第14話ぶちまける
なぜか、私の口は自然とその言葉を選んだ。
「……何かな? お姉さんに何か用?」
力なく振り向いた私は、あの時と同じ表情が出来ているのだろうか。このセリフを吐いたことになんの意味があるのか、自分でもわからない。
黙りこくった悠は泥を蹴りながら進む。穴を挟んで私の前に膝を着くことで、ようやくぼんやりと表情がわかる。
傘もささず、ずぶ濡れのまま闇の中に座る二人はお互いを見つめ続けた。
「あの、話……聞いてください」
彼は変わった。弱さを克服したのか、決意を固めたのか、その目に揺らぎはなく、しっかりと私の目を見つめて言葉を届けてきた。
そんな目で見ないで……心が波立つ。
「言ったよね、別れたいって。だって……」
「僕のことがわからない。ですよね?」
「……っ!」
あまりにも確信を付いたその一言は、壊れたはずの私の感情を掴み、再び組み立てようとしていた。
なんでわかった。一度だってそれに触れたことはないのに。色んな理由を付けて、私自身が目を背けていたことなのに。
……だけど、わかったからって何になる。
顔をあげた彼は強い意志を、向き合う私は冷えきった影を。真逆の熱量が視線に乗って交差する。
「そうだとしても、今さら……浮気だって」
「……構いません」
「そんな」
「美春さんが駆け出したあの日、僕は後悔したんです」
「…………」
「わかっていました。美春さんが、好きって言って欲しかったことも、僕のことを知りたかったことも、全部…………」
「…………」
「きちんと向き合う勇気がなかった……だから……また泣かせてしまった」
割り切ったはずの気持ちがゆりかごのように淡く揺らぐ。彼の言葉は毒だ。私はいつだって、彼のたった一言に酷く動かされ続けてきた。
「もう間に合わないかもしれない。そうなって、初めて怖くなりました。美春さんを失うことが怖くて、不安で、どうすればいいのかもう冷静ではいられないんです」
絞り出すように、彼は喉を動かす。
やめてくれ。
やっと、やっと戻ったのに、元の自分、元の居場所に帰ってきたのに、この男はまた手を差し伸べようとしてくる。見せたことのない本音を、こんな場面で晒そうとしている。
でも、遅いんだ。もうそこへは戻らないんだ。そう……決めたんだ。
「なんで、私なの。こんな、壊れてる女のどこがいいの。他に良い人なんていくらでもいるじゃない」
「美春さんじゃなくちゃ、駄目なんです」
「だから、なんで?」
ずっと言いたかった言葉をようやくぶつける。受け入れられなくていい、そう思って初めて本音を吐き出せた。
もう認めよう。
この人を信じたかったこと。
この人だから理解して欲しかったこと。
生半可な言葉はいらない。半端な決意はいらない。これは最初で最後の喧嘩なんだ。
「少し、聞いてください」
「……ん」
「僕は、他人の感情がわかるんです。表情、息遣い、瞬き、仕草、色んな動きから読み取れるんです。馬鹿な話かも知れませんが、本当に、わかり過ぎるほど……」
「…………」
「人が信じられません。他人どころか家族でさえ……みんな、悪気もなく簡単に嘘をつく。だから、人が大嫌いなんです」
「……だから、なに?」
「…………」
「悪いけど、私は嘘つきなの。たぶん、あなたが今まで出会ってきた人の中でも特に。悪気もないよ。自分の事しか考えてないから」
「知ってます」
話が繋がらない。ならなぜ、私でなくてはいけないんだ。大嫌いだと、自分で言ったんじゃないか。
別に怒りはしない。呆れもしない。彼は彼なりの考えで納得しているのだろう。私にはわからないそれを、いま話そうとしているのだから。
痛みを堪えるように薄く微笑む悠を見て、思わず息を呑む。心臓を、少し小突かれた。
「この穴に叫ぶあなたは怪しくて格好悪くて、それなのに、どこか綺麗でした」
「…………」
「心を取り出したように全部吐き出す姿は、普段どれほどの嘘をつき続けているのかわからないほど、真っ白で純粋に見えたんです」
「……ずいぶん、前向きな意見ね」
「そうですね。だから、ただの興味だったのかもしれません。話しかけてしまったのは」
時折、悠は目を拭った。雨なのか、涙なのか、何を示しているのか私にはわからない。
ただ、少しずつ胸が熱くなる。
「話して、見続けて、付き合って……。いつの間にか信じきっていたんです。この人は【大嫌いな人】じゃないって」
「そんな、だって……っ」
「気付いてました? 美春さん、嘘つきなあなたが、僕に嘘をついたことは一度もないんです」
そう、だね。
嘘はついてない。いつだって本気で、本音だった。だから、別れたいも本当。もういらないと言ったのも……本当。
それもわかっているってことだよね?
「本当に別れたかったんですよね」
「うん、別れたい……」
これが答えだ。食い違いはないと証明された。言い訳も出来ないほどに。
なのに、彼は笑う。目を引くほど美しく、そして、全てを包み込むように。
視界に、色が戻る。
「始めに言いました。聞いてくださいと」
「…………」
「知らないから怖い。なら知ってもらえば良かった。こうして話して。こんなに簡単なことを今までしてこなかった僕は馬鹿ですね」
突然、彼の笑顔が揺らぐ。悲しみに、寂しさに。そんな彼を見ていたくなかった。見ていられなかった。
無意識に、私の口は勝手に動きはじめる。
「馬鹿なんかじゃっ、私の方が……!」
そんな目をしないで。
「あなたはすごい人なの。こんな私を受け入れて!」
馬鹿にしないで。
「頑張ってくれたの、私のために全力だった。背伸びして、近くにいる努力をしてた!」
私の好きな人を、馬鹿にしないで!
「落ち込んだら慰めてくれて、嬉しい時は一緒に喜んでくれて! そんなの、誰でも出来ることじゃないの! だから私はっ!!」
私は……。
彼は手を伸ばして私の頬を拭う。雨に紛れた本音の雫を優しく受け止めた。
そうだ、嫌いだなんて思ってない。好きだからこそ怖いのだ。大好きだから裏切られたくない。離れられたくない。だから、こっちから離れようとした。私は卑怯者なんだ。
それすら、彼はわかっている。
そうでしょ。悠。
「ありがとうございます。これで最後なので、聞いてくれますか?」
「…………」
二人は裸だ。心をさらけ出して、手の届くところにある『穴』を使わなくても、お互いをぶつけ合っている。
だから、彼の言おうとしている言葉を待った。わかっているけど、わかってしまったけど、私は待っている。
彼の声が、届けてくれることを。
雨音が消え、彼の音だけが聞こえた。
「美春さん。結婚しましょう」
私、もう幸せになってもいいのかな。
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