第3話 お祝いと水菓子

 太陽が川の向こうへ沈むと、山から夜を連れてきた空気がアレリアの街をしっとりと冷やしていく。ぼやけた街燈の奥、路地裏の赤い看板に寄り掛かり小さな扉をじっと見つめていたディンは、吐く息が僅かに白くなっている事に驚いた。

 谷底ならまだしも、ジオの王都ではまだここまで冷える暦じゃない。二月ほど前、この街に来た時はもう少し暖かかったと思う。それが川を泳ぐのに丁度いい季節になったと思ったら、すぐに水の中の方が暖かい位の朝が来た。


 ひょっとして山の暮らしと言うのは谷のそれに似ているのかもしれないと考え、薄く笑い、冷たくなった鼻の頭を少し撫でた。


 それから退屈しのぎとばかりにポケットから取り出した変てこな『あの川の主』をしげしげと見つめてみる。魚にしては身体の部分が太くて丸い、その横のひれの具合も大きく長くて何だか妙だ。少なくとも、ジオの食卓に乗っていた魚とは似ても似つかない姿をしている。そもそも『あの川』とはどの川なのか。『川』と言ったからには、『フォリオ河』とは違うのか。思い出すのは、その言葉を口にしたときのトレスの表情。


 結局聞きそびれてしまったが、『さあ今から面白い事を言うぜ』とでも言いたげな少し皮肉なあの顔は――。


 そこまでを考えた所で、人の気配に路地裏の少年は顔を上げた。すると、目的の扉がゆっくりと開き、ひょろりとした眼鏡の男とふっくらした女が現れた。何やら楽しげで、それでいて少し寂しそうな声の調子で後ろの人間と話している。それと同じ様な表情で振り向き歩く男女の顔がいくつか扉から続いて来ると、最後の最後、一段下がった高さに金色頭がふわふわと揺れ出てきた。


 荷物の入ったバッグを肩にかけ、小さな花束を胸に抱いたそいつが、薄暗い影に立っていたディンを見つけて手を振った。


 それをディンが無表情に見ていると、彼女は一瞬周りの連中とディンの方を見比べて、それから彼らにぺこぺこと申し訳なさそうに頭を下げてタタタッと駆け寄ってくる。


「お待たせしました。行きましょうか」

 と顎の辺りで揃えた金髪を揺らす相棒の青い瞳に、いつもと違う影を感じたディンは。


「……何か、あったのか?」


 と問いかける。するパルムは困ったように笑いながら。


「えっと、何と言いますか、この後私のお別れ会をやらないかと誘われてしまいまして」


「…………行かないのか?」


「ええ。せっかくの申し出をお断りするのは胸が痛みますが、私は明日とっても早く起きる予定ですので」


 確かに明日は、次の旅――首都方面へと向かう冒険の始まりの日だ。その第一目標として、朝一番の特別号でカズアール遺跡を拝みに行く予定になっている。

 しかしまあ、そうは言っても。


 自分の言葉にこくこくと頷く金髪に、ディンは眉根を寄せて言う。


「別に、俺は外で待ってるぞ」


 パルムはわざとらしく溜息を吐いた。


「良いんです。もう十分お別れと感謝は述べましたし、こんなに素敵なお花や贈り物も頂きました。美味しいご飯もさんざん賄ってもらって、これ以上望むモノは何もありませんので」


「いや、つっても、今日くらいはさ――」


 せっかくのただ飯のチャンスだぞ、と言いかけたディンの言葉を再びパルムの盛大な溜息が遮って。


「それに、怪しい男性に外で待たれていたらなにかと心配で積もる話も積もりませんから」


 良く冷えそうな高い鼻をツンとさせて言ったパルムシェリーは、店の方をくるりと振り向き、手を振る同僚達に深く美しく頭を下げると。


「さあディンさん、参りましょう」


 ジオで言う所の《笑顔》と《夢》に溢れた花束を愛おしそうに抱きしめ、胸を張って街燈の下を歩き出した。


 その背をしばらく眺めていたディンは、自らも客として世話になった店人に軽く会釈をしてから華奢な相棒の背に追いついて、黒髪をくしゃくしゃやりながら。


「あのさ、俺なら本当に気にしなくていいぞ。終わる頃にゃ勝手に迎えに行くさ」


 そんな男に、パルムはふんと鼻を尖らせて。


「結構です。私はもう決めたんです。ディンさんの意見や自分の気持ち、やりたい事とやるべき事。それらをきちんと整理して、私がこうすると決めたんです」


 そこで少し立ち止まり黒髪の相棒の肩に金髪頭を並べた少女は、手にした小さな白い花の様な笑顔を浮かべると。


「それに、気にしない訳にはいきません。ケチで目付きの悪い我が相棒は、きっと愛しの私を待っている間に風邪をひくか見回りの方にしょっ引かれて行ってしまうでしょう。そんな事になったら明日の予定に支障が出ます。これは迷惑、相棒失格ですね」


 街燈の影に青い瞳をいたずらっぽく輝かせ、大分肉付きの良くなった肩をディンの腕にべしべしとぶつけてくる。


 その台詞を聞き屈託のない笑顔を見ても、ディンにはまだすっきりしない部分があって。それを誤魔化す様に右手で耳の上を掻いた。


 《夜道を一人で歩かせない》。


 これはディンが言い出し、勝手に決めた事だった。


「大丈夫ですよ、分かっています。ディンさんは私が大事でしょうがないんですよね。はぁー、まったく、ちょっと優しくしたらこれです。モテない男性は困りますねっ」


 それをこいつは心配性だとか子ども扱いだとか笑うけれど、多分本当はそのどちらでも無い。


 光の当たらぬ谷底で殺し屋と傭兵に闘い方と谷を行く商人の荷の奪い方を教わり育ち、その教えを実践して生き延びた様なはぐれ者には、他人を信用できないだけなのだ。


 世の中には闇があり、人の中には悪がある。


 ましてやこの金髪は、夜道を歩く華奢な美女だと言う以上に誰かの悪意や正義に狙われる素性の人間で、例え昨日まで真面目で優しかった奴でも、目の前に金を積まれれば何かを見て見ない振り位はしてしまう。

 だから仕事が終われば迎えに来るし、買い物があるなら付いて行く。闇の中であまりに目立つ金髪が僅かに夜の廊下を歩く時でさえ、視界を外れると嫌な予感にさいなまれる。


 それが一人の女の人生の邪魔になるとしても、冒険の相棒としての務めなのだと言い聞かせて。『今度はちゃんと歌を聞かせて下さいね』などと頭を揺らして笑う金髪の為などでは無く。要は、結局、自分の為。


 ジオ語を解する人間が多いこの街でさえ、すでに戸惑う事が多くある自分の為に。


 一つ一つを指でなぞれば何とかそれが文字だと理解できても、文章全体を見ようとすればあっという間にそこにのたうち回る線が歪んで繋がり、何語で書いてあるのかすら分からなくなる鮮やかな看板と、その前に佇む己自身を睨み付けて。


「我がまま女め」

 と、舌打ち代わりに大げさな溜息を一つこぼした。


 途端にむぅっとこちらを睨み付け通常の五倍の生意気言葉を喉元に溜めたパルムの頭を、ぺしりと叩いて。


「寄り道する。付いて来い」

 と、顎で黄色と橙の店の間の横道をしめし、すたすたとそこへ歩きだした。


「えっ? ちょっと、宿はそっちじゃないですよ?」


 などと喚く小柄な相棒がとてとてと背中を走る音を確かめながら。



 河川横の坂よりも二つ向こうの明るい大通り。看板など読めなくとも、その店のッ場所はすぐに分かった。

 店先の蒸気口をちらりと見上げ、カラリと扉を押し開ける。


『いらっしゃい』

 無愛想なおっさんの声。店仕舞いも間近らしく、職人自らガラスの棚を片付けていた。


「これを、一つ」


 避暑や観光目当ての金持ち向けの値段を並べた職人の目を見つめ、ディンはなるべくゆっくり言いながら陳列棚に二つだけ残った丸い菓子を指で示し、それから人差し指を立てて見せた。


「えっ? えっ?」


 と喜びと戸惑いの混じった声を上げるパルムを尻に、無表情のまま頷いた店主がそれを洒落た紙包みに乗せる間に菓子にしてはふざけた額の銭を並べ、差し出された綺麗な水菓子を呆けていた金髪に受け流した。


