色がよく映えること。」
コーディネーターおちよは、持ち上げ方もピカイチなようだ。
いつものように小さい鏡に最大限着付けされた全身を映し、かなこが満足げに頷くと、おちよも満足げに頷き、大きな木製の扇子を手渡してくれた。これはもちろん扇ぐためのものではなく、品格を上げるためのものであり、高貴な御身の姫君が口元や目元までを隠すのに使うのである。
もちろん、使い方はロミオとジュリエット平安絵巻版で学んだ知識である。
とうとう飛鳥井さまが別邸へ到着されたと下女が報告にやってきた。
部屋は侍従の薫りで満たされている。御簾は向こうが見えるか見えないか程度の薄布でこちらを美化してくれる効果が期待できる。
扇子は優雅に8割を開き、目元を隠すか隠さないか程度に持ち上げておく。
お菓子は一目で高級だと分かる干菓子を準備してもらい、万全を期して御簾の奥の座布団の上に収まる。
「飛鳥井さまがお越しになられました。」
平然と座っていたが、ロミオとジュリエット平安絵巻版の飛鳥井さまに生でお会いできるなんてと胸の高まりがどんどん上がり、心臓がばくばくと言っているのが聞こえてくる。
今まで国際会議でも、100人の前で行った講演会でも、元彼とのデートでも平静を装ってきたかなこには珍しく緊張しているのである。
おそらく、ロミオとジュリエット効果であり、現実には起こりえないと思ってテレビを通して空想を楽しんでいた世界に入ってしまい、思いを寄せる憧れの人に会えるという思いが高揚感を増長させてアドレナリンを放出しているのであろう。
いたって現在の自分が置かれている状況を冷静に分析しようとしているつもりであるが、あくまでつもりであり、心臓のドキドキが手に伝わっているのを否定できない。
部屋に満ちていた薫りにわずかに勇ましさを含んだ草の薫りが混じった。
平安時代では現代のように物にありふれた生活ではないため、おのずと五感が研ぎ澄まされていく。そして部屋を満たしている侍従の薫りに違う性質の薫りが混ざったことまで感じ取れるようになった。
その薫りはチープになってしまうが、発泡入浴剤の薫りに例えるならば、ヒノキの薫りにアクセントとしてドクダミを混ぜたようであり、ヒノキが優しさを醸し出しつつも、ドクダミの癖に依る薫りが勇ましさを表現していると感じられる。
その薫りとともに、衣が床を擦る音が聞こえてくる。
普通は床を擦る音の方が先に聞こえてきそうなものだが、この時代は音をなるべく鳴らさないようにして歩くのが上品とされており、またお風呂に入らない分、強く香をたきしめるため、先に薫りの方が風に乗ってやってくるのである。
衣が床を一歩一歩擦ってくる音が大きくなるにつれ、かなこの心臓の音も大きく聞こえてくるのである。
そして、とうとう部屋の前の障子に烏帽子にゆったりとした平安装束のシルエットが映る。下女がゆったりと平安訛りで告げる。
「飛鳥井さまがお越しくだしゃりました。」
「どうぞお入りください。」
気が張り詰めているのと慣れない平安訛りで妙なイントネーションで応える。襖が開く。緊張の瞬間。
御簾越しで且つ扇子を目元まで上げているので見にくいが全神経を集中させて開いた襖の方へ注視する。
一歩右足が見えた。
そして左足と烏帽子の曲がった上の部分も顔をのぞかせる。
飛鳥井さまの全貌が明らかとなった。が、肝心の顔は俯けながら入室されたため見えない。
そして手にした閉じたままの扇子に顔を伏せるように俯いたまま一礼をし、かなこより手前の部屋の所の真ん中に設えられた座布団の上に御座りになられる。結局顔が見えないではないか。
御簾越しに見た姿形は何やらテレビの飛鳥井さまとかなり違うように見える。気のせいだろうか。
テレビで見た飛鳥井さまは、それはそれは御背が高く、すらりとしており、180cmはあったであろう。もちろん、現代の平均身長とこの時代の身長は異なるということも理解しているし、テレビの俳優は背が平均よりもさらに高くモデル体型だということも理解している。
その分を差し引いても、この時代の平均身長はおそらく男性でも160cmくらいはあったのではなかろうか。
だが、入ってこられた飛鳥井さまは140cmくらいしかない。これは少し距離が遠いからなのか、遠近法でこのように見えているのであろうか。
いや、身長だけではこの縮尺の違和感は感じないだろう。なぜなら、目の前に座った飛鳥井さまはデブチョンだったのである。
それはそれはこの時代はみんなあまり食べておらず栄養が偏っていて細身の殿方が多いのではと勝手な妄想をしていた自分が恥ずかしい。でっぷりとした体格、妄想していた飛鳥井さまより縦は半分に縮尺されたのに、横は倍に拡大されている。
これにより、目の前の殿方はトータルでみると真ん丸いのである。
目の前に現れた飛鳥丸さま、いや飛鳥井さまを見てあっけにとられ、目が真ん丸くなってしまったではないか。
そして飛鳥井さまがとうとうおもむろに顔を上げた。
なんとそれはウリのような細長い輪郭。そしてその上ノッペラぼうではないか。
何度も自分の中で自問自答するが、御簾越しであり、かなこにはテレビの俳優の飛鳥井さまの姿が固定観念として残ってしまっているからであり、普通に見ると普通の殿方なのではないかと。
さすがにデブチョンの真ん丸の身体の上に乗っている頭がウリとは、例えるならばセントバーナードの体の上にダックスフントの頭があるようなものではないか。
自問自答をして、自分に強く暗示をかけるように、俳優とは違う、ここは平安の世、そして御簾越しなのだと言い聞かせ、再度顔を正面に向ける。
「はっ。やはり、ノッペラぼう。」
暗示失敗。
心理学を学んでいる訳でもないので、自分自身に暗示をかける方が難しいのだと納得し、今度は良く相手の顔を見てみようと思う。
御簾越しではあるが、よく見ると小さい点が4個と、うっすらと線のような口があるようにも見える。
そうか、ノッペラぼうではなく、一応は顔を形成しているパーツが揃っているではないか。ひと安心。
「いやいや、目が4つはやはり化物ではないか。」
思わず小さく声が出てしまい、隅に控えていたおちよから冷たい眼差し光線を受けてしまう。そしてジェスチャーで、扇子を上に上げるよう指示される。気づかなかったが、目が真ん丸くなった拍子に使い慣れない扇子は完全に膝の上に置いてしまっていたようだ。
慌てて扇子を目元の位置まで戻し、飛鳥井さまの顔を眺める。
目が4つに見えたが、よくよく見ると上の2つはポツンと墨を垂らして滲んだような眉毛であった。御簾越しであってもこれほどまでに目は小さく、口は細くあるかないか分からないように見えるものなのだろうか。
「この度は、御気の毒なことにごじゃりましたな。」
どこから声が降ってきたのかと思わず天井を見上げそうになる程、高い声で唐突に目の前の殿方が話してきた。
本当にこのデブチョンからこのように高周波な音が出るのであろうか。
目をこらすと、確かに口のような線がパクパクしているので、高周波を出しているのではなく、口から発している声だと認識する。
「はい、ご心配をおかけしました。わざわざお越しくださり恐縮でございます。」
びっくりしすぎて声を出せずに状況把握に勤しんでいるかなこの代わりにおちよが応えてくれた。
「かなこさまはこの通り、まだお声をお出しになれないような状況にござりますれば。」
また最後の方は涙声になり着物の端で目元を軽く押さえている。いえいえ、元気ですし、目の前の殿方の様相と声に圧倒されすぎて声が出ないだけですし。
「それはおいたわしい。お父上の中納言さまのご心中もいかなることかとお察しいたしまする。」
「ほんに。」
おちよがお相手をしてくれているので、その分かなこは観察に集中する。
