ジャッキーという娘

 スタンが彼女を初めて見かけたのは、夏休みに田舎の祖母の農場に一ヶ月滞在したときでした。彼女は、髪に生花を飾り、リボンで結えられた腰は触れれば折れてしまいそうに細く、そのくせスカートを翻して駆ける姿は翼を持った白い鳩のように自由で清々しく見えたのでした。


 スタンはその姿を見て、いっぺんに恋に落ちました。ところが、頼みの綱の祖母は、この辺りには娘は居ないと言うのです。夏だから、スタンたちと同じように、避暑に来た何処かの家族かもしれないとだけ言いました。


 スタンは、彼女を見かけた河原に通い、そっと様子を窺うようになりました。


「ジャッキー!」


 ハッとしました。川向こうから駆けてきた彼女が、追いすがる少し年上の女性に呼ばれた声でした。


(ジャッキーって言うんだ)


 スタンは、まるで重大な秘密を知ってしまったように、胸が早鐘を打つのを感じました。


「グレイル! 早く早く!」


 ジャッキーは河原に下りると靴を脱ぎ、ドレスの裾をつまみ上げて、さっさと浅い川面に入ります。風がさあっと吹いて布地を揺らし、一瞬まだ見たことのない雪もかくやと思わせる太ももが目に飛び込んできて、スタンはゴクリと唾を飲み込みました。


「待ちなさいヨ、ジャッキー。アンタ若いワネ」


 あとからきたグレイルは、ゼイゼイと肩で息をして、楽しげに水遊びをするジャッキーをちょっと恨めしそうに眺めました。グレイルは腰まで届く見事な赤毛に、誂えたように同じ色のドレスを着ていました。ジャッキーはブラウンの短髪に白いヤマユリを飾り、上品なアイボリーのドレスを着ていました。


「グレイル、冷たくて気持ちいいよ」


「レディはそんな、はしたない水遊びなんかしないのヨ」


 グレイルは辟易した様子です。でもジャッキーはちっとも気にしていない風に、朗らかに微笑みました。


「グレイルは、心もレディになっちゃったの? 毎日お勉強だけして読書で暇を潰すなんて、退屈過ぎる。だって俺は本当は、ジャックだもの」


「シッ!」


 途端、顔色を蒼くしてグレイルが唇の前に人差し指を立てました。


「ジャッキー! 死神に聞かれたらどうするの!」


「あと一年だよ、グレイル。来年の夏には俺は成人する。そうしたらもうドレスとは縁を切る。成人してもドレスを着ているグレイルとは、別の人生になるだろうね……」


(ジャック? ジャッキーは、本当はジャックなのか? それとも、ニックネームだろうか)


 程なくしてジャッキーとグレイルは、やってきた川向こうへと去っていきました。まだ家に帰るまで一週間ある、という思いが、スタンを消極的にさせていました。まさか次の日からまるまる一週間、酷い嵐がやってくるなんて、思いもよらず。ジャッキーとは口もきけないまま、スタンはロンドンに帰っていったのでした。


    *    *    *


 あれから一年が経ちました。今年の夏もスタンは、祖母の農場に行くのです。この一年間、ジャッキーの事を忘れた事はありません――と言えば、嘘になります。何故ならスタンは、悪友が主催する合コンで、一夜の火遊びを楽しんでいたからです。でも祖母の農場に行く季節になってからは、毎晩のようにアリーの白い太ももを思い出していました。


 農場に着くと、一休みもせずにスタンは、去年ジャッキーを見かけた河原に下りていきました。そこには先客がいて、ハンチングを目深に被った青年が、大きな岩に腰掛けて、グレイルと楽しそうにお喋りをしているのでした。スタンは焦ります。グレイルにボーイフレンドが出来たという事は、ジャッキーにも、あるいは。


「やあ」


 スタンは、二人に声を掛けました。驚いている二人に警戒心を抱かれないよう、スタンは笑って自己紹介を済ませます。


「俺はスタン。ロンドンに住んでるけど、夏休みに、婆ちゃんの農場に毎年来てるんだ」


「あら……」


 グレイルは、スタンの洗練された都会的な出で立ちと輝くブロンドを見て、少し頬を赤らめました。


「アタシは、グレイルヨ。夏休みはいつまで?」


「一ヶ月だ。まるまるこっちに身を寄せる。よろしくな」


「よろしくネ」


 そしてスタンは、青年の方にも視線を動かしました。正直、グレイルのボーイフレンドに興味はありませんでしたが、ジャッキーの事をいきなり訊くのも不躾なような気がしていました。


「俺は、ジャック。昨日成人したんだ。よろしく」


 そう言って青年は、ハンチングを取りました。そこに現れたのは、ジャッキーそのひとの、ブラウンの短髪と桜色の頬でした。本当なら『おめでとう』と返すのが礼儀だったでしょうが、スタンは混乱して言葉を失ってしまいました。


「……? どうしたんだ、スタン。俺の顔に何か付いてるか?」


 たっぷり十秒は見詰めてしまっていると、ジャックが不思議そうな声を出します。


「あ……実は、去年もここには来たんだ。ジャッキーっていう妹は居るか?」


 その言葉を聞くと、ジャックとグレイルは顔を見合わせ、嗚呼、と吐息をもらしました。


「ジャッキーは、俺だよ。この地方では男児の死亡率が高いから、死神の目を誤魔化す為に、成人するまで女として育てられるんだ」


「そんな……」


「田舎ならではの迷信さ。だからドレスとおさらば出来て、せいせいしてるところ」


 スタンは、自分の中に生まれた奇妙な感情に名前を付ける事が出来ず、困惑して立ち尽くしていました。


「で? 俺に何か用?」


 ジャッキーがジャックだったと知らされたのに、愛しい気持ちは消えるどころか、道ならぬ恋に余計燃え上がっているのでした。


「恋人は居るか? 付き合って欲しい」


 二人は目を丸くして、その告白を聞いていました。


「……だから、俺、男だよ」


「構わねぇ。惚れちまったんだ、仕方ねぇ」


 ジャックは僅かにムッとして、細い眉根を寄せました。


「仕方ないって何だよ。君は、男でも女でも、何でもいいのか?」


「違う。その逆だ。ジャッキーがジャックだったとしても、もうお前以外を考えられないって意味だ」


 スタンは、合コンでは出した事もない真摯な声で、ジャックを口説いているのでした。その真剣さに驚いていたジャックでしたが、愛を告白する正式な形として片膝を着くスタンを、慌てて両手を振って立ち上がらせました。