「奢りだ、喰え」

「わあ……」


 しばらく目を白黒させていた金髪の表情は、お気に入りのピョルクとか言う変てこ菓子を両手で受け取ると、徐々にとろけそうな笑顔に変わった。


「えへへ。わーい。でも、良いんですか? これ、結構高いんですよ?」


 労働者の集まるレストランならば腹いっぱいになれる値段の菓子を金色頭の上に持ち上げて小躍りを始めた相棒は笑う。

 だからディンは、努めてぶっきらぼうな顔をして店の外へと歩きながら。


「んなこた、払った俺が一番知ってる。良いから食え。あんたが頑張ってたのは、俺だって知ってるさ」


 花屋をクビになってレストランで働き始めた当初、このもじもじ芋虫はすぐにまたクビになるだろうと思っていた。配膳が遅いとか注文が間違っていたとかで落ち込んでいる様も見て来たし、実際に客に怒鳴られている所を目にしたこともあった。


 それがいつの間にか材木屋の連中とも話せる様になり、相変わらず配膳速度は遅いながらもこぼすことも間違いも無くなり、その内わざわざ川向うから遠くの橋を渡って飯を食いに来る様な奴らも出始めて、今日一日あの店は暖かい客で溢れていた。


「ただし、心して食えよ。そいつ一つで、いつも俺があんたの店で食ってた分より高いんだ」


 短いながらも懸命に看板娘を務めた少女の御退任だ。お別れ会が無いのなら、それ位の労いはあっても良い。


「ふんっふんっ♪」


 頭の上に変てこ菓子を掲げて言葉にならない鼻息を上げたパルムは、小脇に花束を抱えたまま独自のステップで店主の前へと躍り出て。


「『あのあの、これってどれ位保存が効くのでしょうか?』」


 などと馬鹿なことを聞き、難しい顔をした店主がそれに何かを答えると途端にしょんぼりした顔で扉の外で待つディンを振り返り。


「……今夜には食べなきゃいけないそうです。あーあ、これは毎日少しずつ食べようと思っていたのに、残念です」


 と手に乗せた水菓子とディンの顔を見比べると。


「……むむむ。えいっ」

 それを両手で二つに割って。

「あ、あわわ……」

 と中からまるっと姿を現した果物に慌てふためき、右手と左手に分かれた菓子を見比べて。

「……では、こちらを」

 と、果物が欠片も入っていない方をディンに向かってずいっと差出してきた。


 その潔さにディンは苦笑。


「いいから両方あんたが食え。腹、減ってるんだろ?」

「あ、いえ。私もすでに夕飯をお腹一杯頂いたので――はむっ……はあぁぁん♪」


 片手を頬に添えて遠慮なくその美味しさに身をくねらせる彼女の向こう、ふとこちらに近づいてきた店主が包みを差し出して。


「『やるよ』」


 と短い言葉と渋い笑み。それをディンは睨み返すようにして。


「……施しならいらねえぞ」


「『お前じゃねえ。そっちのお嬢さんにだ』」


 唇だけを動かす様に喋った菓子職人は、慌てて口の中のモノを飲み込んで懸命に店主の言葉を訳そうとしていたパルムの手に包み紙を握らせると、


「じゃあな、ちっこい冒険家。いつもありがとうな」


 もしゃっと不器用な笑みを浮かべて明るい店内に戻って行った。


「……『いつも』?」


 ディンの視線に促され何気なく店主の言葉を訳していたパルムは、相棒の鋭い眼光にしまったという顔をして。


「あ、いえ。たまにです、たまに。お店の休憩の時など……ホントにたまにですよ。これはあくまで、商売人の『いつも』です。えへへ。あ、これ食べますか?」


「ったく、自分の給料だからって無駄遣いするんじゃねえぞ」

「大丈夫です。この上なく美味しくいただいているので無駄はありません」


 胸を張るパルムに、ディンは笑って。


「そういう意味じゃねえよ」


 夜道に二人並んで、今度こそ宿に向かって歩き出した。


「ふふふ。あの、半分食べます?」

「いや、いい。歯に詰まるもんは好きじゃねえんだ」


