第9話 猫に九生あり
「さて、もうあと数時間ほどで到着のようだ」
猫の紳士の言葉を聞いて、僕は前方に目を凝らしてみた。
まだかなり遠くだが、うっすらと岸が見えていた。
この三途の川での長い舟の旅で、随分と埋もれてしまっていた古い記憶を、深い深い土の中から偶然掘り起こしたような気がした。
猫の紳士が言うように、この三途の川には不思議な力があるようだ。
生前の記憶に憂いたり、死を嘆き悔いたり……それはきっと思い思いの心の整理と準備を死者の国へ入国する前に行わせるためなのだろう。
猫の紳士はスーツのポッケから年季の入った懐中時計のような小さな機械を取り出し、それが示しているなにかを見て少し慌てているようだった。
「そろそろ境界を超える地点まで来ているはずなのだが……おかしい」
猫の紳士はしきりにその機械の
「いったいなにがあったんだ?」
「ううむ、なんとも言いにくいのだが……。君はもしかするとそう簡単に死者の国へ入国出来ないかもしれない。」
「えっ……?」
なんだよ……結局こんなとこですら、僕には不幸が舞い込むのか。
いやいや、現世だけでなく死者の国までもが僕を拒絶するなんて、そんな最悪な不幸があってたまるか。
「君の認証コードがそろそろ本部から届いてもおかしくない時間なのだがな……」
「認証コード……?」
「うむ。入国の際に必要になる個人番号のようなものだ。現世で死者として認定されると自動的に本部からこの受信機に送信されるようになっている」
「それ、……結構まずいの?」
「ああ、とっても」
猫の紳士は両手を広げ、お手上げのしぐさをした。
「僕はどうなってしまうの?」
「わからない。だがシステム上おそらく強制的に地獄行きになるだろう。疑わしきは罰せよ、というやつだ」
僕はその猫の紳士の理不尽な返答に少し気分が動転した。
「君は一等の水先案内人なんだろ⁉ 今までこういうトラブルはなかったの?」
「わたしのこれまでの
猫の紳士の深く考える仕草をした。
「4つの命? ……それってどういうこと? 君は既に4回の人生を生きたってこと?」
とても聞き捨てならない。
猫はそんなにいっぱい命を持っているなんて、実に不公平な話じゃないか。
「君は『猫に九生あり』という有名な言葉を知らないのか? 猫はみな9つの命を持っている。わたしはその9生のうち既に4命をまっとうしているのだ」
猫の紳士は少し得意げな顔をしていた。
「知らないよ! 聞いたこともない! そんなことよりどうにかならないのか!?」
「調査をする必要はあるだろうが、猫は基本的にめんどう事は好まない。だからこういう場合は、安易に不安要素は受け入れまいと、大体地獄送りになってしまう」
少し投げやりで、優しさのカケラも感じさせない淡々とした猫の紳士の言葉で、僕の気持ちは、大きく振りぬいた炭酸ボトルのように吹き出しそうだった。
このままよく分からず地獄行きなんて、たまったもんじゃない。
「君より上の偉いやつを呼んでよ! 他にすごい案内人はいないのか!? ほら、4つの命じゃなく9つ全部の命を生きたやつとか!」
「待ちたまえ。9生を持つからと言って、猫の命を軽んじられては困る!」
どうやら僕は、踏んではいけない地雷を踏んでしまったようだ。
「時には胸が破裂するほど苦しい今生の別れを……、時には泥をなめるほど
「……出来ないよ、……そんなの」
「わたしは君たちヒトとは違い、このような猫の姿かたちをしている……。しかし君がたった一つの人生を歩んできたのに対し、わたしは既に4つの命をまっとうしてきたのだ。そして王より伯爵の爵位をうけ賜った一等の水先人。契約社員とはいえ、わたしにもそれなりのプライドはある」
そう猫の紳士は言い放ち、少しふんふんと鼻息を荒くさせていた。
「しかし……少し横柄な態度をとったことは詫びよう。すまない……。しかし安心するのだ。このわたしは簡単に
猫の紳士は頑張ってカッコよく振舞っていたが、どうも僕には少し頼りなく見えた。
舟は進路を変えることもなく直進を続け、もう向こう岸の様子がはっきりと見えてくる頃だった。
僕はこの先の死者の国でどうなるのか、もしかすると地獄行きになってしまうだろうのか……。
急に不安になり暗雲が立ち込めた気分になったが、しかしきっとそれでも、現世で味わった不運や不幸によって引き起こされた苦痛や絶望に比べたら――。
僕は諦めにも似た、そんな気持ちにさえなったのだった。
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