ガラス玉の幸福論

須和部めび

第1話 渡し舟と猫の紳士

 ――最後に見た風景。

 それは、こちらを見つめるラムネ色のとても爽やかな眼を持つ黒い悪魔と、雲一つないよく晴れた青い空だった――。




 ――指先に触れる、キンと刺すような感覚。

 その冷たさに僕は失っていた意識を取り戻し、身体を起こす。


 霧のようにもやがかかる、どこまでも続く暗闇。

 そのひんやりとして湿気を帯びた空気を、僕は肺に思い切り吸い込む。


 ここは一体――。


 僕の動きに反して、ゆらゆらと地面が揺れる。

 地についたはずの手は、土でもコンクリでもないざらついた木目の感触。

 気を抜けばトゲが刺さりそうなほど、ところどころささくれが出ている。


 これは舟か――。


 自分を乗せたそれの形を、触って確かめる僕。

 どうやら年代物の木製の舟のようだ。


 ランタンのうっすらとした明かりだけが照らす中、僕は目を凝らして周囲を見渡す。

 しかし岸らしき、陸地は見えない。

 それはまるで広大な海のようにも思えた。

 だが、わずかに流れを感じる。


 とても大きい。これは――川?



「君。気が付いたか?」


 その声の主は、ふさふさの金色のようにも見える浅い茶色の毛が覆う顔。

 少しキザな面持ちで僕を見つめるその二つまなこは、若葉色のようにも見える、とても淡くて美しい黄色がきらめいていた。

 それ・・は白のスーツに身を纏い、まるで人間のように立っていた。

 小脇に抱えている真っ白なシルクハットは、スーツと合わせてあつらえたのだろうか。

 左右にピンと伸びた髭をいじっているその姿は、まるで紳士のようだった。


 ――どうみても猫。

 そして猫が、二本足で立っている。


 人間の言葉を話す、得体の知れない猫。

 僕はその不思議な状況に、少し戸惑い考える。


 ああ、そうか。これは夢なのか――。


 夢ならば。と思い、特に僕はその猫の問いかけに答えることもせず、プイっと周りの様子を伺う。

 よく見ると舟の前方にはもう一人、人間の男が乗っていた。

 その男は舟棹ふなざおを水底に突き刺し、それを突っ張っては舟を操っている。

 上質なスーツの猫の紳士の風貌ふうぼうとは対称的に、薄汚れた大きなのローブで身をまとい、その男の顔はよく見えない。

 舟を操るその男は、猫の紳士と僕の会話にはまったく興味がないのか、こちらも見ずにただひたすら舟を前進させている。

 視界が悪くて舟がどの方向に進んでいるのか、僕にはよく分からない。

 だがその男は何かを確信しているように、その方角を目指していた。



 僕はふと後頭部に痛みを感じ、手でなでる様にそこを確認する。

 よく分からない痛みに恐怖を感じ、僕は自分の置かれている現在の状況について頭の中の整理を開始する。


 ――まずは冷静になろう。

 僕はふぅっと息をつく。

 さっきまで何してたんだっけ。

 これが夢なら僕は居眠り中なのだろうか。

 確か――


 僕はふと手を見る。

 その手には粘度の高い、目の覚めるほど鮮やかな血液が付着していた。

 僕はそれを見て思わず、うわわっと声を出し取り乱してしまう。

 せっかく何かを思い出せそうだったのだが、その記憶の断片は無情にもどこかに行ってしまった。


 なんなんだ、ここは。

 夢にしては妙にリアルだ。


 しんとした静寂の中、舟棹が水を切り、跳ねる水しぶきの音だけが、とても不気味に響く。

 ただ進みゆく舟の行き先もわからず、何も思い出せそうに無い僕。

 途方に暮れた僕は、ぼーっと遠くを見つめた。


 ここはどこなんだろう……。


 無言のまま器用に舟を操る男。

 舟棹の舟なんて今時珍しいとその様子を見ている僕の視線を、すっと遮るように猫の紳士が僕の顔を覗き込んできた。

 そして猫の紳士は、少し気取った風に喋りだす。


「失礼。申し遅れたが、わたしは君の一等水先案内人だ」


「えっ?」

 その猫の紳士の話すある単語に、僕は思わず声を上げる。

 ――水先案内人?


「君の死者の国への案内。そして入国手続きの手伝いをさせて頂く。短き舟旅ではあるが、お見知りおきを」


 そうか――僕はとうとう、こっちの世界に来たのか。


 幾度となく生の執着を断ち切ろうとした手首の傷。

 飲み込んだ数さえ思い出せないほどの眠剤。

 それらでさえ、僕はその望みを叶えることが出来なかった――。


 そしてそれを望まなくなった途端に叶ってしまう理不尽さ。

 僕は、つくづく自分の不運を呪う――。


 幸か不幸か――僕は死んでしまったようだ。

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