いざります

つちこ

第1話 平成のキャリアウーマン

 11時47分。

 昼休憩まであと13分。

 昼までに作りかけの社内端末購入のための決裁を仕上げて稟議担当へ提出し、並行して午後からの打ち合わせの資料を印刷して上司の机の上に準備する。そして1つ上階にある営業部へ昨日の売り上げデータを取りに行き、部のデータと照合させる。

 どれも先ほど急遽お客様宅へ行くことになってしまった上司の無茶振りではあるけれども、私であれば残り13分でやり遂げられる。

 そう、勤続10年目に入った私であれば。


 かなこは丸の内で働くキャリアウーマンだ。

 業界は通信インフラ系で、デスクワークが1日の大半を占めている。しかし世界中のどことでもネットワークが繋がっているので、デスクのパソコンしか相手にしていなくても、仕事はテキパキと進むし、世界規模のプロジェクトを推進することができる。

 日々目まぐるしく進歩するITの世界で生きて行くためには、世界的な視点で広く業界にアンテナを張り巡らすことと、マルチタスクで複数のことを同時に考えて並行していく能力が欠かせない。

 かなこはそんな業界の中で自分で自信の能力を常に高めるよう努めてきた。資格試験も複数取得し、業界のセミナーや交流会などにも休日返上で参加している。仕事のこなしは社内でも評価をもらっており、オンオフも切り分けているので後輩からも慕われ、今の自分のポジションに満足している。


 そして気づけば今年勤続10年目の中堅社員、そして独身。悲しいかなお局社員としての位置づけだ。



 営業部からの売り上げデータを持って自席に戻り、部のデータと照合ツールを使って差分がないことを確認したと同時に、12時のチャイムが鳴った。

 今日も時間通りに昼休憩に入る。ランチ時は決まって外でひとりで取るようにしている。たまに社内のメンバーとランチへ行くこともあるが、オフィスにずっといると、一人でゆっくりとする時間がほしくなるのだ。


 テイクアウトのサンドウィッチとコーヒーを買い、近くのベンチに座ってのんびりとした時間を過ごす。

 この場所は、会社から遠すぎず、かつ会社の裏側方面に位置しているので、あまり知っている顔と出くわすことがない。おまけに人工的ではあるが緑の木々が多少あるので目の保養になる。


「うぅぅ、今日も疲れるわ。」


 かなこは盛大に両手を上に伸ばして伸びをする。

 会社では両手の基本姿勢はパソコンを打つ角度に定められているため、大きく伸びをすると本当に気持ちが良い。


「これがどこかの農場で、周りに牛や羊がいるのどかな風景であればなお良いのだけれど。」


と独り言を漏らすが、都会のど真ん中では贅沢もいえない。


「午後は、電話会議が2件と、社内打ち合わせが1件。あとは明日の提案資料の作成とお客様訪問の準備をしつつ、後輩の資料チェックか。」


 今日も急な仕事が降ってこなければ、定時で帰れるはずだ。というより帰る。必ず帰る。頭の中で午後の段取りをイメージして最も効率の良い軌道を描きつつ、定時帰宅を決心する。

 そしてホットコーヒーを一口すすり、サンドウィッチをほおばりながら、開いた手帳でこの夏の予定について考える。


 かなこは仕事が速く段取りが良いので、夏季休暇も調整をして、平日5日間に 夏季休暇を取得し、前後の土日と合わせて9連休にする予定である。海外旅行の計画も立てていたのだが、近年の海外情勢不安により、一人旅では危なかろうという周囲のアドバイスを聞き入れて大好きな歴史に浸れる関西へ周遊しに行く予定だ。


「あーあ、それにしても道連れになる彼氏がいないものか。」


 一人ごちる。かなこがキャリアウーマンとしての誇りを持ち続けられて、その仕事に対して理解をしてくれ、お互いの成長を誘発できる関係を築ける彼氏を求めてる。

 周囲からは理想が高すぎるといわれているが、かなこからすれば、周囲の殿方のレベルが低いのではと考えている。ついでに容姿のタイプを説明しておくと、まず《公家顔》で色白、蹴鞠をしているようなタイプがお好みである。

 最近のワイドショーで出てくる方々に照らし合わせると、歌舞伎役者がその系統に近いのではないかと思われる。さらに苗字は三文字であったり、格式高そうなものであればなおさらポイントは高くなる。


