異界遊々録

光丸

1-1.おむすびころりん


 ──光の向こうで私を待っていたものは……


「ここは……」

 ガーネット=ルフサは目の前の光景に開いた口が閉まらない。

 ひっきりなしに車の走る大通り。それを挟むように建った蔦の張った灰色の建造物。

 見上げた灰色の空には星空が同居し、三つの太陽が淀んだ空の向こうで輝いている。

 ときおり聞こえてくる爆発音に悲鳴。

 そして鼻につく不快な刺激臭。

 薬品の匂い。太い煙突から吐き出される黒煙。

 五感全てが私の知っている世界とは違う。

 度の深い眼鏡の奥でルフサの鳶色の瞳が右に左にと動く。

 そこには見覚えのない世界が広大に広がっていた。

 

  ◆


「……はあ」

 少女と呼ぶには図々しく、淑女と呼ぶには幼い。眩いほどの銀色の長髪を趣味の読書の邪魔にならないよう一本の太い三つ編みにして腰まで垂らした彼女は、度の深い眼鏡の奥で憂いの表情を浮かべ深いため息を一つ吐いた。

 本のページを一枚捲ってからふと窓を見上げた。

 灰色の空はいつ雪が降りだしてもおかしくないほど寒々しい。命の気配を絶った冬の気配が満ち満ちた窓の向こうは乾燥した風だけがときおり窓を叩く。

 世間はクリスマスも迫り、若者たちは皆一様に洒落た姿で賑やかな街並みに溶け込むかのように遊びに興じている。

 ──それに引き換え……

 ルフサは自分の恰好を見た。

 無地でどこか毛玉が目立つハイネックのセーターとくるぶしまで届く精彩のない藍色のロングスカート。

 この一年を通して洒落た姿などしたことがない。

 ──クリスマスパーティか……

 大学へ登校した当初こそ血筋による整った顔立ちと目立つ銀色の髪が人々を寄せ付けたが、野暮な恰好をしていても違和感を覚えないルフサの性格が次第に彼女を孤独へと追いやっていった。その彼女へ渡されたのは、社交辞令たっぷりのクリスマスパーティの誘いだ。もちろん行くつもりなど毛頭にない。

 ルフサは本が好きだ。ただ一方的に求めた情報を与えてくれるうえに気遣いなど必要ない。今では大学内の図書館こそ彼女の安心できる居場所だ。

 休日はここで静かに本を読むのが彼女の習慣となってしまっている。


「寒い」

 図書館を出て白い息をこぼしたルフサは乾燥した風に撫でられ身を一つ震わせ自分の体を抱く。茶色のロングコートを着たがそれでも冬の空気を完全に防ぐことはできない。チークをさすかのように頬が寒さでほんのり赤くなる。

 遠い町の喧騒もルフサの通う大学までは届かない。

 そして帰路も全て静かなものだ。

 あまりの静寂は風切り音すらも騒音に聞こえてしまう。

 人通りのない休日の帰路。

 まるで全ての生物が死んだかのような悲壮感の漂う冬のコンクリートの上をルフサは歩く。

 吐いた白い息が空気に溶けていくのを眺めながら細い路地へと入る。

 築何十年だろうか。外壁に入った罅が目立つ背の低いマンションに挟まれた細い路地。

 室外機の音が聞こえる明かりの届かないその裏道は、ルフサの住む寮までの近道だ。

 帰ってもすることなどない。

 寮のなかでも部屋に籠りゆっくりとすることだけだ。

 ──こっちだ……

「ん?」

 不意にルフサは進む足を止めた。

 風の音と言えばそれまでだが、何か呼ばれた気もした。

 人通りのない裏路地。そのなかでも更に奥まった場所へと続く曲がり道。普段ならば通る必要もなく、見向きもせずに通り過ぎる曲がり道だが、今日に限ってはその路地を見過ごすことができなかった。

 ──光?

