四匹め『赤いアレがだくだく』

 刀祢とは新幹線の改札で別れることになった。


「ここでいい、元気でやれよ」

「はい、八ケ代先生も」


 差し出された手を握り返すと刀祢はむずがゆそうに肩をゆすった。


「相変わらずったいなぁアヤトは。ほら」


 手渡されたのは一片のメモ。


「住所だ。お前のもよこせ、地元の酒を送ってやるよ」

「そんな……いえ、分かりました。じゃあ図々しいですけど」


 礼人もまた手帳に住所を書くとページごとちぎって渡す。

 たたんだそれをポケットにしまった刀祢は改札を抜けた。


「じゃあな」


 ニッと笑って手を振って、あとは振り返ることなく階段を上っていく。礼人はその足が見えなくなるまで見送った。

 そうしてきびすを返そうとした時。


「アヤトのばかやろーっ!」


 周りの人々が改札の方を見る。礼人は石膏で固められたように動けなくなった。


「作家の魂を安売りしやがってー! ヘタレ! 拝金主義者! しぼりカスになって捨てられても面倒見てやらないからな! ホームレスになっても良い子ちゃんしてろ、ばーか!」


 へたりこむようにその場に尻餅をつく。

 ざわつくなか、駅員室から数人が階段の上へ向かうのが見えた。

 それ以上刀祢の声は聞こえない。ただ礼人には、周囲の雑踏にとけたその叫びが何度も何度も反響して耳に届くような気がした。



 帰りの道はひときわ長く感じる。

 もとより高原の元リゾート地だ。別荘用に造られたマンション群が空洞化したのを、地方再生の掛け声とともに入居者を募った。

 おまけに天気が崩れて一番けわしい坂を上るころには雨が降り出していた。


 犬のように濡れた頭を振るって駐輪場にロードバイクを押し込む。

 部屋の前では清掃用ロボの看守さんが動いていた。


『早ク中ヘ、503号』


 礼人は無言でロックを解除する。

 玄関からリビングへ。途中洗面所で水滴をぬぐった。そのままデスクに座りスマートグラスとヘッドマウントディスプレイをつけかえる。


『おかえりなさい、センセイ!』

「うん」


 隣に浮かんだひつ字に言葉少なく答えてからワープロソフトを起動した。


『小説を書きますか? わたし、センセイに読んでほしいものが――』

「ひつ字」


 手をかざして彼女の言葉をさえぎる。


「これは、ちがう。今からすることは君の勉強にはならない」

『――センセイ? なんだか元気がない、ですか?』


 委縮いしゅくしたようにトーンダウンしたその声に、礼人は無理やり表情をやわらげた。


「いや、大丈夫だよ。でもしばらく静かにしていてほしい」


 ひつ字は両手で口をばってんにふさぐと、こくこくと頷いてみせる。その頭をひと撫で――むろん感触はないが――して礼人はキーボードに向かった。



 世界観、主人公と主要キャラクターの設定、あらすじ。2千字程度にまとめたそれは“小説のタネ”だ。

 午前2時を回ったころ。

 暗く雨音が染みいるリビングで礼人は大量のタネを書きこんでいた。

 指が平面キーボードをタップするたびAR上の原稿が文字で埋まっていく。

 誰に見せるものでもない。速記性だけを追求したそれらは最低限の形式に放り込まれてあとは長さも項目もまちまちだった。

 横に浮かんだ別の原稿に手を伸ばすと、まるで壁からはがしたようにそれは礼人の正面へ移動した。さらに追加のアイデアが書きこまれる。

 浮かぶ原稿は20ファイルほど。まとまらず廃棄したデータも含めて4万字くらいを帰ってから書いたことになる。


(もうちょっと……)


 小説書きに必要なのは発想の飛躍とアイデア同士の地道な結びつけだ。それをきたえるための訓練だった。

 酷使され焼け落ちた神経系シナプスは、修復と同時により強固なパスを形成して脳を小説を書くための器官へと変化させる。

 ぬるりとキーボードをなぞる指がすべった。視線を落とすと赤い液体がしたたり落ちている。鼻血。


(この練習、八ケ代先生に教わったんだっけ)


 引っぱり出したテッシュでそれをぬぐいつつ思う。

 小説家の脳はツブシがきかない、と刀祢は言っていた。


〈――妄想力もうそうりょく豊かでそのうえ思考があっちこっちに飛躍する。話を書くにはプラスでもそれ以外の仕事や生活じゃマイナスが多い。だからプロアマ問わず小説なんてものを書きだした時点で人は浮世離うきよばなれを覚悟しなきゃならない〉


 そう笑った彼はほこらしげだった。


「……何するんだろう、小説家やめて」


 去り際の彼の罵倒が耳へこだました。キーを叩く指は止まらない。

 口と眼球がひどくかわいている。まだだ。追い込めば追い込んだだけ余計なものをぎ落とせる。盛りすぎた設定も、つまびらかにし過ぎた感情も。迷いも。


『――センセイ、えっちなこと考えてます?』

「うわあッ!?」


 正面の原稿を突きぬけて、にゅるっとひつ字がのぞきこんできた。

 のけぞった拍子に礼人は椅子ごと倒れそうになる。


「か、考えてない、どうしたの急に?」

『じゃあ誰かに殴られましたか? しゅっしゅっ、バチィって』


 どうやら鼻血のことを言っているらしい。


「これは、何でもない。ただちょっと疲れたから出ただけ」

『そうなんですか? でもそれなら休んだ方が。疲れていいものは書けませんよ!』

「そのセリフ、君が言うとすごく上から目線に聞こえるな……」


 自分はひがみ性だろうか。つい言ってしまった。


『まぁわたしは休憩いらないですしね!』 


 だがひつ字は気にした様子もなく応じる。


『でも、じっくりコストをかけて書くことは素敵だと思います。そういうヒトの積み重ねの上にわたしが生まれたわけですから。いわばこれまでの作家さんみんなの頑張りがわたしのお父さんお母さんです!』


 ぽやんとした胸を張るひつ字に礼人は毒気を抜かれる。これがもし刀祢だったなら「よくしつけてある」くらいの皮肉は言うだろうが。


「それで仕事とられてちゃ世話ないんだけどなぁ」


 苦笑が溜め息にかわる。AI相手に愚痴ぐちを言っている自分がなんだか滑稽こっけいに思えた気がしたがやはりみじめなものは惨めだった。

 ひつ字は不思議そうに小首をかしげてそれを見ている。


「うん、まあ休むよ。おやすみ」

『はいっおやすみなさいセンセイ!』


 帰路についてからこっち、ずっと胸にわだかまっていたものがようやく抜けた気がした。

 ひつ字は自分たちニンゲン作家の敵だろうか。

 小説という文化を形成する誰か――それは作家以外の企業や読者かもしれないが――が望んだ結果、彼女たちは生まれた。

 ならそれにはきっと意味がある。仮にニンゲン作家を淘汰する方向へ進むとしても自分はそれを回避すべく力を尽くすだけだ。

 ひつ字を生んだ世界をそれだけで嫌いになることはできなかった。これまでずっと好きでここにいたのだから。

 自分は刀祢のように見限れない。いや、彼だってきっと。


 真っ暗になったディスプレイを脱ぐ。

 窓の外も真っ暗だったが、高原の湖面だけが空の小さな星明りを含んで見えた。

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