「飛鳥井、伊集院、五十嵐、近衛、一条、鷹司、冷泉、奥宮……。」


 かなこはつい手帳の後ろにメモしている気になる苗字リストを眺めながら、未来の旦那さま候補を想像する。


「あぁ、飛鳥井さま。」


 思いを遥か彼方へ巡らしつつコーヒーで喉を潤す。


 まだ出会っていない彼氏はさておき、今年の夏季休暇では誰に気兼ねすることもなくただ自分の気が赴くままに古都の旅を予定している。大阪天満宮で江戸時代から続く商人の町を堪能するか、京都の龍安寺で侘び寂に浸るか。奈良の法隆寺の鐘の音を聴きながら今話題の柿カキ氷に舌鼓をうつというのも悪くない。


 そうこう考えているうちに、昼休みもまもなく終わる。急いで残りのサンドウィッチを急いで口へ入れてオフィスへ戻る。


 13時よりWEB会議に出席する。自席のパソコンにログインしてIDとパスワードを入力する。WEB会議に接続をしたが、まだ他の会議参加者は参加していないようだ。

 10分ほどするとパコリンと新しく参加者が参加した通知音が鳴った。

 そして画面に端正な顔立ちのルイーズが映し出される。いつもはオフィスから会議に参加するが、今日は自宅から接続しているようだ。服装も爽やかな水色のシャツを着ていてラフなスタイルである。


「Hi、ルイーズ。今日のアメリカの天候はいかがかしら?」

「Hi、かなこ。今晩は天気がいいんだ。星が出だしているから、WEB会議が早く

終われば天体観測に繰り出す予定だよ。そっちは今昼かい?」


 WEB会議を通してでもいつもより少し興奮している様子が伝わる。ダンディな声が幾分弾んでおり、ワクワクした子どものようだ。


「えぇ、そうよ。昼とは言っても、あなたより未来を生きているのだけれど。天体観測とは優雅なご趣味ね。ところで今日はアメリカで提供中のアプリケーションを日本で展開するにあたっての最終仕様確認をするということは分かっていたのかしら。まだ資料が届いていないようだけれど。来月リリースするには今日中に確定する必要があるのよ。あなたのスケジュールはゆっくり過ぎないかしら。」


「まさに今送ろうとしているところだよ、だってこっちはまだ君にとっては昨日だからね。」


「あらそうなの、では早く未来の私に届けてちょうだい。それにしてもアレックはまだ夢の中なのかしら、全くイスラエル時間ってのは厄介だわ。」


 いつも会議が時間通りに開始されたことはない。海外の時間感覚には未だに慣れない。時間ぴったりに生きてきて、幼稚園から社会人に至る今日までチャイムの音に支配された過ごしてきたかなこにとっては信じられないのだ。

 もちろん時間に遅れる時は必ず事前に連絡を入れるし、遅れた時は必ず謝罪から入る。ルイーズもアレックも遅れてくるのは当たり前、むしろ少し遅れてくるくらいが礼儀と思っているようである。


 働くのもマイペースに、そして自分自身の時間を大切にしている。オンとオフの時間区分もはっきりとしている。

 近年のサービス残業などが問題視されているのは日本特有の社会問題だということがはっきりと分かる。

 会社は9時から17時30分ではあるが、基本的には30分前には会社へ出社して9時にはメールを読み終わっている状態である。終業後も時間外申請は2時間までとしているが、実際は22時艶は会社に居て仕事をしている。

 アメリカでもイスラエルでも仕事は勤務時間内だけしかしないもの。会社への出社は会社の敷地内に9時に入ればよく、終業後は17時30分には会社の敷地を出ていないといけないらしい。


「日本人が時間通りなだけだよ。僕の知り合いの日本人もみんな時間にきっちりしているし、日本を訪れた時には電車の発車時刻の正確さに驚いたよ。秒単位で時間が管理されていて、見事な統率だった。アメリカじゃそうはいかない。この前、久しぶりに僕の故郷で1時間に1本のトラムに乗ろうと思って待っていて、時間通りに珍しく来たなと思ったら、1時間遅れだったんだ。でもいつか目的地に着くんだからと乗客ものんびりとそういうものと構えている。」


ポコリンとまた新しく参加者が参加した通知音が鳴ったパソコンの画面に寝ぼけ眼なルイーズが髪の毛を爆発させたままの状態で座っている。


「おはよう、ルイーズ、かなこ。」


声までまだ寝ぼけているようだ。


「おはよう、アレック。時間にルーズだとかなこ様がご立腹ですよ。まぁ私もさっきまでお叱りを受けていたんだけどね。」


「遅れてしまって、すみまセンダイ。」


「おぉ寒い。さぁ、ルイーズ、アレック、この会議は後30分ほどしかないんだから効率的に進めなくちゃ。さて、資料は今日中ということだったけど、最終確認になっていたデザインの所と、日本語にした時に懸念される文言の違和感についてはクリアできたのかしら。あと、バグが何箇所か残っていた所も解決済みと理解していいのかしら。」