 奥へと続く細い路地から漏れ出た虹色の光。その輝きはどこか神々しく、見るものを理由なくひきつける。

 ルフサは心奪われるかのように、何も考えずただその輝きに誘われ裏路地の更に奥へと入っていく。

「これ?」

 その虹色の輝きは裏路地の行き止まりの壁からだった。

 まるで付着するかのように虹色の輝きは壁の一部から放たれている。

「んー……」

 虹色の輝きの向こう側をルフサは覗き込む。

 何かが動いているようにみえるが、小さすぎてそれが何なのか全くわからない。

 正体を掴もうとますます前のめりになり

「あっ!?」

 転んだ。


  ◆


「ゲズゥ、本当にこの辺に次元の穴があるの?」

 喪に服すかのような黒一色のスーツに身を包んだ女性は隣を歩く小柄な男を見た。全身を薄汚れたローブで覆った小柄な男は奇妙な機械音と共に機械の眼を動かす。

「んー、俺様の子機の反応だとこの辺から次元の歪を感知したんだけどな」

 異形の者たちが犇めき合うこの街、様々な次元の終着点『ロンドミリオン』のメインストリートを二人は並んで歩く。

 文化、技術、種族、概念。全てを受け入れたロンドミリオンの風景はいつも変わらない。

 爆発音と悲鳴に喧騒。ときおり血の匂いで湿った空気が街を包んでいる。

「さっさと次元の穴を塞いで帰りたいな」

「俺だってそうさ。ただ漂流者が居る反応だな」

「うぇっ! 面倒ごとにならなきゃ良いんだけど。以前の漂流者はいつだっけ?」

「三九年前だな。正確には三八年一五八日二一時間と──」

「はいはい。それは良いとして肝心の漂流者はどこ?」

 スーツ姿の女は露骨に嫌そうな顔で男の言葉を遮る。

「この辺なんだけど……アレだな」

「ん?」

 ゲズゥと呼ばれた男の機械の瞳がローブの奥深くで不気味に赤く輝き、異形犇めく街に戸惑いを隠せない女性を捉える。

 どんな出で立ちをしていようとこのロンドミリオンでは不思議ではない。ただ女性の狼狽した姿は明らかにここへ来たばかりだと語っている。

 腰まで届く太い銀色の三つ編みを揺らして女性は大通りを右往左往している。


「おい姉ちゃん。邪魔だぜ」

「ひゃっ!? すす、すいませんっ!」

 鱗が目立つ鰐顔の男にルフサは三つ編みを大きく揺らして頭を下げる。

 壁に寄りかかるように道の脇に寄ったルフサは目の前の町並を見て、何度目かの深い溜息を吐く。

 目の前にある世界はルフサの知る世界とは別世界だ。

 それこそ本のなかの世界と言っても過言ではない。

 時折聞こえてくる悲鳴や爆発音すらまるで日常かの如く異形の通行人たちは進める足を止めることない。

 メインストリートを絶えることなく往復する機械と生物が混合された車。

 脈動する管が張り巡らされた建造物。

 その隙間から吹き上がる黒煙と爆炎。

 光を放つ幾何学模様が刻まれたショーウィンドウ。

 降り注ぐ灰。

「……………………」

 もはやどうして良いのかルフサにはわからない。

 自分が居たであろう場所の虹色の輝きは今はもう指先ほどしかない。

「お、あった、あった!」

 薄汚れたローブで全身を覆った小柄な男がルフサの横を通り抜け、虹色の輝きを前に屈みこむ。

「さてと……」

 輝きを前に男はローブを剥ぐ。

「うげっ!?」

 人である部分などろくに残ってないその姿にルフサは思わず声が漏れる。

 露になったのは機械の体だ。不気味に輝く赤い一つ目。それら全てが動く度に機械特有の駆動音が響く。

「さて子機達。次元縫合しちまうぞ」

 男の腹が開くと同時に蟲のような不気味な機械が幾つも飛び出し虹色の光を瞬く間に消してしまう。

「こんにちわ。お嬢さん」

「あっ、ここ、こんにちわっ!!」

 動揺でまるで思考の整理がつかないルフサの横に気が付けばスーツ姿の女性が立っていた。

「……」

 柔和な笑みを浮かべた女性はルフサの眼から見てもあまりに美しかった。

 大きな青い瞳に短く整った青い髪。世の女性、全てが望むかのような長身と煽情的な体のラインは張り付くような黒一色のスーツ越しに伝わってくる。

 同じ女性でありながらルフサは女性の笑顔に思わず見惚れてしまう。

「両手、良い?」

「あっ……はい」

 ぽーっとして何も考えられないままルフサは女性の言葉に従うように両手を差し出す。

 ガチャリ。

 ──綺麗な人……ガチャリ?

