5月9日 当日、夜

第19話 光の海

 

 目を覚ました時も、少女の視界いっぱいには白い光が広がっていた。

 後ろ髪を土の中から引っ張られているように重たい頭を覚ますため、大きく口で息を吸い込む。ぎゅっと強く目を閉じて、再び開けて。立ち上がろうとした時に、やっと気づいた。視界いっぱいに広がる白い光が、自分の周りを取り囲む花から溢れていることに。


「……すごい」


 腿の辺り、一面に広がる柔らかな光が、ふわふわと瞬きながら風に揺れて波を打つ。


 それはまさに夜空に浮かぶ月の色で――紛れもなく、光の海だった。


 それは、誰かがあるわけがないと言った景色。

 だから、誰かが諦めた目的地。

 どこで誰にそう言われようと、ずっとここで輝き続けていた光る花。

 いつかきっとと思いながら、近づく事さえできなかった夢物語。


 今、その光の中に自分がいる。


 その場所に、ティッパーフィールドよりもずっとずっと近くにまで辿り着いた。


 どこにもいなかったはずの自分が、ここにある。


 胸の内側から、痺れるような嬉しさが湧き上がる。

 少女は、その喜びに相応しい言葉を懸命に探した。ありったけの知識の中から、この色、この風、この気持ちを飾るのにぴったりの言葉を探して、探して探して――小さく頷く。


「行かなくちゃ」


 月の中に迷い込んだかのように周囲で踊る光の中、少女は感動に沸き立つ心をぐっと奥歯で噛み砕いて立ち上がった。


「よい……しょ」


 だってまだ、冒険は始まってもいないのだから。


 今本当に見つけたいのは、千の言葉よりもたった一人。


 目指すべきは、明け方一番輝く星。


 ギシギシと痛む身体を持ち上げた少女は、ぐるりと身体を回転させて、岩に切り取られた夕暮れ色の空に星を探す。そして。


「……ああもう、夕方はどうしたらいいんですかっ!?」


 頭を抱えたのは一瞬。えいっと気合を入れ直し、とにかく出口を探そうと、もう一回転して今度は岩肌を見回してみる。それでも、出口らしき場所は見当たらなかった。


 眩しい光の海の向こう側は、目を凝らしても良く見えない。

 近くの壁に歩み寄り、ぺたぺたと岩肌に触れてみる。登れそうな場所は無いかと観察しつつ壁沿いに歩いてみようと思い立って、少女は首を上下に動かしながら歩き始めた。

 そうしてそびえ立つ岩をなめる様に見つめて歩いていると、色とりどりの小さな苔が集中している一角に行き当たった。


「どうして、ここだけ?」


 振り向いて空を見上げた少女は、すぐにその理由に思い当たる。


 壁の向こうに沈みゆく太陽が染める空の色が、左手側に濃く、右側に薄い。つまり左が西で、右が東。背を向けた花の壁が南で、正面が北だ。


 少女は必死に北の空を見つめ、目立つ星を結んで適当な星座を作る。翻訳の仕事を紹介してくれる時、ディンさんは確かに『北は王都を挟んで反対側』だと言っていた。だからここからあの方向に向かって行けば、王都に近づくはずなのだ。とりあえず尖った三角形に見える明るい星の並びに『髭座』という名前を付けて記憶にとどめる。


「よし」


 と頷いた少女は、何かの気配にはっとして頭上を見上げた。翼を広げた竜の影がゆっくりと空の上から降りてくるのが目に入る。慌てて周囲を見回して隠れられそうな場所を探すものの、そんな場所は見当たらない。そうこうしている間に竜の影はどんどん大きくなって、夕闇を照らす花の光を受けた白い鱗が幻想的に輝く距離になっていた。


 おろおろと惑っている内に、ゆっくり静かに光りの海へと翼を下ろした美しい魔物から一人の女性が降り立った。真っ白いドレスに身を包み艶やかな黒髪を片結びにした彼女が、慌てて花の中に身を伏せた金髪少女の方に近づいてくる。