かなこが会議を仕切ると、遅れて始まった会議でも時間通りに終了する。


「じゃ、あとはよろしく、アレック、ルイーズ。次は遅刻しないようにお願いしますね。」


「もちろん、次も遅刻しないよ。」


 声を揃えて言う2人に冷たい眼差しを向けつつ、会議を終了する。


 14時から資料作成に没頭し、黙々とパソコンと向き合う。就業時間内に今日は終わらせるんだという気迫で取り組んでいると、自然とパソコンに向かう姿勢も前のめりになり、背中からは「話しかけるな」オーラが出てくる。


「ここの背景仕様はこれでいいかしら。」

「かなこ先輩に確認した方がいいけど、話しかけるなオーラが出だしたから今は無理だな。チームミーティング後に聞くといいよ。」


 後輩達が背後でヒソヒソと話しをしている。かなこには聞こえないように話しをしているのだが、聞こえている。聞こえている上で、わざと耳のシャッターはおろしたままにする。

 1つ話しをしだすと、集中力が途切れる上に、他のことも追加でやらなくてはならなくなるのが常だからである。周りもかなこに頼りすぎてしまうのもいかがなものかと日頃より感じているため、そのまま無視することにしている。


 16時半よりチームミーティング。

 14時からの2時間半でクライアントへの提案資料と見積もりを3件作成し終え、ギリギリでチームミーティングに滑り込む。


 かなこのチームは6名。上司の金岡は普段はマイペースでのんびりとしているが、いざという時には頼り甲斐があり、トラブルでも逃げずに冷静に対応してくれる。かなこにとっては有難い上司だ。

 一応立場上ではチームリーダーの園田は45歳のボサボサ頭のおじさんである。いつもピントがずれている。ついでに眼鏡もずれている。

 ずっと気になっていたので、眼鏡のずれについて聞いてみると、眼鏡をかけたまま寝たら踏んでしまってフレームが曲がってしまったそうだ。

 普通であれば修理に出すだろうが、園田は眼鏡のずれは気にならないらしい。以来、ずっとフレームが曲がった眼鏡をしている。

 そんな園田を心の中で呼ぶ時はいつも呼び捨てになってしまう、いつか本当に呼び捨てで呼んでしまわないかが心配の種だ。

 だが、システムエンジニアとしてはなかなかのやり手らしい。発言はずれているが、思考回路は正確に動いているらしく、機械との会話が得意だ。


 定年間近の松元さんは、滋賀県出身らしく、少し方言が入っているので、話をしていても何の話をしているのかは良くわからない。

 話をしている内容は良くわからないのに、仕事をバンバン取ってくるのが今でも最大の謎だ。

 外回りの営業をしているのだが、お客様訪問に同席しても何を話しているのか良く聞き取れなかった。ルアーがルアーがと連発していたので釣りの話かと思ったら、フロアー内のシステムの配置の話であった。

 都会のど真ん中に似合わないが、仕事を取ってこれるので、社長から直々にこのビルへの配置換えがされたとの噂を聞いたことがある。

 懇意にしているお客様にこっそりと松元さんの会話は理解しているか聞いてみたことがある。良く分からないが、都会の真ん中でこの田舎らしい故郷を思い出す方言を聞くだけで心に懐かしい感じがするらしい、そして仕事もきめ細やかにサポートしてもらえるので信頼できるそうだ。

 やはりサポート面がただ者ではないのであろう。


 そして後輩の2人は入社2年目の山本くんと新入社員の岡野さんである。

 最近の採用ではしっかりと質疑応答やモチベーションを見て採用しているようで、2人ともしっかりとしているが、かなこを頼りすぎている節があるので、日々指導を行っている。

 チームミーティングの話題は今月の作業の進捗状況の報告と、夏休みのスケジュール確認についてである。チームリーダーの園田は目標すら把握しているのか朧げな様子で話をしだした。


「えー、今はサンクリ社の通信環境の設定変更をしているところです。えー、おそらく来月にサンクリ社の田中さんが、えー、通信試験をするので、要はそれまでに構成を確認して設定変更を終わらせようと思っています。」


 要はと言っているのに全然要約されていない。


 スケジュールが決まっているのか不安だし、進捗がどうなっているのか分からない報告で、今日もピントがずれている。

 ただ園田のスキルからすると、スケジュールが立っていなくても無理やりプライベートの時間も使って趣味的にプログラミングしてしまうのだろう。


「えー、その設定が終わったら夏休みを取れればと考えています。えー、夏休み中はツレと東北の方へ行く予定です。」


 園田の夏休みなど別に興味はないが、ツレが誰なのかは気になる。

 男なのか、女なのか。

 仕事はイマイチなのに、こういうのに限ってプライベートはうまくやっていたりするのだから、こっちとしては仕事に身を入れろを喝を入れたくなる。


「かつっゴホゴホっ。」


 大丈夫ですかと園田がさっと水を差し出してくる。

 喝と言いそうになっただけだ、気にしないでくれと心の中で思いながらも、こういう気遣いが案外女の子から受けるのかもしれない。


 続いて、松元さんの報告だ。


「あー、ほいで今はミユジクデーの、ほの保守の更新があるで、その対応をしとります。あとは先週のほいさらのふんとだじ、ルアー内の配置が決まったで、そん対応して契約までたどどりたんだし、ほいで、たんじさんのあん対応しとります。」


 今日の理解度は65%だった。

 聞き取れた方である。

 ミユジクデーはおそらく大手音楽会社のミュージックD社様のことだ。

 海外の協力会社の英語訛りより聞きにくい気がするのは私だけであろうか。

 でも複数案件を持って、いつでも目標を上回る案件を取ってくるのは、この話ぶりが一種の麻薬のようになって、お客様も惑わされてしまうからなのではないか。


「ほいで夏は孫とダズニダンダ行っとります。」


みんな頭の中にクエスチョンマークが踊ったが、私はすかさずフォローを入れる。

「ディズニーランドいいですね、楽しんできてください。」


 チームのみんなが納得した。言語とは奥が深いものである。

 同じ言葉でも少し発音が変わるだけで聞き取りづらくなる。私は相手の言葉の特徴を把握できているので、聞き取りは柔軟にできる方だが、それでも松元さんの会話の聞き取りは難易度が高い。


 かなこは上期分の目標達成はすでに目処がついているので、報告はあっさりと終わり、夏休みは関西へ旅に出る話をした。


「関西なら奈良がいいんじゃないかな、先週テレビの旅番組でもやっていたけど、海外の方が京都と大阪に集まるから、奈良は穴場なんだって。東大寺とか興福寺とか奈良公園とか。」

金岡が奈良を勧める。


「そいだば、関西行ぐんだら、滋賀にも寄ったらば、こほぅもえぇところだの。」

理解度80%、本日最高の理解度である。


「そうですね、奈良は穴場かもしれません。そういえば松元さんは湖北のご出身でしたね、滋賀は通過するだけなので、なかなか湖北まで足を延ばすのは遠いですが、ガイドブックで調べてみます。」


「かなこ先輩、誰と行くんですか。彼氏ですか。」

 山本くんがニヤリとした顔で聞いてくる。そして周りのみんなもあまり興味がなさそうな顔をしつつ、耳を3倍大きくして聞いている。


「ご想像にお任せします。では時間がないので、山本くんの報告をどうぞ。」


バッサリと切る。


「かなこ先輩は本当にクールなんだから、少しくらい雑談しましょうよー。」


かなこの冷たく射る視線に射すくめられ、山本くんが発表を始める。


「今月はイスラエルの開発業者と新しい映像伝送方式の仕様について最終確認をしました。お互いに仕様書の確認をして問題ないと判断しました。3か月の開発期間を予定しているので、下期のリリースには間に合いそうです。」


「リスク期間はどのくらい見ているのかしら。海外の開発業者は納期が遅れることがあるので、1割くらい開発期間が遅れる可能性も検討しておいて。」


「分かりました。」


かなこの抜け目のないサポートに課長も横から頷く。


「で、山本くんは夏休みは実家に帰るのかな。」


「僕は、コンパに忙しいので、この夏は実家には帰りません。丸の内ビルディングの受付嬢とやっとコンパができることになったんですよー。」


「あぁ、えっちゃんかな。それとも木下嬢かな。」


園田よ、何故そこで乗ってくるのだ。何故受付嬢に詳しいのだ。勝手に二次元専門だと思い込んでいたので驚く。


「園田さん、詳しいですね。正解です、木下さんです。園田さんももしかしてコンパ行かれたとかですか。僕は何度誘っても断られて、今回やっとなんですよ。」


「はい、最後に岡野さん、どうぞ。」


 あと15分で終業時刻だ。男どものコンパ談義で会議時間を延長するなどあってはならない。かなこは会議を先に進める。


「私は山本先輩と同じく、イスラエルの開発業者との仕様検討について、スマホ対応部分を担当しました。こちらもスケジュール通り仕様確認ができました。山本先輩の担当と合わせてリスク期間について、これから検討するようにします。」


