稲荷山/帰京
稲荷山には
今年こそ咲くかも知れぬ花があり
今年こそ啼くかも知れぬ鳥がある
稲荷山には
今日こそ吹くかも知れぬ風があり
今夜こそ出づるかも知れぬ月がある
茶屋のおばあちゃんは
わたしの顔も子供の名前も覚えていてくれた
はるちゃん大きゅうなったねえ
こないだ逢うたときは
まだママの背中に揺られとったのにねえ
はるかはきょとんと日に灼けた顔を傾げる
無理もない
それでもはるかは
ちゃんとおばあちゃんに笑って見せた
おばあちゃん、冷やしあめ
冷やしあめ、飲みたいわ
前に来たときみたいに
わたしが
この伏見に暮らしていたのはたったの三つき
その三か月のあいだ、毎月のはじめに
この稲荷山を登拝した
それから七年経って
こうしてやっと
また稲荷山の鳥居をくぐる
七年
はるかは九つになり
背はわたしと変わらないのに
足はずっと長い今どきの女の子になった
私をおいてずんずん鳥居をくぐってゆく
千本鳥居と言うが
実際千本などという数ではない
はるかは無限に続く赤い鳥居を
きょう初めて見るに等しいその鳥居の列を
一本いっぽん手で感触を確かめながら
慈しむようにして撫でてゆく
その後ろ姿を追いながら
わたしはどうにも涙が止まらなかった
わたしは
東京の生活で身体が鈍ったのか
それとも単純に老いたのか
以前のような足どりでは登れなかった
七年というのは長い
茶屋のおばあちゃんが
まだ元気でやっているか
ずっと気にかかっていた
なにしろ七年
果たしておばあちゃんは元気だった
以前にも増して
肌に張りがあって
声も大きく活発にみえて
わたしはとても安心した
おばあちゃん
いま東京に住んでいるの
次また
いつ伏見に来られるかわからない
でもまた来るから
元気でいて
おおきにおおきに
気長に待っとるから
なんも気にせんでええんよ
あんたの暮らしを大事にしよし
おきばりや
稲荷山には
今年こそ咲くかも知れぬ花があり
今年こそ啼くかも知れぬ鳥がある
今日こそ吹くかも知れぬ風があり
今夜こそ出づるかも知れぬ月がある
おばあちゃんは
何十年もこの山にいて
花の咲くのを
鳥が啼くのを
風が吹くのを
月が出るのを
ずっと
ずっと
待ち続ける
毎日千人もの参拝客
その一人ひとりが
花であり鳥であり
風であり月である
わたしとはるかも
そのなかのひと組にすぎない
けれどおばあちゃんは
わたしたちを待っていてくれる
東京の生活は
良くもなく悪くもない
けれどもう馴染んでいるのかも知れない
そして東京は
はるかにとっては大切な場所で
これからもあの街で生きていくのがいいだろう
ねえ、はるか
あなたは
どんどん大きくなってゆく
いつかわたしの手をはなれて
たくさんの愛するものを見つけたとき
それでもあなたが
伏見を
稲荷山を忘れないでいてくれたら
わたしはどんなに嬉しいだろう
帰りの新幹線で
となりに眠るはるかの顔は
窓に映るわたしの顔に
苦笑いするほどやっぱり似ていた
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