第2話 謎は転ぶ(まろぶ) 其の一
人間。其は時間の見えない手によって操られる凡愚な生き物。だが、其らが紡ぐ謎の芳醇な香りが僕の好物だ。幾多もの人間が入り混じって凝縮され創り出される。そして、同じ香りは一つも存在しない。
部屋のテーブルのカップから漂うあの黒い液体の香りとは雲泥の差の一品。
しかし、生物界で一番の知恵者と自称する人間はその事を理解出来ずに今日ものほほんと過ごしている。僕と対峙している結花を含めて。
「ねぇ、クロネ。どうして男の人ってコロコロ心変わりするんだろうかねぇ?」
コーヒーを啜って一息つき、彼氏にでも媚びるかのような甘ったるい声で結花は僕に話しかける。因みに現在、結花に彼氏はいない。2日前に振られたのだ。いや、男の方が掴み所の分からない結花から他の楽な女に乗り換えたのだ。自分から付き合って欲しいと言ったにも関わらず。
それで、結花は同じオス(男)の僕に先程の質問をぶつけてきたのだ。男友達とかじゃなく猫の僕に。
先に述べておくが、結花は別に頭がおかしい訳ではない。男友達に話したところでどうしようもない事を既に理解している程先見の明に長けている、人間の中では割りと賢い方である。
それに、結花は漠然とした答えならもう自分の中に持っている。だが、結花はその答えに満足していない。だから僕に尋ねたのだ。謎をより謎めかせるためにーー。
これが最初僕が結花のことを変わっていると言った理由だ。そして、男が逃げた理由でもある。
「やっぱり私のせいかなぁ?」
僕はテーブルの上にピョンっと飛び乗り、テーブルを前脚で二回軽く叩く。NOの返事を示す為に。
当然ながら僕は猫なので言葉を話せない。また、結花は僕の話すネコ語を理解出来ない。
そこで、僕はYESなら一回、NOなら二回テーブルを前脚で叩くことで意思疎通することにした。最初の内はただ甘えているだけと見なされていたが、勘働きの良い結花は次第に僕の想いを汲み取ってくれるようになった。
それにしても、人間の男も女もどうしてこう馬鹿なのかと僕は思う。いや、僕だけではないだろう......。
人間の周りにいる動物達のほとんどが呆れているだろう。声にしないだけで。顔に出さないだけで。
まぁ、僕達が言葉を使ってコミュニケーションを取らないことが人間にとってのせめての救いだろう。
そうでなかったら、今頃街は凹みまくりの人間で溢れてしまう。
......って、そんな事はどうだっていい。
人間の色恋なんて他人から見れば所詮はつまらないものでしかない。
そこに謎があるなら話は別だが。
僕は結花に歩み寄り、テーブルを三回前脚で叩く。謎の催促の合図である。
つまらない色恋の話に飽きたのだ。まぁ、似たような話を以前にも聞いた気がするからであろうが......。
「もぅ、クロネったらまた面白い謎めいた話を聞きたいのぉ......」
テーブルを前脚で一回叩く。
「私の話より謎めいた話の要求って......冷たいぞ、クロネ!」
結花が頬を膨らまし抗議するが、僕はすまし顔でそれを無視する。そして、再び三回前脚で叩く。
「仕方ないなぁ。......じゃあ、昨日マスターに聞いたお話をしてあげるね」
僕はテーブルから飛び降り、いつもの指定席に着く。結花の膝の上。此処で結花から謎めいた話を聞くのが僕の楽しみなのだ。
寛いだ姿勢をとるが、耳だけは感覚を研ぎ澄ませる。一言一句漏らさぬように。
「......実はね、昨日マスターしかいなかった時間帯に奇妙なことが起こったんだよ」
結花はアパート近くの喫茶店『紅』で働いている。志望動機は色んなお客さんが面白そうな話をしているのを聞くのが楽しいから。普通そんな理由で勤めたいと言ったら門前払いだ。だが、マスターが結花の叔母ということもあってすんなりOKされたらしい。
また、オススメのチーズケーキなるものが招き猫以上に客を招き地域で一番繁盛している。
僕も少しだけ賞味したが、中々だった。
「マスターがいつも通り接客してたら、女性客の一人が電話を貸して欲しいって言ってきたんだって」
......フムフム。
「まぁ、携帯を忘れたか電池が切れたかのどっちかだろうと思って、マスターは快くお店の電話を貸したの」
中々興味深い話に僕は耳をピクピクさせる。
「でもね、その女のお客さん、携帯を片手に電話してたんだって。可笑しなお客さんでしょ?電話したいのなら自分の携帯を使えばいいのに」
携帯と店の電話を使う奇妙な女性客。今日の話は面白くなりそうだと僕はほくそ笑む。
「それでね。5分程電話して、飲みかけのコーヒーを急いで飲み終わってからお店を出たの。ーー携帯を忘れて」
結花は最後の部分だけ抑揚を強くする。自分の中で色々と推理し、其処に引っかかりを感じたからであろう。
「あぁ、そうそう。その女性客の特徴だけど......見た目30代前半。服装はおとなしめの私服だったみたい。15時頃って時間帯を考慮すると、買い物途中の専業主婦のお客さんってところじゃないかな?でも、何処に電話をしたんだろ?それに何で店の電話を使ったんだろ?」
フムフム。僕は結花から聞いた話を頭の中で転がし考える。一見単なる客の奇行のようにも思えるこの話に僕はあらゆる可能性を摸索する。
ピンポーーン。
誰かが訪ねてきたみたいだ。
今は僕の至福の時だというのに。
「あっ、叔母さん」
結花がドタバタと玄関に向かい対応する。来客は結花の叔母の実花らしい。僕は正直実花の事が嫌いだ。ーーいや、違う。実花の性格が嫌いだ。
そう僕が思うようになったのは結花が僕を拾った翌日のことである。
その日、結花は僕の名前を何にしようかと朝から思案していた。そして、名前の候補として考えられたものがテーブルの上の紙に列挙されていた。
ルノワール、
ポワロ、
ブラック、
ホームズ............