 岡野さんも新入社員ながらも、ポイントを押さえて仕事ができている様子である。


「夏休みはお盆にお休みをいただいて、実家の長野に帰る予定です。もう東京は暑くて暑くて溶けてしまいそうなので、長野で涼んできます。」


「みんな夏休み期間はゆっくりとリフレッシュして、下期分のエネルギーを蓄えてくれ。くれぐれも事故や病気にならないよう気をつけるように。」


 ちょうど金岡が会議を締めくくったところで17時半になった。

 急いで席に戻り、すでに帰社の準備をしていた鞄を持って「おつかれさまー」と爽やかな挨拶を残してオフィスを出る。



 17時半になってキンコンダッシュをかけて駅へ向かっても、電車の混みようは凄まじい。3分おきにやってくるにも関わらず山手線の電車はどの車両も満杯。

 よくもこれだけの人々が毎日3分刻みに首都圏内を移動しているものだと思う。そして自分もその集団を形成している一人だと思い出し何故だか悲しい気持ちになる。

 かといってマイカー通勤をするのは更に混雑に加えて事故リスクが高まる。江戸っ子の気質なのか車の運転はタクシーでも容赦なく、少しの隙間があればそそくさと右から左から車が割り込んでくる。譲りあい精神でいては一向に先へ進まないのが首都圏の道路事情だ。

 クライアント先へ行くのに時間がなくてタクシーを使った時など、運転手へ急いでと言ったものの右へ左へわずかな車間距離を潰すように進んで、裏道も人々すれすれで生きた心地がしなかった。

 最初のうちはヒヤッつヒャッつと声をあげていたが、怖さが過ぎると声も出ずに放心状態でシートベルトを強く握り締め、クライアント先へ到着した時には意識が半分なかった。


 電車がホームに入ってきたので乗り込む。もちろん女性専用車両だ。以前、園田に、

「女性専用車両ってめっちゃいいですよねー。いい香りがしそうだし、全員女性だなんて秘密の花園感で憧れますよー。それに空いているし駅でも階段の側が多いから超優遇されているじゃないですか。」

と羨ましいを連発されたが、一度可能なことなら男性諸君も女性専用車に乗ってみてほしい。

 良い香りがするというのは幻想で、女性と言っても老若いるわけで、都心でこの時間ともなればキャリアウーマンや中年女性が多かったりする。

 普段スーパーの割引セールを専門としいる客層と近しいので、アタック力および詰め込み能力に長けているのである。

 そして空いている気がするというのが最大の誤解で、おそらく通常の電車よりも混んでいるのではなかろうか。

 しかも全員が女性ということは、素敵な男性がいるから清楚な女性を演じなければというような抑止効果が働かないので、皆ガツガツと場所取りに余念がない。


 特に女性には潔癖性が多いのか少し当たっただけで過剰反応をして押し返され、これ見よがしにハンカチなどで接触してしまった部分を拭いて「あなた何してくれるの」と女狐のように鋭く釣り上げた目で睨んでくるのである。


 嫌な気分になってしまう。席が空いた瞬間には皆一目散にその席を目掛けて席取りゲームが始まるので、先日は関取のようなおばさんに尻相撲で負けてこけてしまった女性を見たことがある。悲惨だ。


 また、女性専用車ではヒール率が高いので、ヒールがグサリということも日常茶飯事であるため、満員電車ではヒール禁止にして欲しいと願っている。ここまで話をしたところで園田は

「女性専用車両おっかなー。」

と夢碎けたと落胆してそそくさと去って行った。


 とはいえ、かなこはそれらのスーパーの割引コーナー、いやはや女子校と化した女性専用車両を選んでいる理由は、夏のおじさんの汗に触れたくないという一点に集約される。

 以前普通車両に乗っていて隣に来た汗かきデブチョン半袖おじさんの素腕に浮き出ている汗がノースリーブのかなこの肩あたりにピタリ触れた時の不快感が忘れられない。鳥肌が立ち、すぐに次の駅で降りてしまった。あれはセクハラの一種ではなかろうか。

 さらにそのあと、おじさんの汗に触れた部分が部分的に赤く痒みを帯び始めた。おじさん汗の不快感にアレルギー反応が出てしまったようだ。それ以来、夏は身体的な受け入れ拒否反応に従い、過酷を承知で女性専用車両を選ぶようにしている。


 さて、山手線の新宿駅からまた電車を乗り継いでかなこの住むアパートのある初台へ向かう。

 初台でたまたま安い物件を知り合いから提供してもらえるということで、この辺りの地代に比べれば格安で今のアパートに住んでいる。6畳1間ではあるが、築15年でそこまで古くなく、駅からも15分ほどの道のりだ。その間の道は舗装されている車が1台通れる程度の裏道ではあるものの、夜でもLEDライトの街頭が照らしてくれているのでかなり明るい。


  駅前の高級志向のスーパーに立ち寄る。この辺りで一般のスーパーもあるが少し遠いため、高級志向のスーパーでおつとめ品を購入することにしている。特に惣菜やパンは種類が多く、質が良いので気に入っている。


 かなこは今日は早く家に帰ってプライベートを充実させようと計画を立てていた。まずは19時からネットで英会話を習う。その後20時からこれまたネットでのヨガ教室。21時からは大好きな平安時代を舞台にしたドラマを見て、22時からゆっくりとお風呂に入って23時には読書をしながら就寝するのだ。


 となると、キンコンダッシュをして買い物をして家に帰って、ご飯を急いで食べる。出来合いの惣菜となってしまう。

 「1人分の食材を買うとどうしても食べ切れなくって」と会社では言い訳をしているが、そもそも本来料理が苦手なかなこには作ると言う選択肢はない。


 少し早めに食べ終え、英会話教室までの隙間時間でネットサーフィンで世の中のニュースを調べる。


「あっと、お水とトイレットペーパーが切れそうだったんだっけ。買っておきゃなきゃ。ついでに美容にいいと言うザクロジュースも買ってみようっと。」


 ポチポチっとついつい利用しているショッピングサイトで選択してショッピングカートに入れていく。惣菜、牛乳以外のほとんどものは全てネットショッピングで済ませている。

 重い荷物を持つことなく、アパートの共用ロッカーに宅配業者が入れて行ってくれるので、ロッカーから部屋へ運ぶだけで済む。特にかなこの部屋はロッカーにも近いので、部屋の扉を開けたままロッカーまで行って取ってくることもできるので重宝している。

 何でも効率的に時短ができるような仕組みがあれば、利用するとやめられない。


 そこへスマートフォンにSNSの通知音がポコリンと鳴る。

 友達のミサから食事のお誘いだ。と言ってもただご飯を食べるだけではない。もちろんコンパのお誘いだろう。

 現在婚活に勤しんでいるミサのこと、コンパの話はいつも真っ先に同じ戦士であるかなこにお知らせしてくれる。婚活以外でミサと会うことはほとんどないのだ。


 ミサと私の好みは真逆である。公家顔で細身男子好みの私に対してミサは武家顔のイカつい男子が好みであり、コンパに行ってもお互いの好みがすぐに分かるので常に同盟を結びお互いが良い関係となるよう話を進めることができる。


 コンパへ数多く行ってもなかなかその後へ発展しないケースが多い。好みの男性がいてアプローチしてものらりくらりとした返信しか返ってこず、結局自然消滅。2人だけで会うことになっても話が続かなかったり。後は体目当てなだけのゲス野郎だったりする。


「やはり彼氏は性格重視だよね。」


と建前上は言うが、検討要素は多く全てを平均ライン以上でクリアしていないと付き合うというところまで進まないのだ。


 もちろん、これがかれこれこの年齢まで独身に至った原因であろうことは薄々かなこも気づいている。しかし、厄介なことは、この年齢まで至ってしまったものだから原因を素直に認めづらくなっているということだ。

 変にこの年齢まで待ったのだから自分に合う人はうっとりするほど好みの男性でなくてはプライドが許さない。

 仕事であれば難なくできる「折り合いをつける」ということが、ことプライベートとなると全く妥協を許さない状況だ。

 つまるところ、ミサとのコンパ三昧で成果が上がらないと嘆き合う結果に繋がるのである。


「オッケー、楽しみにしていまぁす。」


とミサにスマートフォンで返信しつつ、コンパ当日の運勢を占う。

 元来、透視や占いなどという非科学的で証明ができないものには興味はないのであるが、キラキラと女子力高めの女子たちや後輩が占いでのラッキーアイテムを当日持っていったら素敵な男性をゲットできたというのを数回聞いてから、アンチ非科学的思考をあっさり覆したのである。

 別に100%あたるわけでもなく、そのラッキーアイテムを持っていなかったからと言って何も有害になるものでもならないのであるならば、ひとつ心の支えとして持参しておいても良いのではないかという結論に至った。


 自分の生年月日、自分の名前、占いたい日付、ポチポチポチと入力していく。名前と生年月日を入力しただけでどこか海外のサーバを経由して個人情報が抜き出されているのではなかろうか、「ここに男に飢えた独身の女がいますよ」と全世界へ発信してしまっているのではなかろうか。

 と不安になってしまうのもIT業界へ長い間身を置いている者の一種の職業病であろう。そこまで世界のハッカーも暇ではない、ただそのサイトの利用者の傾向分析を取得する程度であろう。ポチポチポチ。バン。


