『ホワイトエンゼル心療内科メンタルクリニック』の心理カウンセラーである住吉は、書類机から立って大きく肩を回した。もともと肩こりがひどい体質だから、同じ態勢はつらい。

「えーと、新しく来る患者の、これ?」 

 住吉は事務兼受付の千枝子ちえこに訊いた。

 千枝子は未婚だが、どっしりしたおっかさんタイプの女性である。割ぽう着じゃなく白衣を着ているけれども。

 白衣がプレッシャーになるという考え方もあるが、少し前にあたりに尿をまき散らす患者さんがいたため、一応着ることになった。

「ええ。自傷行為と妄想がみられるそうです。本人は施設への入院を拒否。措置入院そちにゅういんの可能性もありますね」

「ひどいのかい。いまどきリスカくらいじゃ誰も驚きゃしないが――」

 淡いブルーグリーンを基調とした部屋の、中央にあるカウンセリング用ソファセットのテーブルに関連書類を置く。

 八幡美也子。高校二年生。二か月前の、同じ高校の女生徒飛び降り自殺が何らかのショックを与えたものと考えられる。それ以前に兆候は現れていない。

「自殺した子とよっぽど親しかったのかねえ」

「ひょっとしたら、心中するつもりだったのかも」

 住吉は片眉をあげた。

「女の子同士でかい?」

「先生も案外ステレオタイプですね。今の子がどうつながってるかなんて――わかりませんよ」

「僕より君の方がよっぽど年が近いはずだけど、わからないもんか」

「私だって高校生の時には携帯電話なんてありませんでしたし」

「いやだねえ。やっとものを言える立場になったと思ったら、環境の方がどんどん変わっていってしまう。浦島太郎じゃないが、取り残された気分だよ」

「先生はそれが自覚できるだけ、マシなほうですね」

「きついな、千枝子ちゃんは。そんなことじゃ婚期遅れるよ」

「あー、それ言っちゃいます?」

 千枝子の安定感はありがたい指標だった。現実にしっかりと根を下ろしている。住吉は肩をほぐしながら言った。

「さあて、始めようか。呼んでくれる?」



 入ってきた子は明るい髪と暗い目をした少女だった。長袖の上に半袖のTシャツを重ねた服にジーンズ。

 髪は明るい栗色に染められていたが、根本の方は黒い地色が出始めている。外見にまで気力が回らなくなった証拠だ。

 ――これも二か月くらいってところか。いったい、何があったっていうんだ?

 母親は憔悴しきった顔をしている。

「先生、目を離すと自分を傷つけようとするんです……。両腕にはもう傷跡ばかりで」

「付き添いの方は、すみませんが別室でお待ちください」

「でも」

「心配なのはわかりますが、お願いします」

 住吉が言うと、千枝子が母親を部屋から連れ出した。

「八幡……美也子さん。まず両手を前に突き出して。そう。手のひらをグー、パーと繰り返してくれる? 両方ね」

 言われたとおりに美也子がすると、住吉は「オーケー、こちらに座って」と中央のソファに誘導する。

 固く心を閉ざしてしまった患者は、こちらが何を言おうと聞いてはくれない。美也子は少なくとも他者の言葉を理解し、従ってくれる。希望がある。

 美也子と直角になるよう座ると、手を組み、話し始めた。

「美也子さん……と呼んでいいかな? うん。僕は住吉健一郎。心理士だよ。今日は僕たちの初対面の日だし、まずそう緊張せずに話すことから始めよう。まだ信じられないかもしれないけれども、君が抱え込んで辛い思いをしている、僕はそのことをやわらげられると考えている。そのためにいろいろと学んだし、訓練もしてきた」

 美也子は住吉の目を見ない。壁の一点を凝視している。

「僕を信用してほしい。今日会ったばかりの僕を信頼してくれとは言わない。それは無理だ。美也子さんのことは何も知らないんだから。でも何も知らない赤の他人の方が話せるってこともあるよね? 匿名の、どこかの誰かさんの話でもいいよ。もし君が誰かを頼りたいなら、僕でもいいはずだ。そうだろう?」

「――先生には無理です」

 美也子は初めて言葉を放った。案外低い声だった。

 その瞳には絶望があった。しかし、助けを求めてあがく輝きを見た――と住吉は思った。

「それを判断できるほど美也子さんは僕を知っちゃいないさ」

「あたしに必要なのはカウンセラーじゃない。霊能者と拝み屋とか――そういうひと」

「……なんだって?」


「あたしのなかにあやかが取り憑いてる。――あたしじゃないの、先生」

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