第51話 幸福のバランス
「キミの弟は――」
博士がそう口にするや否や、大臣がそれを制した。
「博士。その話はもう一人聞かせたい者がいる。
「そうか……ではその前提となる話をしようか」
「前提……?」
「ああ。無論、それはとても重要な話だ。この世の真理とも言える。そしてそれは同時に、私の研究の集大成でもある」
そう言うと博士はコーヒーを一口
「キミは現世でいくつか、不幸な出来事に遭わなかったか? それも人並み外れた不自然なレベルで、理不尽なクラスのやつだ」
「えっ!? ど、どうしてそれを?」
「うむ。やはり私の仮説通りだ」
すると博士はペンのキャップを外し、何やら壁に向かって何かを書き始めた。
「この世界は……簡単に言うと、光と闇で出来ている。そしてそれは生と死という解釈も出来るし、有と無という解釈も出来る。男と女と言ってもいい。つまり、全ては二つの相反する要素で成り立っているのだ。キミはこの考え方を知っているかな?」
キュッキュッと音を鳴らしながら、博士が壁に書いたその絵は、どこかで見た事のあるマークだった。
「これは陰と陽の関係を表す記号であり、シンボルであり、象徴である。名は
その絵は一つの円が、勾玉のような形で綺麗に二つに別れており、一つは真っ白で黒い点を持ち、もう一つは真っ黒で白い点を持っていた。
「白と黒。光と闇。ポジティブとネガティブ。つまり、これは
なんとなく分かる。光あるところには必ず、闇もあると言うやつだろう。
「もとより、この宇宙は無だった。しかしそれはやがて、有となった。それはある点が膨張を始めたことによって、世界が始まったのだ。その宇宙の総質量は膨張しても変化することはなく、輪廻し、そして巡りめぐった」
博士は再びコーヒーを口にした。
横に座っている大臣はウトウトとし始めていた。助手は熱心にメモを取っている。
とても難しい話だ。だが理解できなくもない。そんな風に考えながら、僕もコーヒーを
「その円環はメビウスの輪であり、ウロボロスであり、クラインの壺でもあるのだ。生まれゆくものはいつしか死に、それは灰となり塵となり、やがて無に還る。しかしそれはまた、生あるものの糧となり、生を繋ぎ、命を生む。つまり有は無となり、有に継承され、新たな有を生むのだ」
僕にはどうやら、少し難しい話のようだ。
首を傾げて考えた表情をしていると、博士は物憂げな表情をして、遠くを見つめながら続けた。
「かつて私は単なる検体だった。当時の私の飼い主は、私を用い、ある実験を行った――それは私がシュレディンガーの猫と呼ばれるようになった、きっかけでもある」
僕はシュレディンガーの猫の話は聞いた事があった。確か量子力学だったと思う。
しかし僕が聞いた話は、あくまでも『思考実験』と言われており、それは頭の中で想像するだけの実験である。実際に行ったという話は聞いたことがない。
その思考実験は、蓋つきの箱の中に『猫』と『1時間以内に50%の確率で崩壊する放射性原子』と『原子の崩壊を検出すると青酸ガスを発生させる装置』を入れた場合、1時間後には『生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なり合った状態の猫』という不可思議な存在が出てくるのではないか。という内容だ。
猫好きからするとそもそもが残酷な話なのだが、常識からするとその状態は『あり得ない状態』なのだが、確認のしようがないため『絶対に存在しない状態』とは断定できないというところにある。
つまりこの思考実験は『どう解釈するか』というところに論点があり、実際に実験行い、その結果がどうこう。というわけではない。
僕はそのように認識していた。そう、僕は空想の話だと認識していたのだ。
博士は、顎をさすりながら話を続けた。
「私はその時、私自身が死んでいるのか、それとも生きているのか、正確に判断出来なくなった。それは飼い主であった彼の仮説のとおりでもあった。あの時の私は、死んでもいなかったし、生きてもいなかったとも言える。そしてそれは、死んでもいたし、生きてもいた」
『とても曖昧な状態』ということなのだろうか。それをそもそも自分で判断できなくなる状態というのも実に不思議なものだが、状況によっては、その時の彼は正確な判断が出来なくなるほどに
生と死の境界の話なのだろうか。僕は博士の話を食い入るように聞き入った。
「その時、その箱の中で私は悟ったのだ。生きていると認識すれば、それは生きている。そうではないと認識すれば、死と同義なのだと」
「確かに。例え生きていたとしても、何も考えず何もしなければ、それは死んでいるのと同じようなもんだね」
日々が充実していると感じていれば生を感じ、そうでなければ死んでいるのと同じだと感じる。
僕は僕がここに来る以前の、自殺未遂を繰り返していたあの時、博士の話と同じようなことを考えていたと思う。
「そう、その通りだ」
博士は頷いた。そしてまたコーヒーを口にし、続ける。
「ジャン=ポール・サルトルは言った――
「とても深い言葉ですね。なんかここんところにこう、刺さるみたいな」
僕はそう言って、自分の心臓の位置をさする様にして言った。
「ははは、それはきっとキミだけではない。猫である私もそうだった」
博士は笑顔でそう言うと、コーヒーを飲み干しカップを空にした。
「数学や哲学にはゼロという無の概念があるだろう? この空のカップの中のコーヒーのように、それは『無という状態が有る』という概念から生まれた」
僕は博士のカップに、おかわりのコーヒーを注ぎ入れた。
博士は口角を上げ、嬉しそうにまたそのコーヒーに口をつけた。
一息ついた様子で博士は話を続けた。
「仏教では、ヒトは
すると博士はカップを置き、壁に描いた絵を指し言った。
「私はそこからあるものを着想したのだ。それはこの輪廻の中で無を有に変換し循環させるシステムであり、それは不幸の残骸を幸福の機会に還元し、そして等しく分配する――幸福バランサーというものを」
「幸福バランサー……?」
「ああ。戦争や貧困、飢餓や病気など、今でももちろんそれは無くなってはいない。だが当時の現世はそれはもう、今よりとても酷く、比較にならないほどだった。先代の王はそれに嘆き、ヒトがみな等しく幸せと感じられる世界にしたいという、なんとも無謀で大それた願いを、この研究施設の建築を交換条件にし、私に託したのだ」
博士はポリポリと頭を掻きながら言った。
「私はさほどキミたちヒトに思い入れはなかったのだが、しかし研究は嫌いではないからな……」
その目的と理由については、なんとなく納得した。
しかし人々の幸福のバランスを取るなんて、果たしてそんなことが可能なのだろうか。
その仕組みはどんなものなのか、ひとまずそれは置いておいたとしても……どうしても僕にはそれが腑に落ちなかった。そしてその思いの丈を博士にぶつけた。
「そんなものがあるなら! じゃあどうして僕は!? どうして僕には……いくつもいくつも不幸が……どうしてなんだ……」
そうして僕はぎゅっと拳を固く握り締め、ばらばらになってしまった家族を思い出したのだった。
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