もうロミオとジュリエット平安絵巻版の飛鳥井さまと目の前の人物が全くの別人であり、別人類なのだということは受け入れられた。
続いてこのデブチョン飛鳥井のコーディネートを分析する。
藤色の美しい直衣に下の袴は桑の実の濃い紫色が全体を引き締めている。何分、藤色が膨張色ではあるので、袴で引き締めてもデブチョン体型は一層引き立たせてしまっているのではないかと思う。
もう一度下からゆっくりと目を上へ上げていく。遠目なので確かなことは分からないが、光沢があるように見えるので、良い生地であろう。
ウリ顔はあまりじっくり見ないでおこうと意識的に飛ばして頭へ目を移す。
意識的に飛ばさなくても一見したところではノッペラぼうなのであるから自然と目には入らないのだが。
ウリ頭の上には烏帽子が乗っている。烏帽子はテレビでも見ていた形そのままであり、イメージ通りであったために妙な安堵感がある。そうだ、この部分は安定しているのであるから、笑ってしまいそうになったらここを、ここだけを見つめることにしよう。
「明日には京へ戻ることと相成り、今日ここへまかりこした次第にごじゃりまする。」
烏帽子だけを見つめていたので変なところから高周波が出ているような錯覚をおこす。だが高周波は続いている。
「私が都に戻りますれば、このようにかなこさまと相見えることも容易には叶いますまい。そのようであるならば大和におりますうちに、是非とも謁見賜りたいと前々より密かに願っておりました。」
なるほど、政敵に当たるお家同士、都ではなかなか政敵の邸宅に会いに行くようなことはできないのか。
であればわざわざこうして会いに来てくれるなんて、なんていい人だ。人は見た目ではない、中身が大切。そう、見た目ではない中身が大切だ。
「かなこさま、一言そのお声を賜りたく。」
そう、高周波ではない、中身が大切だ。
「やはりまだご回復されていないのですね、おぉなんとも哀れにござりますうぅぅれぇぇ。ばあぁぁぁ。」
涙声になりながら目元を覆っているもののぽてっとした眉毛だけがこちらを見据えている。目を隠しているのに目がこちらを向いている、思わずまた笑い出しそうになった。
そう、顔ではない、中身が大切だ。中身だ。烏帽子だけを見つめておくのだ。
「かなこさま、飛鳥井さまがここまで申してくださっておりまするよ。ほんにありがたいことにごじゃりまするな。」
おちよの方をそっと見ると、飛鳥井さまから見えないように正座をしている膝元で左手をふってこちらへ話をするよう合図を送っているではないか。
そうか、何か私も言わなくては。
「ほんに。」
それだけ言ったところでまた目が飛鳥井さまのぽってり眉にいってしまう。烏帽子烏帽子と自分に言い聞かせて言い直す。
「ほんに、このようなところまで来てくださりありがたいことにございます。」
「おぉ、かなこさまのお声を拝聴でき感激にござりまするうぅぅ。」
一言だけ言っただけなのにこんなにも感動してくださるなんて。
人は見た目ではない、高周波ではない、ましてや眉でもない、中身が大切だ。
無事に面会は終わり、かなこの一言だけを聞いて感激して機嫌よく飛鳥井さまはお帰りになられた。
面会前に飛鳥井さまと会いたがっているかなこに対しておちよがあれだけ胡散臭い目で見ていたのがよくよくわかった。
「かなこさま、あれだけ楽しみにされておりました飛鳥井さまがお越しくださいましたのに、一言だけでござりましたね。緊張されておられたのでしょうか。」
「いえ、そういうことでは。ただ、思い描いていたイメージ、ではなく雰囲気が異なっていたものですから。」
かなこの感想を聞いたおちよは、それ見たことかと大きく頷いている。やはり侍女の言うことには従っておくべきだったと反省をする。
「もう疲れましたので、床にいたします。」
