幻想

月緒 桜樹

悪魔とローズマリー

 透き通る歌が体内を駆け巡る。それは、溢れ出して空間を満たしていく。その歌は音ではなく、歌であった。


 そうして、次第に霞んでいく思考が、透明な青紫の花畑を見せた。暁時より透き通った、黄昏より清浄な青紫の大気である。

 無音の大気は、耳鳴りのしそうな密度で、綺麗に澄んでいた。


 果ての無い花畑は、丘の周りをも覆い尽くしている。ローズマリーだろうか、ふと海の匂いを知覚する。

 それで、意味も無く悲しくなった。何故なのかは、わからない。



 気づくと、すぐ目の前に美しい少年が倒れていた。いや、眠っているだけなのかもしれない。しかし不可思議なのは、全く呼吸をしていないように見えたことだった。


 少年の衣服は、異物のように映った。澄んだ花畑に影を落とすような漆黒。その上、ゆったりと身体を包むそれは酷くぼろぼろで、裾が宙に溶けそうですらある。


 そして、花を潰して、彼は仰向けに横たわっている。



 再び、歌が鳴った。無音の世界を邪魔しないように、音ではない歌で。


 その歌は、悪魔の歌であった。


 精神に直接語りかけ、浸食し、操り、狂わせる美しい歌であった。


 それで、吸い込まれるように歌の浸食する精神世界に落ちていく。

 膝が崩れ、少年の上に倒れていた。


 彼に体温は無かった。


 やはり、この少年が歌を口ずさんでいるように思えてならない。すると彼は悪魔なのだろうか――。





 美しい少年に見惚れながら、思考していた。

 つと見上げると、青紫の宙に、オブジェが浮いている。


 恐らく元は赤かったであろうそれは、だらだらと黒を流す。あたかも、血のような。



 “血”が滴った。


 刹那、真下の花が枯れたのが見えた。


 黒く、命を奪われた花は、もう二度と元に戻らない。そう直感して、心が少し痛んだ。

 毒だった。――その光景は、まさしく腐蝕であった。



 だんだんと、歌が濃くなる。

 “血”が、流れる。滴る間隔が短くなっていく。ついに水道の蛇口を捻ったように、それは絶え間無い滝に変わった。


 腐蝕。歌が世界を犯して、壊していく。

 加速。歌が痛みを伴って、狂っていく。


 どこまでも透き通った歌だったにも関わらず。




 やめさせなければ、と思った。

 しかし、意に反して動けなくなった。そこに気力が全く無かった。美しい花畑が壊されていくのは、耐えがたかったのだが――。


 歌に蝕まれて、悪魔に自分自身を操る糸インビジブル・スレッドを握られる感覚。

 そんなものは現実には無いと知っていながらも、そう表現する他無かった。この感覚は、まさしく悪魔の掌上で踊らされていると自覚したものだ。



 不意に、ふるり、と少年の睫毛が震えた。ゆっくりとそれは解けて、色の無い瞳が顕になる。

 彼は身を起こした。釣られて立ち上がり、彼を眺める。


 数秒、間が空いた。


 不自然な間の後に、かちりと、目が合った。そして、少年は笑んだ。緩慢な動作で柔らかそうな髪を掻き上げ、視線を外す。



 少年は、ひとつ瞬きをした。



 唐突に、右手を右の目に無造作に突き立てる。と同時に、伸ばされた左手が、右の瞼の裏に食い込む感覚がした。

 反射的に目を閉じようとして、ぶちっ、と視界が半分無になる。恐怖など感じる暇も無かった。


 ――ああ、世界が平面になった。そう思った。



 それが、数秒して何かのコードを繋いだように、世界は奥行きを取り戻した。


 左目に、青紫の浸食される世界。

 右目に、赤と浸食する黒の世界。


 少年は、にこりと笑う。その目はオッドアイだった。


 この視界は、彼の世界だ。その視界は段々と同化していく。否、世界が浸食されていく。



 青紫の薄い霧は、毒を含んだ瘴気に変わる。花は次々死んでいく。



 何かが千切れる音がした。どうしてか左腕や首や両目から、生温かい液体が滑り落ちていく。それがはっきりと知覚できた。


 涙も血も関係無く、全てが等しく滑り落ちていく。


 それは、ある種の平和だったのだろうか。

 何もかもが、ゆっくりと、そして平等に死んでいく世界。瘴気を深く吸い込んでみると、今ならゆっくりと死ねるような気がしてきた。

 幸福だった。



 それなのに。気づけば、引き裂かれそうな痛みが、空気を満たしていた。

 あまりにも痛くて、息が詰まる。脳が壊れたような悲鳴を鳴らし、甲高い反響が身体を硬直させる。それで身体中を駆け巡る痛みは、さらに叫びはじめ――。


 悪循環と言うより他に無かった。

 記憶が飛んでもおかしくないほどの苦痛を、こうして記録しているのが奇跡だった。




 歌はさらに広がっていく。

 左目の視界も、すっかりおぞましいものに変わり果てていた。


 そんな中で、気づいた。だんだんと意識が朦朧としてきたことに。痛みは許容量をとうに越えて、ただぐらぐらと揺さぶってくる。溺れるようだった。


 一瞬だけ見えた気がした両手は、壊死していた。黒々と、炭化したように。



 と指先が地面に落ちた。きっと落ちた指先は、この存在を証明し続けるだろう。ここに誰もいなくなったとしても。

 その存在証明は、大した問題ではなかったかもわからなかった。しかし、自分自身が存在していたことを、信じていたかったのだ。それは――。



 ――そろそろ、生きていられなくなる。

 そう、終わりを予期したからかもしれない。


 ぐらりとよろめいて、枯れたローズマリーを踏む。また潮の香りがした。この腐蝕にあっては、その海も酸と化しているのだろうか……。




 そうして歪んでいく視界の中で、少年はこの崩壊を眺めていた。微笑みすら浮かべて、見詰めていた。

 優しい、毒の無い微笑。それこそ、嘘のような。否、悪魔の微笑とは、そういうものなのか。

 ――だとしたら、悪魔の嘘は完璧だ。きっと人間には看破できまい。


 彼は、ゆらゆらと歩み寄ってくる。息のできない胸痛に、限界を見た。

 彼はついに、ゼロ距離に立った。冷たく、優しく微笑んだまま。







 そして悪魔が、囁く。


「あぁ、君は――――」


 歌声と同じ、透き通った声だった。それが悪魔の声だとは、到底思えないほどに。

 できるなら、もう少し聴いていたかっ――。




「――“thanatophobia“死”恐怖症”なんだね」




 ぐらりと身体が傾ぐ。枯れて踏みにじられたローズマリーの花弁が舞った。

 背後は崖だったらしい。


 そのまま、ローズマリーと共に、狂ってしまった海へと墜ちた。

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