短編集
スプレーノ
救いの御手
コチコチと、秒針の音が鳴り響く。どうやらそんなに電池の残量がないらしく、音の間隔が少し広い。
小さい時に、ランドセルと一緒に買ってもらった勉強机。少し背伸びした服が入ったクローゼット。時計の秒針。そして、ベッドの上に座ったまま動けない私。それだけがこの雨戸による人工的な暗闇を支配していた。
「私、ダメだなあ」
小さな声で、静寂を殺すようにつぶやいた。その微弱な空気の振動は、私以外のこの場の支配者たちに吸い込まれていった。
最近たまに思うのだ。自分という存在は、本当に存在する価値はあるのか。もしかすると、本当はもう存在すらしていないのではないか。
ため息もつかず、ただただ1点を見つめるだけ。それだけで様々な思いが浮かび上がる。私という存在は、何によってあるのか。そんなデカルトみたいな事を考えることだって出来てしまう。
常にこんな事を考えている訳では無い。今日はそんな日だった。ただそれだけだ。それだけで、私の心からはふつふつと、黒く、べっとりとした、血のような何かが溢れてくる。それを飲み干すのも、いつも通りであれば出来るのだけど、今日はどうにも無理らしい。放置しておくには、あまりに危険なその何かだけど、その粘着力は、どこかで傷ついた私の心を、修復したように見せかけるのが得意なようで、甘く、甘く私の心を麻痺させていく。その感覚に溺れるのが、どうにも心地よかった。
今日はなぜこうもダメなのか。別に、特別なことがあった訳では無い。学校に行って、空気役を演じて、聞こえるように言われた罵詈雑言を吸収しただけだ。いつも通りの日常だ。特別なことは、強いていえば、早退してしまった事ぐらいだろうか。
そう。私は俗に言ういじめられっ子だ。最初はそうでもなかったのだが、私の両親が離婚し、私を引き取った母が事故で死に、父と連絡ができなくなった辺りで、私はいじめられっ子になった。
どうやら彼らにとって、親が授業参観に来ないことや、三者面談にも来ないことは、とんでもなく異質な事だったようで、 巷では、私が近くにいると死んでしまうなんて言われているようだ。別に黒いノートとか持っている訳では無いのだが。
そういう訳で、私はクラスの空気役だ。ただし、本物の空気と違うところは、別に居なくても問題ないということ。私が居なくても、学校は普通に授業を行うし、生徒も普通に登校してくる。いっそ私が本物の空気であれば、姿を暗まして、世界の全員を巻き込んだ心中でもしてやろうとも思った。
…そうか。その手があったか。空気役をやめる術。それをひとつ思いついた。やってしまうと、親不孝者だとか言われてしまうのだろうけど、そんな親はもういない。ついでに止めに来る友達もいない。世界の全員を巻き込むようなことは出来ないけれど、いつも同じ事しかできない学校にとっては、ちょっとしたサプライズになるだろう。
どうせなら、あまり苦しくない方法で逝きたい。そう思って、練炭を選んだ。これを、車に持って行って火をつけるだけ。なんだ、簡単じゃないか。炭は、父がまだいた頃のものが残っている。父は、七輪で焼いた魚が好きだったから。
家にある車は、母のもの。結局私は、どうしようもなく親に頼らないといけないらしい。それがどうにも歯痒くて、やっぱり私はダメなやつだと思った。ただ親の遺したものを使うだけなのに。これまでだって、母や父が稼いだお金を甘受して、もういない二人に依存していたのも事実だろうに。独りになったというのに、自立すらしようとせずに。
そんなダメ人間をこの世から合法的に消せるのだと思うと、さっきまで動かなかった足は割と軽快に動いてくれた。
インターネットの情報を頼りに、眠くなりやすい薬を飲んで、母が遺したキツめのお酒を車に運んでおいた。そして、主役を押入れから取り出して、車に運ぶ。誰かに見られてしまったら、その時点で止められるかも知れなかったので少し緊張したが、今は平日の昼間だ。荷物も頼んでいないし、誰も来るはずがないと思うと、緊張が和らいだ。
いよいよ、新しい旅立ちだ。車の中でお酒を呑みながら、見慣れた家をぼんやりと眺めると、父と母の仲がまだ良かった頃の記憶が戻ってきた。涙こそ出なかったが、泣きそうな気分になった。あの頃は、まだこんな性格じゃなかったのに、どうしてこんな事になったのだろうか。…暗い気持ちを一緒に飲み干すように、もう一口お酒を飲んだ。
どうやらアルコールに弱い体質なようで、呑むとすぐに眠くなってきた。忘れずに七輪に火をつけ、後部座席に横になった。そこで、遺書を書くのを忘れていた事に気づいたが、どうにも眠気に勝てそうもなかったので、諦めた。勝手に推察でもなんでもしてくれればそれでいい。
そう思って、意識を手放した。
私のクラスでいじめがあった事は、認知している。彼女が早退してしまった今日、言いにくかった事を言わせてもらった。その他に、彼女へのいじめを無くす術は見当たらなかった。
彼女は、中学生にしては過酷すぎる境遇にある。それに、優しい彼女には、いじめっ子達を、犯罪者とは見られなかったようだ。
いじめは紛うことなき犯罪行為。まだ、殴る蹴るというレベルまで達していなかった事は不幸中の幸いと言えるだろう。それでも、充分彼女の名誉は失われているのだから、犯罪だ。
その事をいじめっ子達に話し、既に罪を犯した事を伝えると、青ざめて言い訳をしていたが、私にされても困ったので、明日土下座でも何でもして許してもらえとだけ言い残した。
どうにも胸騒ぎがする。彼女の事を考えると、嫌な予感が起こるのだ。
急いで彼女の家に向かうと、どうやらその胸騒ぎは、私だけにあった訳では無いようで、私のクラスの男子生徒が、自転車を飛ばして学校を去るのを見かけた。
車で追いかけて、声をかけたところ、やはりそうだったので、自転車を後部座席を上げて作った収納スペースに入れさせ、助手席に乗せた。
常に最悪の事態を想定しておくべきだが、今回ばかりは、考えたくなかった。
彼女の家に着くと、彼は、一目散にインターホンを押しに走った。しかし、誰も出ない。誰もいない?そんなはずはないのだ。彼女は、既に家に帰っているはずなのだから。
ふと、車が目に入った。瞬間、嫌な汗が吹き出した。車に近づくと、彼女が眠っていた。見たくもなかった、七輪のおまけ付きだ。車のドアにもロックがかかっていたので、後で弁償すればいいと思い、窓を割り、ドアのロックを開けた。
「おい!しっかりしろ!おい!」
彼が懸命に声を掛けるが、なんの返事もない。
そこで救急車を呼んだのは確かだが、この後、私は何をしていたのだろうか。うっすらと、誰かが心肺蘇生法をとっていたような記憶があるが、果たしてそれは、本当に私だったのか?今となっては、確かめようのない事だ。
病院に搬送され、適切な処置を受け、彼女の命は救われた。
しかし、最近こう思うのだ。
彼女にとって、死とは、ある種の救済だったのかもしれない。彼女のケースにおいては、命を捨てたと言うより、命を逃がしたという方が、正しかったのかもしれない。
そして、その命をもう一度捕らえたのは、紛れもなく私。
私は、どうすれば良かったのだろうか。
短編集 スプレーノ @mahoroba219
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