ロミオとジュリエット平安絵巻版の飛鳥井さまに会うにはもう夢の中しかないと思い、早めに床に入ることにする。疲れていたからかすぐに夢の中に引き込まれていく。
(あぁ、飛鳥井さま、何て見目麗しいのでしょうか。あぁ、お待ちになって。)
(あぁ、飛鳥井さま、そんなに見つめないで。あぁ、手を触れると何だか心の臓が大きな音を立てだしましたわ。)
(あぁ、飛鳥井さま、こんなにも触れている感覚があるなんて、なんて現実的な夢なのかしら。)
(いや、なんだかこんなにも手が触れている感覚はおかしいですわ、飛鳥井さま。それになんだか鼻息のような音がしますわ。それにお香の香りも本当に匂う。)
「かなこさま。」
囁くような声が耳元でして、驚き目覚める。目を開けたとたん、目の前にのっぺらぼうの顔が全面にあるではないか。これは紛れもなく昼間に帰ったはずの飛鳥井である。
「ひゃ。」
あまりにも驚き絶句してしまった。先日も夜這いをかけられたが、こう頻繁に夜這いが常時化しているなんて、なんて本能のままに行動していることであろうか。
「かなこさま、御簾ごしではなくこのようにお近くでお会いしとうございました。あなたさまのお姿、蝶のような優雅な美声、ゆったりとした物腰にわらわの心は奪われてしまいました。」
まさか、昼間に御簾越しに謁見したのっぺらぼうだとは思わなかった。
御簾ごしだからのっぺらぼうに見えたと自己解釈していたが、事実間近で見ても真っ白い豆腐のような顔面には、オオサンショウウオもびっくりの小粒の目とぽてっとした眉毛、そして薄い口が付いている。付いているというのが正しい表現だと1人納得する。
とそんな悠長なことを考えている場合ではない。こやつは、のうのうと私を襲いに来ているではないか。
人は見た目ではない、高周波ではない、ましてや眉でもない、中身だと思った昼間の言動は全て撤回である。夜這いだなんてなんて破廉恥な。
昼間の謁見ではさぞいい人という素振りを全面的に押し出しており、草食系男子という雰囲気をしていたというのに。夜はガツガツの肉食男子。これはロールキャベツ系男子の典型的なものだろう。まぁ西洋食が入ってきていないこの時代だと差し詰め海苔巻き男子というところか。海苔巻きも献上品で巷ではお見かけしない類ではあろうが。
またもや思考が違う方向へ進んでしまった。耳元で高周波を囁いていた薄唇はおちょぼ口へ小さいながらも形を変え、気づけばかなこの顔の前にあり、口吸いをしようと間合いを詰めてくる。
「誰か、誰か助けて。」
「しっ、御静かに。誰かを呼んでしまうなど、私たちが今まで長らく育んできた愛が潰れてしまうではないですか。」
目の前で囁かれて、身体中に一気に悪寒が走った。
私は今の時代に来たが、それまで私だった方はこのノッペラ殿方とそういう関係にあったのだろうか。愛を育んできたのだろうか。愛を育めるような恋愛感情を持つことができたのであろうか。
私は未来から来ているが、今の時代にも元からかなこがいたということになるのか。またこの緊急事態に頭の中を違う妄想が走り抜けていく。
「御簾越しにあれほどまでに互いを見つめ合っていたというに。あぁ、私は姫に触れたかったのです。ご案じめさるな、力を抜いて私に全てをお任せなされませ。」
御簾ごしに見つめ合ってはおりません。このノッペラ殿方はかなり勘違いをしている。現代では痛い系という分類ではないだろうか。
御簾越しに逆光の中で相手の表情を判断しようとして頑張って見ておりましたが、まさか見つめ合っていたと解釈されるとは思いもよらなかった。今度からは気をつけなければならない。
そしてこの場はどう切り抜けるべきか。ここはこの時代の流れに身を任せてそのままされるがままにしなければならないのだろうか。
ノッペラ殿方とはいえ、由緒正しき、やんごとなきお方なのだ。この時代では人は見た目でも中身でもない、由緒が大切なのだ。由緒が大切なのだ。
