第4話 突然の死
「おにーちゃん! 早く起きて!!」
朝の恒例の儀式が始まった。
騒音とも言える大音量の音楽をスマホで鳴らしながら、どかどかと音を立てて階段を駆け上がる制服姿の妹は、兄である僕の部屋に遠慮もなくずかずかと勝手に入っては、ちょっとやそっとじゃ起きない僕が包まれている布団を、
それはまるで嵐のように。
2年前の弟の死去をきっかけにして、父と母はあっという間に離婚した。
母が実家へ出て行ったその次の日から、朝食は今年17歳になる妹が担当していた。
自殺未遂を何度となく続けた不甲斐ない兄の僕を、いくらか気遣ってなのだろう。
今朝の妹お手製の朝食は、僕好みの固さに熱が通された黄身がうるると柔らかめの目玉焼きと、お徳用のピンクのウィンナー。色とりどりの野菜で飾られたサラダが食卓に並んでいた。
料理がとても上手だった今は亡き優しい弟の影響もあってか、妹の料理は昔に比べて随分と上達していた。というより正直なところ、妹の料理はかなりうまい。
「パン? ご飯? どっちにする?」
少し急かすように問いただす妹は、部活の朝練ってやつの時間が差し迫っているんだろう。
「いいよ、ありがと。あとは自分でするよ。いってらっしゃい」
僕の返答もそこそこに、妹は紺色の通学バッグを抱え玄関を駆け出した。
僕は寝ぐせのついたままのパジャマ姿で、へその辺りをぽりぽり掻きながら、玄関先で妹のうしろ姿を見送るというのが、最近の日課になっていた。
父は現在の仕事の多忙さゆえ、家に帰ってくるのは月に1、2度くらいだった。
その数少ない父の帰宅も、僕らが寝静まった後であり、またその早朝には僕らを起こさないようにそっと出ていくといった具合で、僕らと顔を合わせる機会はごく稀になっていた。
しかしその父も今月に入ってから月末の今日まで、とうとうまったく帰宅しなくなっていた。
弟の死と両親の離婚によって僕らの家は、家族が集う温かい場所という存在理由を失い、まるで動力を亡くした無機質な廃墟のようになっていた。
2年前の出来事とはいえ、弟の存在を失なったその空間はあまりにも空虚で、時間の経過と共に少しは薄れゆくはずだろう喪失感は、残酷にも色褪せることはなく、無情なほどいとも
弟の葬儀が落ち着き始めたあの頃、僕はなんとか都内の小さい会社から内定をもらうことができ、無事大学を卒業することが出来た。
両親の離婚と妹の高校進学、さらに僕の社会人生活の始まりという、ドミノ倒しのように環境の変化が重なり、気を抜くと日常という歯車から振り落とされそうなほど目まぐるしく、それは弟の死を
大学卒業直後の僕は、もともと離婚前から仕事で不在の多かった父のこともあり、高校へ進学したばかりの妹が、家で一人というのは何かと
――もしも僕が弟のようにこの世から居なくなってしまったら、妹はこの広い家にたったひとりになってしまう――。
妹は僕がどこか遠くに行ってしまわないか不安に思っている節があり、生への執着が薄れていた僕という風船の糸を、まるで離すものかとぎゅっと握って離さないようにして僕と接しているようだった。
妹との生活を通してそれがひしひしと感じられ、不運に苦しむ日々に嘆きながらも妹を同じような目に合わせまいと願うようになり、いつしか僕が抱いていた死への熱望も次第に冷めていた。
だから僕は約一年前の48回目の自殺未遂以降、49回目の自殺計画を遂行することはしなかった。
自殺はしばし休戦。僕は死という選択肢を押し入れのずっと奥にしまいこんだ。
それからというもの、僕は決まって満員電車に揺られて、変わらない時刻に出社し、誰にでもこなせるような仕事をだらだらとこなし、変わらない時刻に退社するという、無理に頑張りすぎない惰性な毎日を送っていた。
しかしその日は、いつもの日常と明らかに違っていた。
僕はいつもと同じように妹を玄関で見送った後、身支度を済ませ会社に向かおうと玄関を出ると、そこには真っ黒な猫がまるで僕を迎えに来たように凛とした佇まいで立っていた。
その黒猫はこの世のものとは思えないほど、美しいラムネ色のガラス玉のような眼でじっと僕を見つめていた。
それは何かをそっと語りかけるような……。
まるでどこか別の世界へ連れて行ってくれるかのような……。
黒猫の澄んだ眼は、僕をそんな不思議な気持ちにさせた。
そして黒猫は会社に向かうための道のりを知っているのか、僕の少し前をとことこと歩いていた。
黒猫と共に信号の手前に差し掛かった時、ふいにゾクゾクと感じる不幸の空気と、呪いのようにまとわりつく不運の気配がした。
その瞬間、弟が僕の目の前で車に跳ねられてひしゃげる映像がフラッシュバックした。そう、あの時の事故の瞬間だ。
はっとした時には既に黒猫は、その時の弟と同じように赤信号にもかかわらず道路をとことこ横断しはじめていた。
僕は
うん、今度はちゃんと助けることが出来た……。
しかし僕のほっとした気持ちとは裏腹に、黒猫はぎょっとして体をよじり僕の腕をするりとすり抜け、車道の向こう側にとっとこ走り去っていった。
まるで悪魔を思い起こさせるその黒い猫は、ラムネ色のガラス玉のような眼をきょとんとさせて、反対側の車道の淵でじっとこっちを見つめていた。
突然、女性の叫び声と大型車の唸るようなブレーキ音がして、とてつもない衝撃と共に僕の体は跳ね飛ばされていた。
ぐるりと宙に舞う僕が最後に見た景色には、よく晴れた青い空が広がっていた。
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