七匹め『ほわっとお茶淹れ』

 ひつ字を編集局へ戻すと来島は言った。

 急な申し出だと礼人は思う。当の本人も寝耳ねみみに水といった様子。


「学習状況を示すレポートの結果がかんばしくなく。あくまで相性のお話ですが、他の先生に教師役をお願いした方がいいのではという話もありまして」


 歯切れの悪いその物言いは、一度通った企画が潰れたときの報告に似ているなとどこか冷めた頭で思った。


『イヤです! わたしまだ、センセイの小説わかってません!』


 頭を振ったひつ字が背後へ逃げ込む。

 礼人は図らずも二人の間に立つ形になってしまった。

 来島が一歩距離を詰める。


「残念ですがノウハウの蓄積でおくれをとっているこちらに余裕はありません。少しでも早く試験運転を終わらせ本格的なひつ字の運用に入りたい状勢なんです」

「はぁ、なるほど」


 こればかりはどうしようもないと礼人は思う。自由さと立場の不安定さはイコールだ。作家はいつだって書きたいものを書き、その存在は流される木の葉のように軽い。あぁ、でも。


(ひつ字にはその書きたいこともないんだっけ)


 それでは不憫ふびんだと思った。少なくとも『評価されるよう学びたい』という願いはたとえ無機的なコンピュータが発したものであれ本物だと思えたから。


『うううぅっ、センセイぃ……』


 ひつ字はひしっとしがみつく動き。実体なんてあるわけもないのに、どうしてか背中に存在を感じるのが不思議だ。

 礼人は来島にたずねた。


「あの、その学習レポートって古いですよね。できたら最新のを見てから決めてもらえませんか?」


 自分の書いたものがどれだけひつ字に影響を与えたかは分からない。彼女は落ち込んでいたし意味はなかったのかもしれない。でも。

 来島がいぶかしむように腕を組む。


「……先生はこのお仕事にあまり乗り気でないように見えましたが。心配なさらずとも謝礼のほうは決まった額を――」

「いえ、そういうことじゃなく」


 その言葉をさえぎって一歩横へずれた。


「見てあげてほしいんです、今のひつ字を。きっと頑張ってたんだと思うので」

『センセイぃ……!』


 ひつ字がぺかぁっと光る笑顔で見上げてくる。能天気さがまぶしい。


師弟愛していあいですか。牧先生って意外と面倒見がいいんですね」


 小さくため息を吐く来島。その手が差し出された。


「いいでしょう。読ませていただきます、先生の新作」


 呆気にとられた礼人はしばらくその指先を見詰める。


「どうしました、昨日書かれたんでしょう?」

「……いえ僕じゃなく、ひつ字のデータを」

「今回に限ってはその二つは同じなんです。気が変わりましたか?」


 有無を言わさず押し通すような来島の迫力に礼人は続く疑問をのみこんだ。


「――分かりました、お願いします」


 印刷した原稿を手渡す。ざざっとその表面を来島の視線が走ったのが分かった。

 とたんに不安が襲う。


「あのじつは、寝る前に一度推敲すいこうしただけで……」

「…………」

「何を書いたかよく覚えてなくて……」

「……」

「自分ではよく書けたと思うんですけど、書いて時間が浅いので、その」

『センセイ、ちょっとだけ見苦しいです……』


 ほっといてくれと礼人は肩をせばめた。ただでさえ目の前で読まれる緊張にいつまでも慣れないのだ。それは作風が、読んでいて笑顔になるとかわくわくするといった類のものでないことに起因するのかもしれない。みな真剣な、悪くとればけわしい表情で読むものだから。


「……お茶を」

「え?」


 ぽつりとつぶやいた来島へ振りむく。


「温かいお茶か何かいただけますか……?」


 目は原稿に落としたままソファに腰掛けた彼女を見て礼人はキッチンへ回れ右した。



 ガスコンロの隣で急須きゅうすれたほうじ茶を蒸らす。

 超コーヒー党の刀祢と比べるまでもなく、来島の好みというものを礼人は感じたことがなかった。

 好悪の別がないのではとすら思える。感情にしろ何かへの反応にしろ、揺らぎが少なく機械のような印象を受けることもたびたびだ。

 急須のフタをほんの少し開けて茶葉の様子をのぞく。


『センセイって、好きな人には尽くすタイプですか?』


 がちゃんっ

 指から滑り落ちたそれが本体に当たって大きな音を立てた。

 礼人はつけたままのヘッドホン部分に手をやる。


「……どうしたの急に」

『なんだかアサカさんが来ると緊張しているみたいなのでそうなのかなぁーって』


 ディスプレイを額に上げているので姿は見えないが、キラキラした目で周囲を旋回するひつ字が容易に想像できる声だった。


「違うよ。怖いんだ」

『恐い?』

「うん、あの人に無価値だと思われるのが」


 小説を書いたのは現実からの逃避とうひだった。

 当然それをほいほいと人に見せられるほど礼人は無恥ではなく、それでも誰かに読んでほしくて賞に応募した。受賞なんて本気で考えたことはなかった。


  〈――これ、本にしませんか〉


 そんなある日、電話口で突然そう言ったのが来島朝霞。礼人にとっては最初の読者ということになる。いや、それ以前にも落選に際して誰かしらの目に触れてはいたのだろうが。


「最初の一年半。それからちょっと開いて最近また担当してくれて。たぶん作家としての僕を僕以上に知ってる。あの人がダメだって言ったらきっとそこが終点なんだって思えるくらいには」


 だから怖い。彼女と接するとき、次の瞬間には自分の限界をつきつけられはしないかと。


『なるほど! じゃあわたしと一緒ですね!』

「ん? あぁ、うん、そうかもしれない」


 落ち込んでいた時ひつ字は自分の存在意味についてこぼしていた。機械も人も究極求めるところは同じなのか、それとも人が造った機械だからそうなのか。


『頑張りましょうセンセイ! アンインストールされないように!』

「……僕の場合はまず再インストールされないと、かなぁ」


 最近の手ごたえからするとそんな感じだ。原盤ほんにんが捨てられていないだけ恩の字。

 礼人は苦笑するとお茶を盆にのせてリビングへ向かった。

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