「かなこさんの8月2日の運勢は30%。ラッキーカラーは黒、ラッキーアイテムはダンベル、ラッキーフードはニンニクです。」


非常に不吉な運勢だ。まず当日の運勢が30%な時点で悲しいが、あくまで非科学的で参考レベルに考えるんだと自身に言い聞かせる。

 ラッキーカラーは黒、黒い要素があれば良いのだろうか。

 コンパ上級者の後輩から、コンパの鉄則として教えられたのが「服はパステルカラー、女子アナ風に可愛く清楚なものを」だったのだが、黒では反してしまうような気がする。

 ラッキーカラーを取るべきか、コンパの鉄則を取るべきか。


 ラッキーアイテムのダンベルとは一体どう調達したら良いのだろうか。2ℓの水を上げ下げするだけでダンベル代わりになるというが、カバンの中に2ℓの水なんて入れてしまってはカバンが壊れるだけである。

 コンパの自己紹介の席でダンベル持ってますという話をしては男性陣もダダっぴきであろう。

 当日の朝にダンベルで体を鍛えてから出ろということであろうか。

 ネットでヨガはやっているものの運動という運動はしていないので確かに二の腕は少し引き締めが必要になってきた。

 明日100均によって水入れ式のダンベルを購入しよう。もはや当日のラッキーアイテムではなくなっているが。


 そして一番厄介なのはラッキーフードだ。

 ニンニクは魔物を追い払うには向いているであろうが、コンパの席では最もタブーな食材だと思う。相手を追い払ってしまってはコンパの意味がないではないか。

 瞬間清涼剤を直前に食べても口臭がするのではないかとヒヤヒヤして話に集中できない。


 占いはあくまで占いだ、参考レベルに考えておくのが良さそうだと思い直して英会話用のヘッドホンを準備する。


 19時、英会話教室。パソコンから設定したサイトへアクセスしてIDとパスワードを入力してログイン。


「Hello、Kanako!」


英会話教室の講師であるジェーンが元気に挨拶をする様子が画面に映し出される。


「Hello、Jhan!」


かなこも元気に挨拶をしてWebカメラに向かって手を振る。マンツーマンのレッスンで、自宅から自分のレベルに合った英会話教室が受講できるのは重宝する。

 講師はもちろん外国人の先生だが、講師も自宅からログインしているケースもある。

 さすがにアレックをはじめ仕事仲間のように遅刻はしてこず、しっかりとした授業サポートを運営会社がしているので安心して語学力向上に取り組める。

 もちろん、素敵な先生を前にドキドキすることもあるが、口臭でヒヤヒヤしなくても済むのもメリットだ。コンパやお見合いもいずれネットで済ます時代になるのだろうな、そうなればニンニクがラッキーフードでも思い切り食べて臨めるのに。


 20時、ヨガ教室。

 家でヨガ教室というと良く驚かれるが、こちらもWeb越しに丁寧に体の使い方を教えてくれる。

 テレビにカメラとマイクをつけてその前でやるので、スペースもあるし画面も大きく先生の体の動きも分かりやすい。

 以前は早朝のヨガレッスンに通っていたが、海外とのWeb会議の時間が早朝になることも多く、通いよりはWeb越しのレッスンの方が時間が柔軟に設定できてライフスタイルに合う。

 ヨガが終わってから電車を乗り継いで家に帰る面倒もなくなり、ヨガが終わってからすぐに就寝することもできて楽だ。体の動かし方の基本は心得ているし、月に1回程度は教室へも通っている。

 ヨガをすることで心身ともにリラックスできるようになっている。


 21時、平安時代を舞台にしたドラマを視る。

 ネット動画を多く見る今日この頃だが、テレビドラマも面白いものや話題性があるものは視聴するようにしている。

 今日も19時からやっている2時間ドラマを録画したものだ。それを倍速で、かつCMやエンディングを全て飛ばすとちょうど1時間で視聴し終わるのである。

 知人に倍速で視ることを話すと驚かれるが、慣れると普通の速度で視るのはゆったりまったりのっぺりとして疲れてしまうのである。かなことしてはできる限り効率的な時間の使い方をしたい。


「あぁ、飛鳥井さま、何て見目麗しいのかしら。」


 かなこが大好きな歌舞伎役者が端正な顔に烏帽子をかぶり、クールな表情を浮かべている。

 舞台は平安時代、飛鳥井さまが彩姫と恋仲になってしまうが、両家は仲が悪くて道ならぬ恋であったため、幼馴染の陰陽師さまに相談をして麻薬で飛鳥井さまが死んだふりをして駆け落ちをしようとするような筋書きのドラマである。