 聞き慣れない音にルフサはおもむろに首を傾げて手首を見た。

 冷たい金属の感触。

 ──手錠?

 ドラマなどで見る手錠と形は一緒だが、その表面には幾何学模様が幾つも刻まれ不気味に発光している。

「あのー……」

「フフフ。ゲズゥ、対象を無事確保したし帰るよ」

「こっちも次元縫合完了だ。ほれ、お前たち、戻って来い」

 ゲズゥの体のなかに再び子機が戻って行く。

「確保って……」

「さてと、よっと」

「ウヒャッ!?」

 何ら苦も無く女性はルフサを肩に担いでみせる。


「そこに座って。お茶出すから」

「あっ、はい」

 さっきまで車が走り回る道の傍にいたのに気が付けばルフサは建物の一室にいる。

 連れてこられたのはどことも知れないマンションの一室……のはずだが右も左も巨大な本棚が地平の果てまでずらりと並んでいる。どれだけ巨大な建造物のなかにいるのかルフサには想像もつかない。

 先が見えないほど奥まで並べられた本だなは遥か高い天井まで伸びている。

 その本棚に囲まれた中央におまけ程度の真赤なソファーとこの空間にまるで似合わない豪奢な机が用意されている。

「さてと、僕もお茶を飲もうかな」

 ゲズゥは横に座ると薄汚れたローブを脱ぐ。八割が機械であり、残り二割も人かどうかすら怪しい体が露になる。

 人に備わった適応力と言うものをルフサは強く感じた。二度目にゲズゥの体を見たところで驚かなくなっている自分がいる。むしろ興味からじっと見てしまう。

「ん? なんか話しでもありそうだね」

 機械の赤い瞳がルフサを見た。

「あのー……この手は……」

「まあまあ。落ち着きなよ」

「は、はあ」

 赤い単眼が機械音と共にルフサを見た。

 いまだ自分の状況がまるで理解できないルフサはゲズゥの言葉通り、気の抜けた返事と共に茶が出てくるのを待つしかなかった。

 この状況で出来ることなど何もない。その結論に至るまで深く考える必要など皆無だ。

「お茶が用意できるまでにその漂流者のこと調べてよ」

 奥から女性の声が聞こえた。

「わかってるって、ちょっと失礼。分析しちゃうから」

「あぐっ!」

 機械の腕がおもむろにルフサのかけた眼鏡をそっと外すと、瞳を開かせる。

 赤い眼が彼女の碧眼を覗き込む。

「一分だけ我慢してくれ」

「は、はい」

 ゲズゥのどこか優しい声にルフサは小さく頷く。

 たっぷりと一分間。機械の眼がルフサの瞳を覗き込んだ。その間に女性が机にお茶を置いていた。

「ありがとね」

 機械の手がぱっと離れるとゲズゥが笑う。

 顔面の殆どが機械でありながら笑うと人間味がある。

「魔回導の痕跡も見当たらない。異能器官もなし。生きるための臓器を詰め合わせてるだけ。

 どこまでいっても普通の人だね。こりゃあ。戻して問題なしだね」

「そう。じゃあ手錠外すね」

「あっ、ありがとうございます!」

 女性が指先で手錠に触れると、ルフサにはさっぱりの原理で手錠が音を立てて床に落ちる。

 手首が解放されたルフサは出されたお茶を一口飲む。味わったことのない茶だが、ここまでわからないことだらけのルフサが呼吸を落ち着けるには十分なものだった。

「はあ……」

 改めて自分の周囲を見た。

 何千、何万と並んだ本は際限なく奥まで続いている。

 背の高い本棚の隙間から覗く天井はカラフルなステンドグラスだ。

 ここだけでなく、異形の者たちが蠢き犇めき合う街並み。

 冷静になればなるほど、自分のいる状況がルフサは理解できなくなってくる。

 虹色の輝きに惹かれたと思えばこの状況だ。

 このわけもわからない世界で唯一頼れるのは……

「ん?」

「なに?」