自分に暗示をかけ、ノッペラ殿方からひたすら顔を背けて抵抗していたその力を無理に抜こうとした時、廊下の方からサササと着物を擦りなががら近寄ってくる足音とともにおちよの声が聞こえてきた。
「姫様、姫様。大変でござりまする。」
その声を聞き、ノッペラ殿方は慌てふためき、そそくさと声がするのと反対の障子から外へ出て行った。
そのすぐ後におちよが部屋に入ってくる。
「ナイスタイミングね、さすがはおちよさん。」
「ナスとタイではござりませぬ。呑気においしそうな夢をご覧になってらっしゃる場合ではごじゃりませぬ。それよりお屋敷のすぐ近くにお忍びの御車があるとのことでごじゃりまする。」
「あらま。」
「何だかこのお部屋には昼間の飛鳥井さまのお香りが色濃く残っておりまするな。それよりも怪しい御車にごじゃりまする。」
それは飛鳥井さまの御車だと思いながらもそこまでは心苦しく言うのを控えておく。
「わたくしの知らぬ間にかなこさまが襲われでもしましたら中納言さまに会わす顔がごじゃりませぬうぅぅ。ご無事で何よりでごじゃりまするうぅぅ。」
前回は袖の下をもらっていたのに、今回は袖の下をもらえなかったから、要はおちよは自分を通した場合のみある程度融通を効くということか、ちゃっかりしている。
しかし飛鳥井さまのような高貴な方であれば袖の下を出すことくらいするようなものであるが、やはり政敵である以上は内密にするしかなかったのか。内密に来た割には御車が目立つとは飛鳥井さまは抜けている。
さしもの下官が抜けているのかもしれないが、その教育が至っていなかったという点においてはやはり飛鳥井さまが抜けていたのであろう。部下の責任は上司の不徳のいたすところ、現代での道理である。
昨夜は飛鳥井さまの夜這いという大惨事、いえ光栄なことが起こったためにゆっくりと寝られず寝不足のまま朝を迎えてしまった。依然かなこは平成の世に戻る気配はない。
唯一幸いだったことといえば、16歳のお肌は無敵だということだろうか。
寝不足であってもお肌はツヤを保っており寝不足をうかがわせない美しさである。
かなこも学生時代であれば学期末の試験前によく徹夜で知識を詰めこんで期末試験を迎えたものだ。確かにその時、試験の結果はともかくお肌が不調でボロボロだというような経験をしたことがない。10代は新陳代謝が良く常に血色が良かった。
平安時代は平均寿命が短い分、皆さん若い頃から恋愛に勤しみ、どちらかというと夜型の生活をしているが、体には影響がないのはただただ若さゆえなのであろうか。人間本来は太陽の光を受けて起き出し、太陽が沈むとともに寝床につくというものだと考えていたが、それは農民や商人だけが習い、身分の高い殿方はむしろ夜を月明かりやたまには高価な蝋燭の灯りを使っていかに長く楽しむかという風流ごとに重きを置いているようである。
遅目の朝食をいただきながら髪を梳かれつつ寝そうになっている私の頭の中ではそのような違いがあるのかとボーっと考えている。
「かなこさま、お箸がお椀に浸かったままになっておりゃしゃいますよ。」
おちよの声にふと夢うつつから現実に引き戻される。確かにお箸がお椀の中にずぼりとはまったまま自分の世界に引き込まれていたようだ。
若いゆえにお肌の調子はそのままであっても、平成の世から来た場疲れと、夜を長く楽しむという時差疲れと、慣れない二重の疲れがきているのであろう。
「かなこさま、やはりまだお倒れになったお疲れが残っているのでございましょう。本日はご予定もござりませぬので、ごゆるりとなさってくださいまし。」
倒れて記憶が混濁してたことも疲れの原因だった。そして重い着物やゆっくりゆったりとした話言葉、どれもがまだ慣れていないのであった。
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