 ようは、かの有名なシェークスピアのロミオとジュリエット平安時代絵巻版ということであるが、とにかく飛鳥井さまも陰陽師さまも素敵なのである。

 クールで礼儀正しく大人な余裕が感じられる。

 振る舞いも優雅で、さっと払った装束までもまるで薄衣のような軽やかさ。

 テレビ画面を通してさえも芳しく着物に焚きしめられたお香の香りが香ってくる。


「あぁ、飛鳥井さま、いづこにいらっしゃるの、お越しにならない時は心がはちきれそうなほど会いたくて恋しいのですよ。」


ドラマのセリフをまねてみるが、自分が声に出してみて思わず失笑してしまう。


「うふふ。平安時代は大げさだなぁ。まぁ恋焦がれる相手がこんなにも美形であれば、そりゃ彩姫も一瞬で恋に落ちるわなぁ。」


と独り言を言いつつエンディングまで来てテレビを消す。


 22時、ゆっくりとお風呂に浸かって1日の疲れを癒す。今日は薔薇の香りがする入浴剤を入れてみた。

 華やかな薔薇の香りに包まれて目を閉じればハワイあたりのリゾートにいる気分が味わえる。

 厳密にはハワイといえばハイビスカスやブーゲンビリアだが、そのようなイメージが湧くゆったりとした時間を過ごせるということが重要なのである。

 少し明日の仕事内容について段取りを考えてから、夏の旅行先についての思いを巡らす。


「そうね、関東でエステやら美容院やらネイルやらに行かないといけないしなぁ。」


 風呂場の鏡に映る自分の髪の毛や顔の疲れ具合を目の当たりにして、夏は美容にも力を入れなくてはと思い至る。


「日頃会えない友達に会う予定も入りそうだしなぁ。」


 もちろん頭の中に思い浮かぶのはミサとのコンパをしている情景である。

 夏のこの時期は知人が上京してくるからなどの理由でコンパが増える可能性が高い。いつ何時お誘いがあってもいいように万全の体制だけは敷いておかねばなるまい。


「となると関西へ遊びに行くのは3泊4日というところが妥当かしら。」


頭の中に関西の地図を思い浮かべる。3泊4日しかないのであれば、松元さんが言っていた滋賀は残念ながらグレーアウトされてしまった。


「金岡課長の薦めを採用して古都奈良を重点的に巡るべきか。」


路線図を頭の中に思い描き、どうせ京都駅経由になるのかと複数ルートを比較する。


「やはり京都1泊、奈良2泊か。京都では龍安寺を見て、奈良では興福寺や奈良公園周りと、法隆寺を回りたい。あぁ奈良国立博物館も行きたいけど、半日完全に潰れてしまうよなぁ。」


 あと密かに行きたいと思っていた秋篠寺も廻れるかなぁなどと脳内でプランを組み立てていく。

 一人旅行なのだから時間は自由に使えるが、電車の時間や夕食のプランは事前にきっちりと立てておきたい派だ。以前、ノープランで行った旅行では電車が1時間に1本しか来ず、駅で待った挙句に、食べたかった料理屋が満席で入れなかった痛い思い出がある。


「あと国宝情報もチェックしておかなくては。」


 興福寺の阿修羅像はよく出張するのである。

 以前は東京に来ていたが、その時には長蛇の列で、3時間近く並んだ挙句に頭と上の手2本までしか見えなかった。

 東京に来ていたということは、阿修羅像のホームである興福寺では阿修羅像が見られないということだ。

 確か良く海外出張もしていると東京での展示会では説明書きにあった。奈良時代に造られた仏像だが、1200年経ってもなお出張三昧とはお疲れ様なことである。

 やはり暑いのだから奈良公園へ行くのは早朝にしておこう。昼でランチのお店が混雑する前には涼しい店内へ一番乗りしたい。そしてランチを食べてからは旅館に早めに戻って、昼時の一番暑い時間帯はのんびり涼しい旅館で過ごすのがベストだろう。


「あぁ、でも柿かき氷はいつ食べようか。」


 奈良の氷室神社は氷を祀っており、それが由来となって奈良ではかき氷が名物になっているらしい。

 かき氷屋は11時頃から開店だが、それも行列ができるとテレビでやっていた。ということは、早朝に旅館を出て奈良公園周りを散歩し、朝食を取りに旅館へ戻る。再び10時頃に柿かき氷を食べに出て、そのまま昼食をいただいてから旅館でのんびり。


「うん、このプランだな。」


 23時、就寝の準備をして床に入る。以前買っていた関西のガイドブックを引っ張り出し、研究を行う。


「綿密な計画の元に素敵な旅行はなり・・・。」

ガイドブックを広げたまま深い眠りに落ちてしまった。

 かくして、かなこの日々の1日は無駄なく慌ただしく過ぎていくのである。

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