 理解不能な二人だけだ。

「自分の置かれてる状況の説明が聞きたそうな顔してるね」

「わ、私の考えてることがわかるんですか!?」

「いや、全然。ただ言ってみただけ。とは言え図星みたいだしゲズゥ。説明してあげて」

 気の抜けた態度でスーツ姿の女性は手をひらひらと振ってみせた。

「いいよ。君は説明下手糞だからね」

「私は肉体作業派なの。ちょっとボスを呼んでくるね」

 手を振ったまま女性の体はまるで空気に溶けるかのように消えてしまう。

「……消えちゃった」

 唖然とするルフサを前にまるで何事もないかのようにゲズゥは茶を啜る。その音が静寂に包まれた空間に静かに穏やかに響く。

「さて」

 とん、と音をたててコップを置いたゲズゥの赤い単眼がルフサを見た。

 機械音が目立つ赤い瞳の輝きはどこか困ったかのように見える。

「んー、とりあえず簡単な説明しちゃうけど、理解できるように君も頑張ってね」

「えっと……お手柔らかにお願いします! 頑張ってついて行きますのでっ!」


「それじゃあ説明しようか」

 どこからともなく運ばれてきたホワイトボードを前にゲズゥの背中から這い出た機械の腕が三つも四つも同時に躍る。気が付けば四脚で動く子機達もルフサの周りで踊っている。

「お、お願いします!」

 まるで生徒と教師の関係のようにカチコチに緊張したルフサはソファーに礼儀正しく座り身構える。そのなかでゲズゥはホワイトボードの中心に小さく円を描き、それを囲むように幾つもの円を描く。

「この中央の円が僕らの次元のロンドミリオンだとするね。全ての次元に繋がる唯一にして絶対の次元。そしてこことは別の次元が幾つもある。君が元居た次元はこの周囲を巡る何万、何億、何兆、何京とある次元の一つなわけ。わかる?」

「はあ……なんとなくですけど」

 じつのところ何も理解できない。ただ、自分の現在地が幾つもの描かれた円の中心にいることだけはぼんやりとだがわかる。

「ロンドミリオンと周囲の次元は普段、僅かな距離を保って離れてるんだ」

「はあ」

 ホワイトボードに描かれた中央の円と周囲の円の間に僅かに隙間が空いている。

「ただこの隙間が様々な理由や周期によって接地する瞬間がある。その接面に生まれる次元の穴に凡人の君は入っちゃったわけ。わかった?」

「つまり私はその事故みたいな瞬間に触れてこの世界に来ちゃったってことですか?」

「御明察。理解が早くて助かるよ。それじゃあ以上」

 ゲズゥはそう言うとボードに書いた円などを全て消す。

「えっ……それだけですか?」

 機械の顔に似合わない明るい声で終わりを告げられたルフサは間抜けな声が漏れる。

「それだけだよ」

「その……別世界ってことはわかったんですけど、私は元の世界に帰れるんですか?」

「うん」

 赤い単眼が機械音を鳴らして輝く。

「君の来た八四〇〇一二次元の周期だと次の次元接地が……ちょっと待ってね。今、計算してるから……一二時間後だね」

「半日後ですか」

「運が良かったね。自然接地の周期だとその次が二〇四万年後だからね」

「二〇四万年後……」

 それがどれだけの時間かまるでピンと来ない。それだけ生きた人はルフサの元居た世界には居ない。

「まあ半日だよ。時間前になったら僕たちが責任を持って君を穴まで送るよ。とは言っても送るのは僕じゃなくてオルだけどね」

「あ、ありがとうございます!」

 ──半日……

 長いような短いような時間だ。本の世界に入り込んだ不思議の国のアリスよろしくのルフサとして異形蠢くこの世界は興味が尽きない。ゆっくりと深呼吸をし、思考を整理し、落ち着くと今度は次第に強い好奇心が湧いてくる。

「そ、それじゃあ少しくらい散歩しても大丈夫ですよね」

「それは辞めといた方が良いと思うよ。君がこの別世界に興味あるのはわかるけど食品より棺桶が売れる町だからね。凡人の君が歩けばそれこそ数分で肉塊になるよ」

「……そ、そんな物騒な町なんですか?」

「物騒だよ。見て来たい気持ちはわかるけど、五体満足で元の世界に戻りたいならここで大人しくしてるほうが良いと思うよ」

 爆発や悲鳴が日常として満たされた世界。ルフサからすれば好奇心を満たすために自分の命を天秤にはかけられない。

「ったくよぉっ! やっと仕事が終わったぜ!」

「あっ、おかえり」

 扉を蹴り飛ばすように開けたのは赤い毛が目立つ人狼だ。ただし、その首は手に抱えられている。喋っているのはとうぜ太い腕に抱えられた顔だ。

 赤い毛並みには緑の液体がべったりと着いている。

「だいたい、俺の仕事が辛すぎねえか? ボスは本当に仕事を平等に分けてるのか? 俺一人で魔亥獣一〇〇体の処理だぜ!」

「弱い奴だしジェット一人で大丈夫じゃん」

「数が多いんだよ。無駄に時間もかかるしよぉ。見ろよ。自慢の毛があいつらの血でこんなふうになっちまって」

 体中にこびりついた緑色の返り血に、腕に抱えられた狼の顔は不機嫌に眉を寄せる。

「あのー……大丈夫ですか?」

「ん? お前誰だよ?」

 腕に抱えられたまま顔が近づく。つんと尖った先が黒いマズルと鋭い牙。近づいてみれば見るほど狼そのものだ。

 険のある目つきと苛立ちの混じった顔にルフサは思わず後ろへ一歩下がってしまう。

「漂流者だよ」

「次元を超えてきたってことはお前もなんかスゲエ力を持ってるのか? なあ!」

「えっと、あの!」

「なんだよ。歯切れの悪い奴だな。はっきり喋れよ! なあ! おい!」

「あぐっ!」

 人狼の手がルフサの頬を握る。殺意にも近い威圧感を宿した金色の瞳がルフサを容赦なく睨みつける。

「ジェット、その子はただの凡人だよ」

「なんだよ。そうならそうと言えよ。しっかし女だろ。色気のねえ恰好してんな」

「ひゃっ!」

 手を離されたルフサの体が床に落ちる。

「あ、あの人、首取れてますけど大丈夫なんですか?」

 ジェットと呼ばれた人狼が正直怖かったルフサはゲズゥへと言葉を投げつける。

 機械の体だが、ゲズゥの対応は比較的良心的だ。今、迷える子羊と化したルフサが頼れる唯一の存在だ。

「ジェットは大丈夫だよ。不死者(ノーアンサー)の一族だから。

 首が取れようと、真空状態にされようと、細胞レベルで木っ端されようとも死なないから」

「……それは生き物ですか?」

「そこをはっきりさせるなら死と生の定義を語る必要があるけど、それを僕と半日語る?」

「え、遠慮しときます」

 ジェットは首を元の位置に置く。

 切断されていた境界線は赤い毛に埋もれるように消え、首はまるで何事もなかったかのように元へと戻る。

 異質すぎる光景を前にルフサは口を半開きにしたままそれを見ていることしかできない。

「なんだよ? 俺の顔になんかついてんのか?」

「あ、いや……」

「だからはっきり喋れよ」

 威圧感のあるジェットの狼顔を前にルフサは金魚のように口をパクつかせることしかできない。

「珍しいんだよ。彼女の世界だと首が外れないみたいだしね」

「んだよ。これがそんなに珍しいことか? ほーれほれほれ!」

 再びを首を外したジェットは自分の顔でお手玉してみせた。

 にかりと笑った狼の顔がジェットの手の上で踊るように回ってみせる。

「うっ! 気持ち悪い! オェッ!!」

「君は馬鹿か。吐くなら他所で吐いてくれよ」

 ゲズゥの容赦ない言葉を背にジェットは首を戻すと床に跪く。

 どうやら目の前の人狼があまり頭が良くないことだけはルフサにもわかった。

 ──半日もこんな場所で何をすればいいのか……

 入ってきた扉の向こうは爆破音と悲鳴が日常の背景と化した世界だ。そこから一歩でも出れば何ら特別の力を持たない彼女が生きることはできないだろう。

 この部屋で出来ることなど一つしかない。

 先が見えないほどずらりと並んだ本棚。そこに規則正しく収まった際限のない本の数々。その一冊をルフサはおもむろに手に取る。

 ──読んじゃって大丈夫だよね……

 恐る恐るルフサは手に取った本の表紙に手をかける。灰色のまるで色味のない表紙をした一冊だ。

「ちょっと待った」

「あっ、読んだら不味かったですか!?」

 開こうとするルフサの手に機械の手が乗せられる。冷たく生気のない感触にどこか背筋が寒くなる。

 気まずそうなルフサの声にゲズゥの不気味な赤い眼が輝く。

「その本はただの本じゃないよ。ほれ。ジェット!」

「ん? なんだこの本──な、なんだこりゃ!?」

 投げられた本をおもむろに開いたジェットの顔に、本から飛び出した鬼が噛みつく。

 引っぺがそうと全身を使うが、それでもジェットの顔に食らいついた鬼はなかなか離れない。

「それはウチのボスが封印した奴だから開くと化け物が出て来ちゃうよ」

「ったく! いい加減に離れやが──っれ!」

 頭部が見事に食われてるジェットはバンと音をたてて本を踏みつけるようにして閉じた。そのうえで何度も何度も踏みつける。

「この本全部ですか?」

「たぶんね。

 でも、本当にヤバイのはこういう風に厳重な魔導錠で封がされてるから大丈夫だよ」

 そう言ってゲズゥが取り出した一冊には本が開かないよう厳重な封がされている。

 決して開くことのできない不可侵の魔回導。

 幾万の回路によって成り立つ一つの封印術式。

「……」

 ──私だったら死んでますね

 頭部が無いまま騒いでいるジェットを見ながらルフサは背筋が寒くなる。

 ここに一体どれだけの本があるのか想像もつかない。その一冊、一冊にジェットの顔を食らったような化け物が封印されているかと思うと、外以上にここの方が危険な気がしてならない。

「ほらこれなんて開けようと思っても開かないでしょ」

「ほんとですね」

 おもむろにゲズゥが本棚から取り出した一冊をルフサは受け取った。辞書のように厚いその本の表紙は記号を組み合わせた術式で固められ、決して力では開くことができない。

「開かなければ問題ないから。まあどちらにしても大人しくしてることがおすすめだね。半日もすれば元の世界に帰れるんだし」

「はい」

 ──その通りだ。

 半日など決して長い時間ではない。それをただここでソファーにでも座って過ごしていればいいのだから、それは決して難しいことではない。

 ──こっちだ。

「ん?」

 ──こっちに来い

「誰?」

 頭に直接響くような声。ルフサは声のする方を見るが続いているのは果てしない本棚だけだ。

 どこかで聞いた覚えのある声だ。

 声のする方向に呼ばれるままにルフサは歩いて行く。

 ──そう。こっちだ。こっち。いいぞ。

 重たい声が次第に明るいものとなっていく。

 ──そこだ。止まれ。右を見ろ。

「右?」

 声のままに顔を向けると、そこにはあまりにも欲望をそのまま輝きに変えたかのような赤黒い光を宿した本が収蔵されている。

 他の本とはまるで違う不気味な威圧感。

 嫌な予感がルフサの全身を駆け巡る。しかし、その赤黒い光に魅了されるかのようにルフサの手がその本に伸びる・

 ──わかるだろ。そうだ。それだ。さあ! 手に取れ。

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