第11話再生
頭が痛い。昨日散々喚き散らしたからだ。
「あー」
会社のトイレで、乾いた手をいつまでも拭きながら声を出してみる。掠れた声は元に戻ってきた気がする。月に一度だけど、よく叫んでいたお陰だろうか。
ただ、違和感はまだ続いている。痰のような気持ち悪い粘膜が心に張り付いている気がして、いっそ身体から取り出して焼却炉にぶち込んでやりたい。
冷静ではあるけど、正常ではない。
それを受け入れてようやく私は私に戻る糸口を掴める。
「はぁ……散財でもしてみる?」
鏡の私は笑わない。納得はしていないようだ。それもそうか。欲しいものなんて無いし、行きたい場所なんてないのだから。
携帯のアラームが鳴って、休憩の終わりを告げる。あと数時間働けば仕事が終わる。いつも待ち遠しく感じていたのに、今はいつまでも続けばいいと考えてしまう。
仕事をしていれば、何も考えなくて済むから。
そんな都合の良い話もなく、私は大人しく自分の部署に戻った。
仕事中も考えて考えて、結局行き着いたのは酒。どうせならと行ったこともない高そうなバーに入るくらいしか思いつかないのだ。脳も死んでいるらしく、寂しさも悲しさもなく、ただ空っぽなのだ。
薄暗い店内には、ポツポツと人影が見える程度で、カウンターとバーテンダー以外はモザイクが掛かっているように怪しい空間が広がっていた。
ひとまずカウンターの端っこの椅子に腰掛け、小さくライトアップされたメニューを眺める。酒を呑みたいと思うことはあれど、あまり詳しくないので何が何なのかイマイチわからない。
いちいち想像するのも面倒になり、近くに座っていた一人の男に声を掛ける。
「お兄さん」
「はい?」
「二十度くらいで流行ってるのある?」
「え〜今だと、コカレロボムかな。コカレロはショットグラスだけど、これは専用グラスが可愛いと人気らしいよ」
「甘い?」
「甘いね。色合いも綺麗だよ」
「じゃあそれにしよ。すみませーん」
決めるや否やすぐさま注文。他のドリンクを作っていたバーテンダーは片手を上げて笑顔で頷く。
胡散臭そうだなと心で悪態をついていると、先程の男が興味深そうに話しかけてきた。
「お姉さんお独り?」
「そうだけど、悪い?」
「いえ、最近はこの店もカップルばかりになってきたので、一人の方を見ると嬉しくてね」
その男は本当に嬉しそうに笑う。あぁ、そっか。こういうところで話しかけたら会話始まっちゃうのか。
これも醍醐味かと納得して、しばらくその男と雑談をすることにした。どうやら、水商売のお偉いさんらしく、私より一回りも歳上だった。よく見ると、ネクタイから靴までブランド物ばかりで、歩くだけで何百何千万の装備をしている。
話していると、あっという間に時間が経った。さすが、夜の人は会話が上手い。気がつけば目の前には例のコカレロボムが置かれていた。
「お待たせしました」
「へ〜、可愛いし綺麗ね」
小さな瓢箪のようなグラスに、黄緑と黄金の色層。置物のような光沢を放つそれは、とてもお酒のようには見えない。
男に説明された通り、ショット系と同じく一気に飲み干す。アルコールのツンとくる感覚が一瞬通り過ぎると、後から慣れ親しんだ甘みが広がった。
「んっ、レッドブル!」
「正解。コカレロとレッドブルだよ」
「私レッドブル好きなんだ! 美味しい!」
「それは良かった。でも軽いからって飲み過ぎは注意しなよ?」
好きなお酒も見つかり、酒好きのお喋りな話し相手も横にいたせいで、私は次々と注文を重ねていった。
明らかに飲み過ぎ。強くもないくせに、ペースを間違えた。いや、間違えたかったのかもしれない。トイレに立ち上がった時には、地面がスポンジのようになっていた。
「へへっ、楽しい〜」
「お姉さん大丈夫? ほら掴まって」
「お兄さんやーさーしーいー♪」
「コラコラ、静かにしないと」
「じゃあさぁ」
このお兄さんでいいや。
なんか良い人。
だって私。
すごく熱い。
「静かにしなくていい場所、いこ?」
「………………」
あ、いま反応した。やっぱり男は男だね。
紳士ぶっても、わかるよ。
私、女だから。
「お姉さん。意味は、わかってるよね?」
「もちろんだよ」
「後悔するなよ」
誰にも見えないように、彼の手は私の湿った下着をなぞった。
気がつけば会計は終わっていて、私は抱えられるように店を出た。どれだけ歩いたのか、どこを見ていたのか覚えていない。ずっと良い匂いがしていて、その人の身体が温かくて、そればかりに気が取られていた。
華やかな怪しい建物の前に立ったとき、私は思い出したように彼を見上げた。
「私、彼氏がいるの……」
「そう」
「だから、だからさ」
黒いモヤが心臓を隠す。
今日、私は返り咲く。
「ちゃんと、ナマでしてね?」
この後の事は鮮明に覚えている。
元カレに負けないくらい最低で無責任な関係は、私を完全に引き戻してくれた。
男には感謝している。休みの日を全部壊してくれて。幸せな私を全部焼き払ってくれて。
お腹に残る沢山の背徳感が私を震わせた。
あぁ、最高。
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