名残の雪

「……良いのだ、巌流殿」


「なに!?」


なにを思ったか、それがしの口がねんごろに動き、がらにもない殊勝を唱えた。


「………………」


目をすがめて、辺りを見る。


姫や女官の哀しい姿。


旧怨をひとまず腹に仕舞い込み、こうして共闘してくれた好敵手。


あるいは、焼けるような武闘の中にしか、己の活路を見出みいだせぬ武人たち。


それらの模様に、ただただ胸を打たれる思いがしたのだ。


「“人の世”とは、まことままならぬものに御座るな?」


ゆえにこそ人の世と申す。 いかにはかなもろ徒世あだしよとて、未知の伸びしろがあるだけ、まだ救いはあろうが?」


「……あなた様は、まこと神なのですなぁ?」


それがしが万感を添えて物申すと、彼女はニヨリと笑んで返答とした。


すごみを感じさせる狂的な笑みであったが、その陰に潜む赤心せきしんを、当方の眼は断じて見逃さない。


これはもしや、まだ取り付く島があるかと早合点はやがてんしたが、すぐに落胆を喫することとなった。


一途いちずの思いを変じることは、何人なんぴとの手をもってしても難しい。


それが、長らく剣しか握ってこなかった、血塗ちまみれの手掌であれば尚更だ。


しかし、一身をした直訴じきそであれば、少なからず光明こうみょうはあるかも知れない。


「お願い申す。 伏して願いたてまつる」


「申してみよ。 聞く耳は持たんが」


「どうか、人をお救いくだされ」


「なに?」


「世を恨みかこつ心は捨てがたくとも、必ず真心はあるはず」


「真心? 今さら真心とかすか?」


「左様。 凶行の陰にも必ずや」


「ならばくが、その真心の篇什へんじゅうが、ひとえに憎悪であったら何とする?」


「このに及んで、空言そらごとはお控え召されよ!」


「空言では無い!!」


にわかにほとばしった極上の冷気が、当方の唇に霜を降らせた。


しかし、なけなしの口八丁を止めるにはあたわず。


「一寸の虫にも魂はある。 これをみ取ることが、果たして神の所行しょぎょうと言えるか!?」


たわけたことを! 生命を守るは神の手にあらず! 一様等価いちようとうかの生命同士がすべきことよ!!」


「それは……っ」


「だがどうだ!? いやしい彼奴原きゃつばらめは、長らく怠慢たいまんに怠慢を重ね、他者を見限った!」


「それは……、それは、仕様があるまいよ。 かつては皆々、己のことだけで精一杯だった」


「な!? 言い訳を…っ、言い訳をするな!!」


「あなたは如何いかに!? あなたのそれも、大いに強弁ではないか!」


「なにィ!?」


「この世の中に、もはや人間ひとらず。 もはや……、最早もはや、あなた様の怨敵は……!」


「言うな!!!」


「ならば! あなたは言い訳を探しておるに過ぎぬ!!」


「嫌だ! 言うな言うな!!!」


「どうにかして恨みをぶつける相手を、凶行の理由如何りゆういかんと共に、探しておるに過ぎぬではないか!!!」


「だまれ下郎!!!」


彼女が発した渾身こんしんの怒号に打たれ、老剣士が必死にとどめていた長剣が、矢のように疾走した。


すぐ耳元で、嫌な音が鳴るのを聞いた。


痛みはない。


嘘だ。


意識をとがらせると、骨をねじられるような疼痛とうつうが、渾渾こんこんと湧いてくる。


若い頃、かの合戦の折りも、身体からだ方方ほうぼうを突かれたが、これほど深く傷つけられたのは初めてだ。


もはや身がたん。


「ははは!! 死ぬがいい! 存分に苦悶して──」


「武蔵!!! 死ぬな阿呆! まだ死ぬることは許さんぞ!?」


狂笑の陰にも埋もれぬ、好敵手の叱咤を聞いた。


影絵に等しいそれがしを、その名で呼んでくれるのか。


だが済まぬ。


貴公との決着は、もはや


すげえ! マジかこりゃ!?」


瞬間、一際ひときわかがやかしい歓呼かんこの声が上がった。


それに続き、かたくなな氷に覆われた川路が、火氈かせんのように燃え上がった。


「たまにはと地獄くにを出てきてみたが、なるほど現世こっちも大差ねぇな」


「ぅ……?」


朦朧もうろうとした目線を向けると、無量の火焔をその身にたのんだ勇夫ゆうふが、霜降る川原に壮大なかがりを焚いている。


それはまさしく畏怖の象徴。


せいある者に人道を説き、生なき者に酷烈な因果を知らしめる、焔摩王そのものだった。

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