どれも悪くはない名前だ。''猫だからタマ"なんて安易に命名する困った飼い主もいるが結花は違うらしい。だが、当の結花はどの名前にするべきか悩んでいた。そして、そこで現れたのが温泉旅行帰りの実花だった。結花にお土産を渡しに立ち寄り、僕の名前は何がいいかと問われてとんでもない発言をしたのだ。
『......そうねぇ......あっ、捨て猫だから単純にステネコっていうのはどう?ユニークでいいんじゃない?』
ス、ス、ステネコ!?
実花の考えた名前に結花だけでなく僕も結花の腕に抱かれながら唖然となる。だが、それも束の間僕は暴れて抗議する。
ルノワールやホームズみたいなかっこいい名前じゃなくてもいいが、その名前は酷すぎる。百歩譲って平凡な名前なら許そう。
しかし、ステネコは......
タマ以下の名前じゃないか!!
ユニークだとしても呼ばれる僕としては堪ったもんじゃない。
却下だ!却下!!
「ステネコは流石に可愛いそうだよ、実花さん」
結花が実花の酷い案を棄却する。
そうだ!そうだ!もっとちゃんと考えろ!!
自分の飼い主がまともな感性の持ち主で僕はほっとする。だが......数秒後、僕は裏切られる。
「まだクロネコの方がいいよ!ステネコって名前よりは」
ク、ク、クロネコ!?
ステネコの次はクロネコって......僕は拾われる人間を間違えてしまったのだろうか??
頭を上げ、改めて僕は飼い主の結花を見る。段ボールの中から救い出してくれた時は後光が差しているように感じられたのだが、あれは単なる錯覚だったのだろうか?
見たまんまクロネコって......
それにさっきまで紙に書いて考えていた案はどうした?
抗議するべく僕は結花の腕の中から飛び降り、テーブル上の紙を咥えて戻る。
「あら、何か咥えてきたわよ、結花」
「あぁ、さっきまで考えてたこの猫の名前の案だよ」
実花が僕から紙を取って眺める。
「ルノワールって......この猫には分不相応じゃない?他の名前も......」
名前の一覧を見て実花は首を傾げながら言う。
「えぇ?じゃあやっぱりクロネコ?でもクロネコじゃあなんかしっくりこないんだよね」
ちょっと待て!結花!
クロネコの方が僕には分不相応だ!
僕は結花に名前の熟考を求めて声を上げ抗議したのだが、その声は届かず......。
「そうだ!クロネ!子猫じゃないからコを取ってクロネ!」
「あら、斬新な名前じゃない?」
何処がだ!
こうして僕の名前はクロネに決まった。再度抗議しようかとも思ったのだが、タマやステネコよりは良いかと思い直しやめにした。
......とまあ、少し昔話が長くなってしまったが、そんな経緯があって僕は結花の叔母の実花に対して嫌悪感を人並みならぬ猫並に抱いているのだ。
ステネコなどと安易に物を考える悪女として。
今回も何処かに出掛けたらしく、土産を結花に渡しに来たみたいだ。
「今回は友達と近所に出来た甘味処に行って来たの。はい、これお土産のクッキー」
「わぁ、いつもありがとうございます、実花さん」
「いいのよ、別に。それより結花も少しは外に出掛けたらどうなの?」
「んー、私はどっちかと言うとインドア派だから。......あっ、お茶入れるから実花さん上がって」
「ええ。お邪魔するわ」
僕は邪魔にならないようにテーブルの下で丸くなる。
「結花は今日もクロネと遊んでたの?猫とじゃれ合うのもいいけど、たまには男の子とも遊ばないと!」
「でも同世代の男子ってなんだかつまんないんだもん」
今日も二人はずけずけ物を言う。
「それで今日もミステリーに耽ってたの?」
「うん、昨日実花さんに聞いた話をクロネに聞かせてたとこ」
結花は再びあの黒い液体が注がれたカップを台所からテーブルに運ぶ。
「あぁ、あの携帯電話を忘れた女の人の話ね」
「うん、奇妙なオバさんの行動について色々と考えてたの」
「駄目よ、結花。オバさんじゃ失礼だわ!そういう時はご婦人っていうのよ」
僕の時は平然とステネコって言っていた口がよくそんなことを言えるな。僕は聞き耳を立てたまま呆れる。
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