四匹め『赤いアレがだくだく』
刀祢とは新幹線の改札で別れることになった。
「ここでいい、元気でやれよ」
「はい、八ケ代先生も」
差し出された手を握り返すと刀祢はむずがゆそうに肩をゆすった。
「相変わらず
手渡されたのは一片のメモ。
「住所だ。お前のもよこせ、地元の酒を送ってやるよ」
「そんな……いえ、分かりました。じゃあ図々しいですけど」
礼人もまた手帳に住所を書くとページごとちぎって渡す。
たたんだそれをポケットにしまった刀祢は改札を抜けた。
「じゃあな」
ニッと笑って手を振って、あとは振り返ることなく階段を上っていく。礼人はその足が見えなくなるまで見送った。
そうして
「アヤトのばかやろーっ!」
周りの人々が改札の方を見る。礼人は石膏で固められたように動けなくなった。
「作家の魂を安売りしやがってー! ヘタレ! 拝金主義者!
へたりこむようにその場に尻餅をつく。
ざわつくなか、駅員室から数人が階段の上へ向かうのが見えた。
それ以上刀祢の声は聞こえない。ただ礼人には、周囲の雑踏にとけたその叫びが何度も何度も反響して耳に届くような気がした。
◇
帰りの道はひときわ長く感じる。
もとより高原の元リゾート地だ。別荘用に造られたマンション群が空洞化したのを、地方再生の掛け声とともに入居者を募った。
おまけに天気が崩れて一番
犬のように濡れた頭を振るって駐輪場にロードバイクを押し込む。
部屋の前では清掃用ロボの看守さんが動いていた。
『早ク中ヘ、503号』
礼人は無言でロックを解除する。
玄関からリビングへ。途中洗面所で水滴をぬぐった。そのままデスクに座りスマートグラスとヘッドマウントディスプレイをつけかえる。
『おかえりなさい、センセイ!』
「うん」
隣に浮かんだひつ字に言葉少なく答えてからワープロソフトを起動した。
『小説を書きますか? わたし、センセイに読んでほしいものが――』
「ひつ字」
手をかざして彼女の言葉を
「これは、ちがう。今からすることは君の勉強にはならない」
『――センセイ? なんだか元気がない、ですか?』
「いや、大丈夫だよ。でもしばらく静かにしていてほしい」
ひつ字は両手で口をばってんに
◇
世界観、主人公と主要キャラクターの設定、あらすじ。2千字程度にまとめたそれは“小説のタネ”だ。
午前2時を回ったころ。
暗く雨音が染みいるリビングで礼人は大量のタネを書きこんでいた。
指が平面キーボードをタップするたびAR上の原稿が文字で埋まっていく。
誰に見せるものでもない。速記性だけを追求したそれらは最低限の形式に放り込まれてあとは長さも項目もまちまちだった。
横に浮かんだ別の原稿に手を伸ばすと、まるで壁からはがしたようにそれは礼人の正面へ移動した。さらに追加のアイデアが書きこまれる。
浮かぶ原稿は20ファイルほど。まとまらず廃棄したデータも含めて4万字くらいを帰ってから書いたことになる。
(もうちょっと……)
小説書きに必要なのは発想の飛躍とアイデア同士の地道な結びつけだ。それを
酷使され焼け落ちた
ぬるりとキーボードをなぞる指がすべった。視線を落とすと赤い液体がしたたり落ちている。鼻血。
(この練習、八ケ代先生に教わったんだっけ)
引っぱり出したテッシュでそれをぬぐいつつ思う。
小説家の脳はツブシがきかない、と刀祢は言っていた。
〈――
そう笑った彼は
「……何するんだろう、小説家やめて」
去り際の彼の罵倒が耳へこだました。キーを叩く指は止まらない。
口と眼球がひどく
『――センセイ、えっちなこと考えてます?』
「うわあッ!?」
正面の原稿を突きぬけて、にゅるっとひつ字がのぞきこんできた。
のけぞった拍子に礼人は椅子ごと倒れそうになる。
「か、考えてない、どうしたの急に?」
『じゃあ誰かに殴られましたか? しゅっしゅっ、バチィって』
どうやら鼻血のことを言っているらしい。
「これは、何でもない。ただちょっと疲れたから出ただけ」
『そうなんですか? でもそれなら休んだ方が。疲れていいものは書けませんよ!』
「そのセリフ、君が言うとすごく上から目線に聞こえるな……」
自分は
『まぁわたしは休憩いらないですしね!』
だがひつ字は気にした様子もなく応じる。
『でも、じっくりコストをかけて書くことは素敵だと思います。そういうヒトの積み重ねの上にわたしが生まれたわけですから。いわばこれまでの作家さんみんなの頑張りがわたしのお父さんお母さんです!』
ぽやんとした胸を張るひつ字に礼人は毒気を抜かれる。これがもし刀祢だったなら「よく
「それで仕事とられてちゃ世話ないんだけどなぁ」
苦笑が溜め息にかわる。AI相手に
ひつ字は不思議そうに小首をかしげてそれを見ている。
「うん、まあ休むよ。おやすみ」
『はいっおやすみなさいセンセイ!』
帰路についてからこっち、ずっと胸にわだかまっていたものがようやく抜けた気がした。
ひつ字は自分たちニンゲン作家の敵だろうか。
小説という文化を形成する誰か――それは作家以外の企業や読者かもしれないが――が望んだ結果、彼女たちは生まれた。
ならそれにはきっと意味がある。仮にニンゲン作家を淘汰する方向へ進むとしても自分はそれを回避すべく力を尽くすだけだ。
ひつ字を生んだ世界をそれだけで嫌いになることはできなかった。これまでずっと好きでここにいたのだから。
自分は刀祢のように見限れない。いや、彼だってきっと。
真っ暗になったディスプレイを脱ぐ。
窓の外も真っ暗だったが、高原の湖面だけが空の小さな星明りを含んで見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます