この国を、私が救います
芹意堂 糸由
プロローグ この日から
キア、と扉の向こうから父の声がする。
自室の木製の扉は、今の私がギリギリ開けることができるレベルで、正直私はそれが少し怖かった。
でも、私と同い年の友達は「自分の部屋があるなんてすごい」と、口を揃えて言うものだから、私はこの悩みを誰にも言った事はなかった。
若葉色のベッドに腰掛けていた私は、小さく跳ねて、裸足を冷たい木の床につける。ぺたりと、心地よい音が部屋に響いた。
私の部屋は、私くらいの年の子が数人で走り回れるほど広い。天井も高い上、大きなシャンデリアも浮かんでいる。部屋の隅には、私には少し大きい椅子と、それに向かい合うように机が置いてある。私は一度も使ったことがないので、いつ使うのか、と父に訊いてみたことがある。そのとき父は、笑いながら「いずれ使うときがくるさ」と私に答えた。
床の小さな凹凸に足の指が引っかからないように、扉に近づく。というのも、昨晩足を引きずりながら進む遊びをしていたときに、痛い目にあったからだ。部屋の中で一人、悶えるのはもうごめんだった。
扉のドアノブに、背伸びをして小さな手をかける。このときの力加減が大切だ。強くかけすぎると、部屋の向こう側に身体ごと飛び込んでしまう。だからといって緩く力を入れると、いつまでも背伸びをしたままのどきつい体勢でいることになる。ゆえに、この扉を開けるのは一仕事なのだ。
やや苦闘したものの、今日の私も無事、自室からの旅立ちに成功した。
「おとうさん」
部屋の前には父が少し困ったような表情をして立っていた。その顔は心なしか私に助けを求めているように見える。
「どうしたの?」
夕食前のこの時間に、父が私の部屋に訪ねることなんてよくあることではない。それに父は、正午過ぎに家を訪ねた、久しぶりに会ったらしい友達と話し込んでいると言っていなかったか。
「いや、キア。そんなにたいしたことじゃないんだがな。今日家に来ている旧友の息子さんがな、どうも退屈そうで……父さん達の話も長引きそうだから……。キア、どうだ遊んでやってくれないか」
「べつにいいけど、その子、いくつ?」
父はあっさり自分の願い入れを許諾されたので、ほっとしているようだった。
いつもの明るい表情に戻った父は、「キアのひとつ下、5歳らしい」と答えて、廊下を戻っていった。
しばらくして、父と、その旧友らしき人物と、その人にそっくりな子供がなにやら楽しそうに廊下を歩いてきた。
父の隣を歩いていた人物は、父が若い頃の友人だと名乗り、手をつないでいた子は自分の子供のカイだといった。カイと呼ばれた子は、私を見るなり「誰だ」と指を指した。私はそれになにか言い返そうとしたが、それは父の友人の言葉に遮られる。
少しの説教を受けたカイという子は、少し大人しくなったものの、その目には一切の反省の色がなく、私はそれにちょっとした尊敬を覚えた。まぁ男の子だから、と父が笑いながらまとめると、父とその友人は廊下を戻り、カイという子だけを置いていった。
「おまえ、誰だ」
二人っきりになると、カイという子は再び私を指差して問いかけた。
「キア」
短く、にらみながら答えると、カイという子は一歩近づき、言った。
「キア。おまえは、しあわせものか」
私は驚いた。この無愛想な男の子はずいぶんと幼いように見えたのだが、はたして幼い子供が、私より年下の男の子が、『しあわせ』などという言葉を見ず知らずの人に投げかけられるのだろうか。
「……」
私は何も答えられなかったが、カイは何も気にしていないようすで続けた。
「これ、おまえのへや?」
男の子カイはまたしても指を部屋の扉に差して、きいた。
「そうだよ」
「はいっていい?」
もちろん私だって、廊下で遊ぶつもりなどなかった。けれど、この男の子のいうことを聞き入れるのは、なんだかしゃくだったので、しばらく黙る。
「なんでダメなの!」
カイは私の無言をノーだと受け取ったらしい。
「誰もダメなんて言ってないよ!」
ついつい私も、カイにつられて声をあららげてしまう。
「じゃあ入れてよ!」
さすが、幼児どうしの口げんか。私とカイはヒートアップする。
「いやだ」
そこから先は正直、よく覚えていないけれど、どちらかが手を上げそうになったところを、叫び声に気づいた私の父と、カイの父が止めに入ったらしい。
後から聞いた話だと、どうやら年上の私がカイを半泣きにさせているようにしか見えなかったそうだ。
初めてカイに出会ってから、十年の時が過ぎ、私は近所の学校の五年生になった。
あれから、カイという子には会ってもいなければ思い出すこともなかった。
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