「スタン、よしてくれ!」


「返事は、よく考えてからでいい。また明日、ここで逢おう」


    *    *    *


 それから三人は毎日、河原で会うようになりました。ジャックは最初こそ戸惑っていましたが、告白の返事を急かしたりせず紳士的でユーモアのあるスタンの立ち居振る舞いを、いつしか魅力的だと思うようになっていました。明日は、スタンがロンドンに帰る日です。返事をするのが誠意だと思いましたが、ジャックは答えを決めかねていました。


「ジャック。アタシ、先に帰るワネ」


「えっ。何で?」


 グレイルが耳元に囁いてきて、ジャックはドキリとしました。そうなったら、スタンと二人きりです。


「決まってるじゃない。気を利かせてるのヨ。ちゃんと返事、しなさいヨネ」


「グ、グレイル……」


「スタン! アタシ、母さんに晩ご飯のお使いを頼まれてるの。先に帰るワネ。気を付けてロンドンまで帰ってちょうだい」


「ああ、ありがとう。またな」


 グレイルが急ぎ足で駆けていくパタパタという音が遠ざかると、辺りは急に静かになったように感じられました。ジャックは高鳴る鼓動がスタンに聞こえてしまうのではと恐れて、思わず左胸をそっと押さえます。


「……ジャック」


「な、何?」


 スタンが急に真剣な声音を出すものだから、鼓動はますます速くなるのでした。時刻は、夕暮れのオレンジ色が、全てをロマンティックに染め上げている午後六時半です。


「俺は明日、ロンドンに帰る。返事を、聞かせてくれないか」


「な、何の返事?」


 その答えに、スタンはクスリともらしました。二人の間にはいつも危うい均衡があって、それはスタンの告白によってもたらされたものでした。


「何の返事かだって? 忘れてるなら、もう一回正式に申し込もうか?」


 片膝を折りかけるスタンを、大急ぎでジャックが制しました。


「い、いいよ!」


「じゃあ何で、そんなつれない事を言うんだ。俺は毎日、返事を待ってた」


 ジャックは困ってしまいました。ことここに至っても、返事を決めかねていたからです。スタンがジッと見詰める先で、夕映えの中にも赤くなっている事が分かるほど上気しながら、ジャックは俯いて指をモジモジと組み合わせました。


「その……返事なんだけど……」


 スタンは辛抱強く待ちました。


「……俺にも、分かんない……」


 こんな返事では怒られるかと、ジャックは僅かに首を竦めていましたが、意外にも上がったのはスタンの喜びのため息でした。


「て事は、満更でもないって事だな? 良かった……」


「ええと。その……」


「好きだ。ジャック」


「え」


 ジャックは、心臓が口から飛び出るのではないかと思いました。スタンが素早く駆け寄ってきて、右手を握ったからでした。


「恋をした事はあるか?」


「な……ない……」


「じゃあ、自分の気持ちがよく分からねぇんだろう。分かるようにしてやろう」


「!!」


 見開かれたままのフォレストグリーンの瞳の先で、ディープブルーのスタンの瞳がグッとジャックに近付きました。ジャックは反射的に、スタンを突き飛ばしていました。


(キス……される……!)


 ジャックは真っ赤な顔色を気取られぬよう、脇目も振らずに背を向けて、川向こうの家を目指して一目散に逃げ出しました。スタンは、ただ黙ってその後ろ姿を見送りました。


「駄目だったか……」


 そう呟くと、苦い表情で祖母の農場に帰ります。出発は明日の予定でしたが、スタンは部屋に着くと荷物を纏めて、鉄道の駅に向かって歩き出しました。駅には、蒸気機関車が着いていました。スタンは席につくと、出発までの間ぼんやりと田園の風景を眺めます。脳裏をよぎるのは、大輪のヤマユリのように伸びやかなジャックの笑顔ばかりでした。


「ジャック……」


 ゆっくりと、機関車が動き出します。


「さよなら……」


「スタン!」


「……ジャック!?」


「スタン! スタン!」


 馬に跨ったジャックが、遠くから駆けてくるのが見えました。


「スタン! 俺、も、スタンが好きだ! 春になったら、ロンドンに行くよ! だから、それまで待ってて……」


 速度を上げた機関車に追いつけず、ジャックの声は風に千切れて行きました。スタンは窓から顔を出して、ジャックに大きく手を振ります。


「ジャック……」


 カーヴを曲がって見えなくなった彼の名を呟き、スタンはほくそ笑みました。


(俺は明日まで休みなんだぞ、ジャック。一駅引き返して、お前を抱きしめるのなんか、訳もないんだ)


 スタンは自慢のブロンドを撫で付けて、瞳の奥を光らせます。


(覚悟してろ、ジャック……)


 そんな事とは露知らぬジャックは、桜色の頬を涙に濡らしているのでした。


「待ってて……スタン」


 すれ違う気持ちが混ざりあって一つになってしまうまで、あと一時間の夕暮れでした。


End.

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