剣聖の道々


気が付くと、彼は屋内にいた。


辺りには種々の物品が散らばっており、かすかに焦げくさい臭気が漂っている。


当の品々から察するに、恐らくは電気屋。 決して大きな規模ではなく、親族経営をよしとする町の電気屋さんといった所か。


「ぬ……」


このように幼気いたいけな店屋を、自分の五体が手酷く荒らしてしまったのかと思うと、途端に呵責かしゃくが湧いた。


本日は定休日なのか、幸いにも人の気配は無い。


ふと右手を見ると、刀身のなかばを欠いた差料さしりょうが、恥を忍ぶようにして静居している。


ここまで、まことにく働いてくれたものだと、言葉には尽くせぬ万謝が湧いた。


かつて、将軍家の指南役に請われた“彼”は、先の関ヶ原における東西荷担の違格いきゃくによって、これを土壇場で反故ほごにされた。


もっともだ。


時の幕府にとって、一度でも大坂方にくみした者は、何よりもけぶたいもの。


如何いかに品行が正しかろうと、そういった物騒なやからを、殿中へ引き上げる訳にはゆかぬのが道理。


ともすると、かの兵法家がその折りに抱いた悔しい心の内は、察するに余りある。


もっとも、この頃の彼というのは、あと数年の後に、言わずと知れた巌流がんりゅうと、一世一代の勝負を控える身の上である。


つまりは、その剣名も未だに中の上。


この後に、さらなる紆余曲折を経て、天下武双の剣聖と語り継がれる彼の道々を思えば、当の一件は、大事の前の小事と言えなくもない。


れども、当節の彼は、現在を生き抜くことで精一杯だった。


大望がついえ、城を去る後ろ姿が、あまりにも物悲しかったのだろう。


指南役に推挙を戴いた老中格の御仁が、ささやかな餞別せんべつにと、この名剣を下された。


とは言え、みじめなことに変わりはない。


ちょうど、他愛のないわっぱが、飴玉の一つで買収されるのによく似ている。


これが仮にも、世間にあぶれるの道具であれば、その場で突き返すことも叶ったろう。


れど悲しいかな、一剣に明日を託す若者にとって、この格別の兵具ひょうぐは、甘美な飴玉にも等しい破格の頂戴物だったのである。


“それにしても”と気を回し、すっかりとやつればんだ愛刀を、目の高さまで引き上げる。


これほどの名剣ですら、折れる時には折れるものか。


となると、戦場でいつまでも命脈を保つ兵具など、夢のまた夢。


やはり、費用対効果を考えても、木剣こそが至高ということか。


そういえば、かの御仁はどうなさったろう。 変わらず壮健でおられるものか。


いとまの折り、果たしてかの御仁は、“彼”が襖紙ふすまがみに記した天日てんじつの絵図を見て、何を思ったのだろう。


かの兵法家の行く末に、掛かる暗雲なしと見抜いたか。


それともほのおのような烈日れつじつに、心胆しんたんを凍えさせたか。 あるいは心を燃やしたか。


そういった打付うちつけ心の結晶が、当の安綱やすつな、古今きっての名剣となって、それがしの手に渡った。


「いつまで寝ておるのか?」


出し抜けに、情味を欠いた呼び声がした。


目線を移すと、大きく破れた店屋の間口に、かの荒神が忽然と立っている。


果たして、そのかたわらには武官のなりをした少女が従っており、揃いも揃って、こちらを冷えた目で見据えていた。

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