「あらあら、まさか本当に小さなお月様が隠れてるだなんて。ふふ、こんばんはエチェカリーナ様」


 ジオの言葉でありながら、ドレスの女性は美しい発音で少女の名を呼んだ。


「さ、さて何のことでしょう……?」


 とっさにすっとぼけた少女の脇に、美しい女性がしゃがみ込む。おっかなびっくり目を合わせると、きりりと締まった目元が印象的な美しい黒髪の女性だった。


「ディンはどこ?」


 怖いくらいに真剣な表情で、その人は少女の目をじっと見つめた。


「あ……ええと……」


 赤い血をこぼしながら地面を転がる彼の姿が脳裏に浮かび、思わず少女は目を逸らした。


「………死んだの?」


 眇められたその瞳に、少女は慌てて首を振る。


「い、いえ! そんなはずありません……」


 そんな結末はずは、決してない。

 すると黒髪の女性はホッと溜息を吐いて、かいがいしく竜の世話をする男を睨み付けた。


「そう、なら良かった。命拾いしたわね、あの男」」


 敵意をむき出しにするその横顔に、少女は恐る恐る尋ねかける。


「……ええと、もしかして……レイシア様、ですか?」

「え? ああ、そうよ。ごめんなさいね、私はレイシア、レイシア……あれ? 名字が変わるのはフリオだったかしら?」


 はてなと首を傾げたジオの王女は『ま、いっか』とつぶやいて少女に向き直る。


「で、あなたはエチェカリーナ様なんでしょう? 行方不明のピスタティアの王女様」

「……まあ、一応……そういうことになっております。ごめんなさい」

「そう。せっかく招待したのに、今夜の式には来ていただけないのね?」

「あ、いえ、それは、その………ご迷惑をおかけします」

「ふふ、いいわよ全然。言っちゃ悪いけどあなたの従者――リオルさんだっけ? あなたが行方不明だって騒いでたけど、正直怪しい匂いがプンプンするもの。逃げて正解だったわ、きっと」


 言って、黒髪の王女は金髪王女の隣に腰を降ろす。


「十中八九あいつが黒幕ね。あんにゃろめ、あたしの結婚式を台無しにしたからには相当なお仕置きしてやらなきゃ気が済まないっての」


「は、はあ……」


「おまけにディンまで手に掛けた何て言ったら、マジでぶっ殺してやろうかと思ったんだけど」


 はあっと息を漏らしながら、後ろに手を付いて空を見上げたレイシア姫が隣の少女に笑いかけた。紫色に染まる空が良く似合う何とも言えない色気をまとった大人の女性の微笑。


「大変よね、王女ってのも」

「え? あ、はい?」


 思わず見とれてしまった少女は、びくりとして聞き返す。


「あはは、何その構え? もしかしてお姉さんと闘おうとでも言うのかい? んん?」 

「あ、い、いえ……まさかそんなことは……すいません」


 先程までの空の色に負けない位に顔を赤くし、ファイティングポーズで固まっていた両腕を背中に隠した。


「……あの」

「何かね、かわい子ちゃん?」

「いえ、あの、どうして……レイシア様がここに?」


 黒髪の王女はぱちくりと目を瞬かせる。


「どうしてって……あなたと同じよ、あの男にさらわれて来たの。見たでしょ? あの竜から降りてくるとこ――」


 そこで合点がいったと言う様な顔をしたレイシア姫は。


「あ、もしかしてあなた、私があの男の仲間だとか思ってたわけ? 失礼しちゃうわ、そりゃああたしはディンをいじめて南の谷を潰しましたけど。やめてよね、誰があんな殺し屋なんかと」


「そ、そういうわけでは! ……ない……です、けど」


 実を言うと最初にそう思ったのは間違いない。悪者の隣に美女と言うのは、物語では鉄板の設定なのだ。だがそれよりも、彼女の余裕の方がよっぽど気にかかる。今にも命を奪わんとする殺し屋と同じ空間にいて、こうもあっけらかんとしていられるものなのか。


 ちらりとその表情を盗み見た瞬間、レイシア姫の声が響いた。


「……何か言われた?」


「え?」


 呟くように問いかけた姫様は、じっと光の海を見つめたまま。風に揺られて波打つツキノオモカゲの輝きを黒い瞳に反射して。


「ディンは、私の事、何か言ってた?」

「え? あ、えーっと……その……」


 何を言っていい物なのか、少女は返答に困ってしまう。


「ふふ。いいのよ、遠慮なんか。あいつなんかに何言われたって、レイシア様はまったくもって平気だもの。ねえ、何か聞いてない? 悪口でも何でもいいわよ?」

「……そんな――」

「我儘女だとか、馬鹿王女だとか、お前のせいで全部ぶち壊しだ――とか、そういうの、言ってなかった? あの子?」

「どうして、そんな……言う訳無いじゃないですか、レイシア様に向かって」


 あの人が、誰かを恨んだりするなんてあるわけがない。


 自分自身を傷めつける様に喋る優しいあの人が。誰にも寄りつかれぬように、扉を閉ざしたままの臆病者のあの人が。誰よりも大切なはずの貴女に向かって。


「……そう。そうなんだ。……つまんないの」

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