「なんともったいない。ディンさんの歯なら全て取り代え式にしてでも食べる価値があるというのに。はむ」


 言い終わらぬうちに二つ目のピョルクを頬張ったパルムは、再びその美味しさにふにゃふにゃと身をくねらせた。


「……美味いか?」

「はい。とっっっても」


 宵闇を滲ませる街燈の灯りよりも甘く幸せそうな相棒の笑みに『そうか』と苦笑し、『……そっか』と顎の髭を撫でたディンは。


「『これは、なんだ?』」


 と突然に、しかしゆっくり不器用に山のこちら側の言葉を口にした。そして、


「合ってるか?」

「あ、え? はい。え? 何がですか?」


 面食らって瞬きしていたパルムに聞くと、ニヤリと笑ってその場でくるりと踵を返し、先程の店へと向かって行く。


「え? あ、あれ? ちょ、ちょっとディンさん? どうしたんですか?」


 慌ててその背を追いかけようとしたパルムを一瞬の視線で制し、ディンは通りの向こうで入口の灯りを消していた菓子屋の店主の元へと近づくと、驚いた彼に向かってポケットから取り出した何かを突きつけ、あっちやこっちを指さし、髪を掻き掻きしばらく懸命に会話を試み始めた。


 互いに睨み合う様に腰に手を当て、それから両手を使ってこうだああだと説明する様な大げさな身振り。そんな相棒の様子を遠くからじっと見つめていたパルムシェリーは、そっと組んだ指を握ってお祈りポーズ。


「……ああ空神シェーラ様、どうか彼の地で努力する若者におぼしめしを。せめて泥棒と間違えられませんように」


 祈りを空に掲げ、うんうんと目尻の涙を拭い、まるで金銀財宝を手にしてきたかのような満足顔で帰還してくる相棒にくすりと吹き出した。


 と、その時。


 通りの向こうから、トトトッと人の間を縫うようにして二人の方へ走り寄る影が一つ。


「……っ!」


 色眼鏡とマスクで顔を隠したその女の視線が相棒である金髪娘に向けられているのに気づき、ディンは一瞬全身の毛を逆立てた。


 が、しかし、慌てて小柄な相棒の元へと走ったディンのすぐ脇を、どこか懐かしい香水の匂いを残したマスク女は当然の様に駆け抜けていってしまう。


「ふふふ、もう。急に走ったりして、どうしたんですか? もしかして、私がいないと寂しいんですか?」


 安堵と自嘲の溜息を吐きながら、ディンは呑気に調子に乗っているパルムに苦笑して。

 それからふんっと意地悪に唇を歪ませると、ずいっと片手を突き出した。


「うるせえ、やっぱ半分寄越せ」


「えっ? はいっ? い、今更っ? えっ? ちょっ、これをですかっ? 完全にあと半分食べられるという計算のもとに食べていた、このパルムシェリーのピョルクをですかっ?」


 大切な宝石を奪われぬ様に半身の体勢になったパルムに、ディンはさらにずずいと片手を突きつけて。


「おう。そのピョルクを、だ」


 するとパルムはぐぐぐと悲しい顔で手の中に半分だけ残った菓子とディンを交互に見比べると。


「……えいっ」


 と痛恨の表情でそれを更に半分に千切り、小さな方をディンに差し出した。

 ぐぬぬと下唇を噛むパルムの顔に、ディンは満足そうに笑って差し出された菓子をぱくりと頬張る。


 相変わらず、甘くてふにゃふにゃだ。こいつはこんなのが好きなのかと首を捻る。


「……美味しいですよね?」

「……まあ、悪かねえな」


 恨みがましく見つめてくる青い目に、ディンは肩を竦めて歩き出した。


「うぅぅ、せめてもっと美味しそうな顔をして下さいよ~」


 と袖をくいくい引っ張るパルムを笑いながら、てくてくと宿への帰り道を歩きだす。そんな相棒に、少女が先程は何を話していたのかと聞こうとした、その時。


「待ちなさいっ! 渡し屋ディン!」


 鋭い声が、冷えた宵闇を切り裂くように響き渡った。


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